13 | ナノ
帰宅するとお決まりの流れでそのまま風呂に促され、先にシャワーを済ませている臨也はその間に夕食の支度をする。シャワーを済ませて部屋に戻れば、机の上にはほかほかと湯気の立つ遅めの食事の準備ができていた。
出掛けに何か食べたいものはあるかと問い掛けられて、とりあえず純粋に食いたいものをと、思いつきで何となく肉じゃがをリクエストしてはみた。しかしまさか本当に一から作るとは思わなかったのだ。いい所でこの間みたく、出来あわせのスーパーの惣菜をチンして出されるくらいだろうと想像していた予想を、それはもうあっさりと裏切られて不覚にも驚いてしまった。
いただきますと手を合わせ、臨也も呑気に間延びした声で俺の真似をしてから静かに箸を進めた。互いの間に響くのは深夜のテレビ番組の音に、かちゃかちゃと食器に触れる箸の音。その空間はどこかくすぐったいものでしかなく、思わず口に含んだ箸を何度か噛み締めたりした。
だってつい数日前までは、夕食と言えば大概の確率でコンビニ弁当を一人寂しく咀嚼していた。だからこそ今の状況はまさに、想像し難い光景そのものでしかない。
食事の合間に美味いかどうかと尋ねられて、そのまま「普通に美味い」と答えたら臨也はにやにやしながらふーんとかへぇだとか、そんな曖昧な相槌を繰り返していた。
素直に褒めてやったというのに、相も変わらずこいつは何を考えているかわからない対応ばかりを繰り返す。それでも最初から見れば、その小憎たらしさは随分とマシになったように感じた。和らいだとも言うべきか。それが一体どうしてなのかはわからないままだけれど。そしてよくよく考えれば、結局は自らの気のせいなんじゃないのかという結論に落ち着き、俺の一人問答は毎回意味を持たない。
まったりとした食事を終え、流石に作らせてばっかりであれだなぁと思い、後片付けは自ら申し出た。何やらその時も臨也は心なしかにやにやしていて、何だよと聞き返しても何でもないと返されるだけだ。何となく色々すっきりしないことが多かったが、食欲も満たされていた所為か、その様子にいつもほど苛立ちを感じることはなかった。
そうして今は2人、横に並んでベットに背を預けた状態でテレビを眺めている。目の前のテーブルには食後のお茶がマグカップにふたつ、まだ細々とした湯気をゆらゆらと揺らしていた。
傍から見たらその光景の何と穏やかたることや。慣れとは恐ろしいと、こいつが部屋に居ついて以来ひたすらに思い続けて来ていたが、実際のところは本当に恐ろしいものだった。今はどうしてか違和感たっぷりだったはずのこの空間に、それを覚えることがない。
だからと言ってじゃあ自然かと言われてまえば、それには首を傾げなくもなかったが、それでも異質過ぎないところがまた絶妙なのだ。だからこそこうしてふっと我に返るとき、何だか言い様の知れない感覚に襲われたりしてしまう。
そこまで考え、吸っていた煙草をぎゅっと灰皿に押し付けていたところで、ふと肩に不思議な重みを感じた。まさかと思ったが、横に向けた視線で自分の肩の辺りを伺えば、そのまさかの光景が視界には広がっている。そう、どうしてか臨也が俺の肩にこてんと頭を寄り掛からせてきたのだ。
「………おい、何やってんだ。どけ」
「えー?いいじゃん、ベッド寄り掛かると腰に負担かかるんだよね」
「さっきまでベッドに寄りかかってたろーが…何でこっち来んだよ」
「さぁ?そこに肩があったからじゃない?」
「…意味わかんねぇ」
どっかのアルピニストみてぇなこと言ってんじゃねぇよ、と律儀に突っ込んだらまたしてもくすくすと笑われてしまった。いや、臨也がしょっちゅう笑ってばかりいるのは今に始まったことではない。寧ろ最初っからずっとそうだったじゃないか。
そう、言わば今更だ。今更なのに、どうしてかその笑みが幾分穏やかになった気がするだなんて、そんな勘違いも紙一重の可能性がふと頭を過り始めた途端だ。その瞬間から何だか俺は、臨也に関しての色々なものが擽ったくなり、それがどうしようもないまま自らのうちでうずうずと燻ってしまっているのが酷く落ち着かない。
逆を言えばどうもしなくていいのかも知れないが、落ち着きが無い以上、結果としてそわそわとそれは常に自らの内で燻るだけだ。今にしたってそうで、以前のように不躾にべたべた触られたなら、恐らくは俺も勢いよく怒鳴り付けることができたに違いない。
そう、だから要する俺からしてみたら、こてん、だなんて効果音すら聞こえて来てしまいそうなほど、ナチュラルに寄り掛かってきたりする臨也がすべて悪い。
「…おまえさ」
「なに?」
「頭丸いな」
「あー、うん。シズちゃんよりは丸いかもね」
そして俺は結局思ったことの何を口にするでもなく、未だ肩から退けられることのない小さな頭をただぼーっと眺めてみる。臨也の視線はテレビの方に向けられたままだから、さして妙な意識をすることもなくじっくりとその顔つきを観察することができた。
眠っている時もそれなりに眺めることはできたが、やはり暗闇の中と蛍光灯の下とではまず明るさが違う。そして閉じられていた瞳も今は伏し目がちで、長く伸びた睫毛が時折まばたきに合わせてぱちぱち揺れていた。
そして問い掛けてみた通り、頭もやっぱり丸い。散々そう思い続けた結果として、手始めに今さっき面と向かって口にしてみたわけだが、返答は実にそつのないものだった。
まぁ当の本人からしたら頭のかたちの把握状態なんてその程度なのかも知れないが、俺からしてみたらいっそ奇跡的な丸さである。元から顔自体も小さいけれど、最初の頃に掴んだり引っ張ったり散々好き勝手にしたお陰で、俺のてのひらはその髪の柔らかさを嫌というほど知っている。
ふとその感覚を思い出して無意識にそのまま手を浮かせ、肩に乗った頭に後ろからそっと触れようとした瞬間、ただじっと見下ろしていた臨也の目元が突然ぱちくりと開いて、伺うようにこちらを見つめた。
「シズちゃん?」
どうしたの、と問い掛けられて視線が合った瞬間、何を思うよりまず先にどきりと心臓が物凄い勢いで跳ねた。それと同時に、頭に乗せんばかりだった掌は思わず反射的に妙な方向へと仰け反る。肩に頭が乗せられた状態でちらりと見上げられただけだったから、臨也の視界にはたぶん、その不格好な掌はまだ捉えられてはいないようだった。
いやでもだからよかったとかそういう問題でもない。ちょっと待て、いや本当待て。いま、おれ、おい。今こいつに何しようとした?
「な、」
「な?」
「な…」
「うん」
「………何でもねぇ」
「なにそれ」
驚きが大半の気まずさをそのままに視線を逸らしつつ、ゆっくりと手を元あったベットへ、音も無く戻しそっとシーツの上に落ち着けた。
多分、俺がいま誰よりも一番この状況を理解できていないに違いない。いや元々俺と臨也の2人しかいねーけど。おい今何が起こった。いや寧ろその何かを起こしかけたのは、困ったことに自らの身体から伸びるこの腕に違いないのだが。
本当のところは思わず腕を床上に叩きつけてやりたい衝動に襲われたが、それだと結局臨也に不審がられてしまう。ので何とかそれだけは耐え抜いた。なんだかどうしたって既に不審がられている気がしなくもないが、どうにか誤魔化せたと思いたいしそう信じたい。そして顔を逸らしたまま、安堵と居た堪れなさが一緒くたになった溜息を少し長めに吐き出した。
「まーた溜息ついてる」
「…うるせぇな。ニートと違って俺には色々悩みがあんだよ」
「あーはいはい、期間限定ニートでどうもすいませんでしたね。じゃあ悩みって、例えば?」
「…………」
お前だよお前、よくわかんねぇけどとにかくお前が全部悪い。
そう捲し立ててやることができたらどんなに楽だろうとも思うが、結果的に自らの首を絞める気配が大いにしたので流石に止めておいた。
だって俺は結局、何を臨也の所為にしたいのかがわからないままだ。何となく全ての根源がこいつにあるのは間違いない。しかしじゃあ何が原因かと問われれば、それにはきっと首を傾げてしまうことになるだろう。
「…………さぁ」
「はぁ?今いろいろあるって言ったとこじゃん」
悩み、悩みと。口から出まかせの言葉を何とか取り繕わねば、そう思い苦心しても頭の中は更に真っ白になるばかりで。適当に応えてしまった俺からしたら「へーそうなんだ」くらいのノリでスルーして貰いたい部分だったから、当然ながら臨也に関するわけのわからない悩み以外に悩みと呼べるほどのものなど、今の俺にはほぼ皆無に等しい。
「わかんねぇ、」
わかんねーよそんなもん、思ったままそう言おうとしたのだ。それなのに言葉は紡がれることなく、突然肩から頭を上げた臨也が押し付けてきた唇により、跡形もなく綺麗に消滅してしまった。
不意打ちのキスは随分と久しぶりにゆっくり唇に触れてきて、以前された時の焦らすような端に与えられたものより、ずっと確かな感触を俺にもたらす。
身構えるでもなくただ細めただけの瞳を開いたままでいたら、唇は案外呆気なく離されてしまった。伏せられていた臨也の瞼がゆっくりと開いて俺の姿を捉え、視線が合うとまたほんの少し笑みを浮かべてくる。
「キスするときは目を閉じるのがマナーだよ」
そう遠くない距離で囁く言葉に、唇に伝わる空気のふるえが痺れをもたらす。先程見つめていた睫毛は更に近くで見つめてもやっぱり変わらず長くて、瞬きを繰り返すたびまるで手招きでもするかのようにふわふわと揺れた。そんな光景を頭の端では錯覚だとわかっていても、それでも俺の理性は周りから順に、ゆっくりゆっくりそのひとつずつが、臨也の些細な動作によって削ぎ落されて行くみたいだった。
堕ちる、ってこういう感覚のことを言うんだろうか。臨也が有無を言わせない雰囲気を纏っていたのは多分最初からだったけれど、俺は大抵思うことがひとつとして言葉にならない。できないんじゃなくて、多分だけれどそれが最初からなかったことになってしまう。そんな何もかもを曖昧にする、不思議な力が臨也の瞳にはあった。
「……勝手にしてきといてわけわかんねぇ事言ってんじゃねぇよ」
「んー…てっきり怒られると思ったからつい」
「会話になってねぇっつーの」
「それ、さっきのシズちゃんにそのままそっくりお返しするよ」
「うるせぇよ馬鹿」
「馬鹿で結構」
じゃあ勝手にするね俺したい時にしたいことする主義だから。そう告げて先程まで頭が乗せられていた肩の位置に、細い手がそっと添えられる。そこを僅かな力で握り込む感触と、唇にふわりとした感触がしたのはほとんど同じタイミングだった。
避ければいいだけだと、ちゃんとそうわかっている。けれどわかっているのにできない以上、そうしたくない自分もどこかにいると、そういう風に解釈し認めざるを得ない。したくなければ抵抗すればいいだけだ。それだけで明確に相手に俺の意志は伝わる。
口が裂けたって言えやしないが、多分俺はさっき唇が離れた瞬間、ふたたびこうなることを自ら望んでしまっていた気がする。だからこそたぶん、避けることができなかった。
深夜の部屋、今はもう消えてしまった煙草の匂い。臨也の髪から漂う甘い香りもすっかり嗅ぎ慣れつつあった。テレビから聞こえる陽気な笑い声ばかりはどこまでもムードがなかったが、そんなことが気にならないくらいには、感じる唇の感触にただ感覚を集中していたいと思ったりしてしまう。
だけど本当は気付いていた。少しずつ、それでも確実に得体の知れないものに翻弄されて行く自分の存在に。