20 | ナノ






「珍しいのね、事務所に顔を出すなんて」

字面自体は優しさがちらつくものの、彼女の口調はどちらかと言えば冷ややかだ。好かれている自覚こそ無かったが、相も変わらずだなぁと心の端で思うだけにしておいて、そのまま手狭な事務所と呼ばれる部屋の片隅のソファにどさりと身を投げた。

「別に。たまたま近くまで来たついでに寄っただけ」

「あら、そう」

短い相槌も先程と似たようなもので、感情の起伏みたいなものはほぼ皆無に等しい音で、彼女の口からごく単調に紡がれる。至っていつも通りのことだ、電話口でだって大抵彼女の態度は今とそう変わりない。

大っぴらにできない仕事の事務所というだけあって、ここは本当に狭い。よくあるオフィスビルの上階に、建前でそれっぽい会社名を掲げたこじんまりとした空間は、未だに数回しか訪れたことがなかった。

何の気無しにコートのポケットから携帯を取り出して、すいすいと指先を画面に滑らせ操作する。そんな俺の様子を伺っていたのかどうかは知らないが、ただ無表情でノートパソコンを叩いていた波江が声を掛けてきた。

「さっきも電話で連絡した件だけど、このあとの仕事の詳細、メールで送信しておくから」

「ええ?いいよ別にいま口頭で聞くよ」

「いつもの行き慣れたホテルとちょっと違うから、念の為よ。人の親切は黙って受け取って尚且つもっと感謝しなさい」

「…へぇ、親切と押し付けは紙一重なんだね。知らなかったよ」

「ひとつ賢くなったじゃない。良かったわね」

タスクバーに新着メッセージの通知が表示されたが、十中八九今の会話の流れからして送信者はそこで涼しい顔をしている冷徹女に間違いないだろう。わかっていたからろくに確認もせず、ここを出る際に開けばいいとメールを確認することもなく携帯はまたポケットにしまった。そのままひとつまた溜息を吐き出す。

こんな下らない気紛れをわざわざ実行しなければならないほど、この一か月は実に憂鬱だった。しかしその憂鬱さときたら未だに現在進行形だったりするので、結局俺は散々人に駄目出しをした筈の、溜息の無駄遣いとやらをやめられないままでいる。

「なによ、一丁前に溜息なんかついちゃって」

「…俺だって人間だからね。たまには物憂い溜息をつくことくらいはあるよ」

「あなたにしてはあまり面白くないジョークね。またながーいお休みでも欲しくなったのかしら?」

「べつに。そんなんじゃないよ」

無駄口を叩きながらも、かたかたと忙しなくその手はキーボードの上を滑っていた筈だったのに、俺がそう呟いた瞬間ぴたりとその動きは唐突に止んだ。なんだと思いソファの上でだらしなく寛いだまま、ちらりと視線を波江の方へと向ける。ぱちくりと見開かれた珍しい色の瞳がこちらを見つめていた。

「……嫌だわ。ここ最近寒いとは思っていたけど雪でも降るのかしら」

「何が言いたいのかな君は」

「気持ち悪いから素直に休みたいって言いなさいよ」

「言ったら与えてくれるとでも?」

「まさか。与えて貰えるとでも思ったの?」

「……思ってないから言ってないんだけど」

それもそうね懸命な判断だわ。とんでもなく理不尽なことを呟いて彼女はまたその指先でキーボードを叩き出す。先程と同じような空気があっさりと戻って来て、それでも今度は吐きそうになった溜息を飲み込むことにした。流石に無駄すぎる、二酸化炭素だってタダじゃない。

ぶたれた頬が幸いして、あの日から三日の休暇を取ることを許された。しかしそれが束の間の休息と呼べる期間に相当していて、それ以降から今現在に至るまでのおよそ一か月、俺はほぼ毎日休みのない状態でせっせと働いていた。

休みが欲しいかと問われ別にと答えたことに関しては、別に嘘でも何でもなかった。事実その三日間だって俺にとっては色んな意味で拷問に相当していたし、仕事を熟す様になってからのほうが寧ろ随分と気は紛れていた。そう、シズちゃんのことを考えずに済むから。

幾ら塞ぎ込んでいても無駄なことは直後の三日の休みで嫌というほど痛感し、仕事に出て無理矢理にでも笑みを浮かべているほうがどちらかと言えば性に合っている。そんな感じで復帰してから休みもろくに取らない生活が続いていた。

それなりに上手く行っていると思っていた関係は、所詮は独り善がりそのものだと。他でもないシズちゃんの掌がこれでもかというほど直接俺に事実を叩き込んでくれた。それこそ文字通りに。
迷惑してたんだろうか、そんな素振りは出会った頃に比べてほぼ皆無に等しかったような気がするけれど、俺が思い込んでいただけだと言うなら、それはそうだったのかも知れない。

わからないことが大半だったけれど、何となく嫌われたかなと無理矢理結論付けることで、それ以上はできるだけ余計なことを考えないようにしていた。
それでもじんじんと熱く頬が痺れた感触を、一か月経った今でも時折思い出してしまうことがある。例えばまだ暗い深夜、短い時間の仕事を手早くこなして帰宅して広いベッドに潜り込むとき。

やがて夜が明けようという時間であっても、夜はやっぱり夜であってカーテンの向こう側もこちら側も闇一色に覆われている。それからの時間の流れ方はやたらと遅くて、朝は随分と遠いものに感じられてならない。そういう時、静かで音もない黒い世界でぽつりと思い出してしまう。ふざけるな、と告げて俺を殴った彼の声と感触を。

不思議だ、あんな狭くて安っぽいパイプベットなんかよりずっと眠り慣れたはずの自室のベットがこうも落ち着かない。
布団だってぺらぺらの毛布や潰れてしまったものとは違い、品質にこだわり抜いた高級羽毛布団だし、軽くて何より暖かい。くるりと一旦包まれてしまえば極上の眠りに導いてくれると意気込んで買い付けたそれより、どうしてかあのベッドの上での温もりが恋しいだとかそんなことを思ってしまうんだろうか。
大概はそうして夜が更け、遠い遠い朝をろくに眠ることなく迎えてしまう。シズちゃんの隣で眠る夜は、あんなに朝が早くやって来たというのに。

「そんな風に落ち込んでるなんて珍しいじゃない。失恋でもしたの?」

かたかたとやはりキーボードを打ち込む手の動きはそのままに、波江がため息交じりに問い掛けてきて今度は思わず俺が固まった。返答がないことに不思議に思った彼女が画面からこちらを見やって、視線が合うとぎょっとしたように目を見開いて俺と同じようにそのままの状態で固まってしまう。要するに先程の俺と、立場がまるで真逆になってしまった。

「…なんなの。だから黙るくらいならいつもみたいに反論してくれないかしら気持ち悪いから」

「落ち込んでる?」

「はぁ?」

「落ち込んでるように見えた?俺が」

「………まぁ、見えなくもないけど。軽いジョークよ、あなた好きでしょ?少しくらい笑いなさいよ」

いつからそんな軽いジョークのひとつも言えるような人間らしさを彼女が得たのかは謎だったが、それよりも投げ掛けられた言葉がどうにも引っかかってしまって正直それどころではない。

失恋だそうだ、実に縁のない響きに気を取られたのかも知れないと思ったが、何となく耳に残ってしまったそれが頭の中にぼんやりと浮かんでいる。
失う恋と書いて失恋、失う恋、恋を失う。いまいちしっくり来ない気もしたが、何かを失くしてしまったという響きにつられてしまったのだろうか。よくわからないけれど、ひとりで過ごしていて落ち着かないこの感覚はそれに似たようなものがあるのかも知れない。

「失恋、ねぇ」

ふうと息を吐いて天井を仰ぐ。きしりとソファが軋み音を立て、波江もまたすぐに何事もなかったかのようにパソコンにその視線を戻してしまった。彼女にとっての俺の存在の位置付けが非常にわかりやすくて実に結構なことだ。
俺もまた瞳を伏せて、眠れずとも束の間の休息を試みる。瞼の裏側は夕暮れの赤に染まってしまって、何も映らないことにまた少しほっとしたりしながら時間は流れて行った。



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ちかちかと切れかけた街灯が頼りなく照らし出す夜道をひとり進んで、辿り着いた先の扉を見つめ思うことは何もなかった。いや、寧ろ多すぎてきっと脳が考えることを放棄したに違いない。もしくはこの場所自体を受け入れることができず、拒絶してしまっているのかも知れない。

携帯を片手に再度メールのアプリケーションを起動し、添付された詳細をチェックし直す。夕方事務所に寄った際に波江が送り付けてきたものだ。どうしてあの時あの場で直ぐに内容を確認して、文句のひとつでも言わなかったのだろうかと酷く後悔していた。そうすればもしかして、ここに一人で立ち尽くしたりするこんな状況は存在しなかったかも知れないのに。

かちりと古びたインターフォンを押して、しばらくの間そこで待った。直にがちゃりと、施錠されていたドアが向こうから開き、部屋の中を伺うより先に立ち尽くす長い影と対峙することとなる。

派手な金髪に長身、バーテンの仕事を終えた格好。一か月ぶりとはいえ、それでも懐かしいと感じることできる。

波江の言う通りどれだけ落ち込んでいようと、気分が上がらないでいようと、仕事は仕事だ。社会構造は生憎とそんなに甘くはできていない。だから俺は楽しくもないのに笑ったし、相手を不快にさせないように努めてきたつもりだった。

だからそう、大丈夫だ。笑える、じゃない、笑え。そう笑え。

エンドレスリピート、脳内でただひたすらに繰り返した、笑え。目の前のシズちゃんは実に何とも言い難い慎重な面持ちで俺のことを見つめていたが、状況はいつ何時だろうと俺にとっては大差などない。指定された場所に迎えられて、笑う。それがマニュアル通りの対応だ。


「……どうも、こんばんは」


薄く貼り付けた作り物の笑顔を見せつぶやく。何らいつもと変わりらない、俺の仕事風景のワンシーンだった。





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