18 | ナノ





足取りは軽い。

週一の休日の楽しみになりつつあるシズちゃんの部屋へと向かう道程の途中、コンビニに寄ってプリンをふたつ購入した。もちろんこれはどちらも俺が食べるものではなく、シズちゃんの胃に収まるであろうものだ。俺は一気にふたつも平らげてしまえるほどの、純粋な愛情はプリンにはまるで抱いていない。

ただしシズちゃんの場合は違うらしい。甘いものが好きという時点でも結構に意外な事実だったのに、じゃあなにが一番好きかと問い掛ければ案外迷いのない声で「プリン」と一言返って来た。あの時の衝撃は今でも中々に大きい。

喜ぶかなぁどんな顔するかなぁと、期待に胸を膨らませながら俺は浮足立つままに目的のアパートへと急ぐ。あそこの角を曲がればシズちゃんの部屋はすぐに見える。時間的には仕事を終えて部屋に帰っている時間だから、きっと窓には明かりが灯っているはずだ。
ひゅうひゅう吹き付ける冷たい風がそう気にならないくらいには、純情な彼がまた素直すぎるほどの反応を見せてくれることに、ただひたすら思いを馳せていた。






「…よぉ」


こんばんはと勢いよく訪ねてみたら、思いのほかシズちゃんは暗い顔をして出迎えてくれた。ここ数回の繰り返すこのやりとりのうち、一番声が低くテンションもまぁ、シズちゃんにしてみたらきっと低い方だったろう。元々そんなに高らかなテンションをひけらかすタイプではなかったから、あくまで俺の感じる比でだったが。


「何か疲れてる?」


靴を脱ぎ部屋に上がりながら問い掛けたら、しばらくの妙な間のあとに「そうか?」と冴えない返事がかえってくる。その様子ですらもう疲れているような気がした。が、どうやら彼本人はそれが無自覚らしい。


「ちゃんと寝てる?何か顔色悪いよ?」

「寝てるっつの。べつに、気のせいだろ」

「ならいいんだけど」

「…なぁ」

「ん?なに?」

「今日休みだったんだろ」

「うん。そうだけど、どしたの?」

「いや、いつもより来る時間遅かったから聞いてみただけ」

「あ、昨日仕事が結構長引いちゃってさ。さっき起きたんだよねぇ。さすがに寝過ぎたかな」

「…そーか」


短く返されて、俺もそれに念のためうんと返した。心なしかシズちゃんの態度はいつもに比べて、何て言うか、平たく言うならどこかよそよそしいものがある気がする。無遠慮が彼の基本スタイルだとばかり思っていたのに、ほんのちょっと醸し出す雰囲気はいつもと違って見えた。だからと言ってしまっては何だけれど、俺は彼のために買ってきたプリンのことを口に出しそびれてしまう。かさりと音を立てたビニール袋は、あとでこっそり冷蔵庫にしまうとしよう。

タイを外しただけのシズちゃんの格好は、いかにも仕事帰りという感じだ。だからこそ余計疲れているような風貌に見えてしまっただけなのかも知れない。首元のボタンはいくつか緩められ、洗い物でもしていたのか袖口もすっかりくつろげられている。

ひとまず台所のシンクの上に袋ごとプリンを乗せておいて、電源を入れたテレビの音に反応して後ろを振り返った。どうやら本当に今帰ったところだったらしい。

ふと、そんなバーテン服を脱いだ白いシャツの背中を見つけて、思わず胸の内がうずりとなる。衝動を堪え切れずそっと歩み寄ると、俺はそのままシズちゃんの背中に勢いよく抱き着いてやった。


「っ、ちょ、おい、何だ」

「んー…シズちゃんってタッパある割に細身だよねぇ…筋肉はあるけど無駄がない感じ」

「あー…どっちかっつーとあんま太らねぇかも。じゃなくておい、離れろ」

「いいじゃん。減るもんじゃないし」

「…減るかもしれねぇだろ」


屁理屈を捏ねるシズちゃんの我儘など聞こえないふりをして、腰元に回した腕にぎゅうと力を込めてみた。いやこの場合どちらかと言えば我儘は俺の方なのだが、シズちゃんが突っ込みを入れてこない辺りたぶん彼はそこまで頭が回っていないと見える。

服越しでも熱が伝わるほどに、彼の体温は高かった。じんわりと触れた個所から分け与えられるそれに、ほんの少し目を細めて肩口に額を擦り付ける。するともぞり、シズちゃんの身体が腕の中で揺れた。


「離せっつーの…着替えもろくにできねぇ」

「脱がせてあげよっか?ついでに着せ替えてあげるよ。もしくは脱がせてそのまま別のサービス」

「………いらねーよ馬鹿」


おや、半分本気だったんだけどなぁ。俺のジョークらしからぬジョークは、どうやらシズちゃんのお気に召さなかったらしい。彼は俺の腕から抜け出すと、そのままこちらにゆっくりと向き直る。余り見た事のない色をしたシズちゃんの顔が、俺のことをぼんやりと見下ろしていた。


「臨也」

「なに?やっぱり抜いて欲しくなった?」

「違う。鍵」

「………かぎ?」

「鍵、返せ」


彼の言葉を聞いた瞬間、取り繕っていたわけでも何でもない俺の笑顔は一瞬にして消えた。理解するのに時間はややあったけれど、直ぐにそれが何の「鍵」のことかを頭の中で判別して、だからそこからは笑えなくなってしまった。そう、多分それは今俺の着ているコートの、ポケットに入っている鍵に間違いない。

聞き間違いじゃなければシズちゃんはいま、返せとそう言った。何となくだけれど、きっと多分俺の耳はその言葉を拒絶している。認めたくないと瞬間的にそう思ってしまったから。


「…なに、突然。やっぱり疲れてる?」

「別にって言ってんだ、」


ろ、という言葉の続きは聞きたくなくて、勢い余ってそのままキスを仕掛けた。ぐいと掴んだ襟元をほんの少し自らに引き寄せて、背伸びをした不安定な状態でくちびるを重ねる。

そのまま舌を滑り込ませようとしたら、突然強い力にぐいと身体を押し返されてしまって、呆気なく唇と唇はひとときの余韻も残さずに離れる。温度すら残さない。二の腕を大きなてのひらに鷲掴みにされてしまって、どう考えても体格差で俺がその力に抵抗することはまず無理だった。

別にキスを拒絶されるのはこれが初めてじゃない。会った瞬間だって、そのあと暫くだって、シズちゃんの決まり文句と言えば「やめろ」の一言だけだったから。そうだから、だからこんなふうに物悲しくなったりすることは多分きっと、おかしい。


「もうここに来るな」


一度キスを与えてしまえば突き放されることは一度だってなかった、だから今回もそうだと思った。
けれど結果的には俺が間違っていて、きっと彼の中で何かが変わってしまったんだろうなぁと呑気なことを考える。だって俺にはわからないことだ。決して把握しきれないダークゾーン、俺の小さな幸せと彼の幸せは合致しなかったと、言わば総合してみればそういうことになるだろう。それはいま、彼が放った一言で現実のものとなった。


「…なんで?」

「元々そういう約束だ」

「来てもいいって、言ったのシズちゃんだろ」

「気が変わったんだよ。だからもう来んな」


投げやりな口調で言われて、二の腕を掴んでいた手も離れてすっと静かに下りて行った。来るな来るなって、そんな何度も言わなくたってわかってる。理由ははっきりとしないままだったけれど、何にしたって俺が原因なのは間違いないんだろう。


「なに?もしかして飽きちゃった?」

「…は?」

「風俗もどきだからってそうやって適当に扱っちゃうわけだ。俺のこと」


一瞬感じた苛立ちが、強かったかなしみを全て押し殺してしまった気がした。ぶわりと身体中を駆け巡り俺の脳を浸食して、目の前のシズちゃんを見つめるたびに喉の奥に痛みが走る。初めての感覚だった。口から勝手に零れ出て行く言葉の波の止め方がよくわからない。


「そういう事言ってんじゃねぇよ」

「言ってんじゃん!だったらもっとなんかマトモな理由でもあるわけ?」

「…いいから、落ち着け」

「はぁ!?言われなくても落ち着いてますけど!」


口調と素振りと言葉の中身はいっそ面白いほどに裏腹で、悔しいがシズちゃんの言う通り今の俺は全くをもって冷静なんかじゃない。けれど言っていることを間違っているつもりもなかった。だからこそ、まるで一人全ての事情を把握していて冷静ぶるシズちゃんが何よりも気に入らない。むかつく。何だよこないだは自分からキス仕掛けて来たりしたくせに。


「………くせに、」

「…あ?何だよ?」



「結局シズちゃんだって、抜いてくれれば誰だっていい癖に」





ぼそりと、そう呟いた瞬間耳の辺りに衝撃が走った。

響いたのは乾いたばしんという音に、頬にじんと鈍く痺れたような痛み。一瞬で焦点のずれてしまった視界に、何が起こったのかわからずただじっと床上を見つめる。やがてゆっくりと、視線にならうようにして痺れのやまない顔を上げてシズちゃんを見据えた。


「…ふざけんな」


行き場のない片手、驚きとつらさが入り混じったような表情。絞り出したような低い声。次第に熱くなってくる頬の感覚に、そこでようやく殴られたのだと把握した。


「………っ、」


その瞬間、俺は直前まで抱いていた悲しさと苛立ちがごちゃ混ぜになり、更に冷静さなんてものは綺麗に見失ってしまう羽目となる。頭にかっと血が昇り、怒りに任せて一度強くシズちゃんを睨み付けた。

ポケットに片手を勢いよく突っ込むと、今日は使う事のなかったこの部屋の合鍵を取り出す。返すことをごねていた数分前の名残など一体どこへやら、今はもうその姿さえ見たくもなかった。

力任せにシズちゃんの方に投げ付けたら、床上に跳ね返ってそのまま何処かに消えてしまう。もうどうだっていい、少なくともこれでちゃんと返したことには間違いないのだから。

その後はシズちゃんの顔さえ見ずに、勢いよく部屋のドアを閉めてアパートを飛び出した。冷たい風が、部屋に向かっていた時よりもぴりぴりとまるで刺すような痛みをもたらすばかりで、それが余計に頬の熱をより明確にさせた。

わからないことが多いはずなのに、どうしてか嫌われていることだけが、実際叩きつけられたてのひらによって何よりも真実でしかない。痛かった、だから腹が立った。それなのに多分何よりもきっと、俺はかなしくてかなしくてそれの行き場が何処にもなくてどうしようもなかった。




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