12 | ナノ






出掛ける直前のシズちゃんを玄関先まで見送ったのが、そう遠くないついさっき。昨日よりは些かマシになった疲れ顔で、彼は今日も元気に仕事へ向かった。
このお仕事行ってらっしゃいのやり取りも既に三日目になっている。最初こそからかうためのそれだったつもりが、今となっては最早日課のようなものだ。そして日課ついでにシズちゃんがドアに手を掛けたところで、今日なにか食べたいものある?と、まるで新婚夫婦のような会話を持ち掛けてみた。

怒鳴り付けられることも想定の範疇にはあったが、最近シズちゃんは俺を怒鳴り付けることが少なくなった。
もともと自分から色々なことを喋るようなタイプではないとある程度把握はしている。それでもいつも怒る時だけは例外だったから、てっきり今回もそうなんじゃないのかと思い込み、内心は結果を先読みし決定付けてしまっていたのだ。


「…肉じゃが」


そう、それなのに彼がドアを開き部屋から出て行く手前、ぼそりと呟いたのはそんな一言だった。
まぁ俺の返事を待つことなく彼は出勤して行ってしまったが、今思うとその時の表情すらちらりとも見せることがなかった辺り、素直に反応してしまって恥ずかしかったのかも知れない。予想外だったけれど、それこそ予想外に期待されてしまって、俺はそのあと閉じられたドアに向かって思わず一人で笑ってしまったりした。





そんなやり取りを繰り返したあとの穏やかな昼下がり、というのはあくまで俺の気分的な妄想の話であって、今の時刻は既に夕方だった。しかしぼんやりとテレビを眺め呑気に過ごしていた俺の優雅な時間は、一本の電話よってあっさりと打ち砕かれてしまう事となる。


『ごきげんよう。生きてるかしら?』

「………久々に連絡してきたかと思えば第一声がそれ?」


あら、心配してたのよこれでも。いっそわかりやすい嘘を電話口でしれっと言いのける彼女、矢霧波江は、きっと今見えないどこかでその肩をこれでもかと竦めていることだろう。

彼女は俺の同僚、には当たらないかも知れないが、言わば職場の事務や連絡係みたいなものだ。因みに俺が最初、手違いでシズちゃんの部屋に派遣されたときに電話を交していたのも彼女である。基本的に俺は彼女の指示のもと指定された場所に出向く。


「まぁ心配してくれなんて頼んでないから別にいいよ。好きに生きてるからどうぞお構いなく」

『そんな事言われなくたって知ってるわよ』

「ああ、そう」

『そんな事よりあなた今どこにいるの』


まさかとは思うけど、ホテル住まいじゃないでしょうね。と疑うような声が聞こえたが、事実として俺はこうしてごく一般的な部屋に大人しく仮住まいを確保している。そもそも仕事を休めと電話をしてきた時に、散々俺にそう釘を刺したのは他の誰でもないお前じゃないか。そう思ったが、後々の自らの保身を考え、そんなことを口に出すような馬鹿な真似は止めておいた。


「ちょっと手ごろなホームステイ先を見付けてね」

『…どうせろくでもないことして勝手に上がり込んだんでしょ。気持ち悪い』

「失礼しちゃうなぁ、ちゃんと同意の上だよ。俺の状況も飲んだ上での」


いやあ世の中まだまだ捨てたもんじゃないね、やっぱり人は支え合って生きて行くものだよ君もそう思わない?ひとしきりぺらぺらと捲し立てると、会話が途切れた瞬間、波江は電話の向こうでいっそわざとらしいほどの大きな大きなため息を吐いた。無駄に掠れた空気音が、例え電話越しだろうと耳に痛い。


『………まぁいいわ。そんなことより例の件だけど、思ったよりも早く片付きそうだから。それを伝えたくて連絡しただけ』

「へぇ、そうなの?早かったね」


そういやそうだったと、不意に自分が今現在こんなのんびりとしたスローライフを送ることになっている原因を思い返すこととなる。そういや俺、今隠れてるんだった。

客でありながら俺に入れ込んだ物好きな青年実業家、というには若干歳を重ね過ぎている気もするが、一つの企業を纏める社長という役職に身を置くにしては、その年齢は随分と若かったように感じる。今となっては顔を思い出すことも一苦労してしまうくらいには、自分にとってのその存在の薄さをどこまでも実感するばかりだった。

職場宛に毎日届く手紙と貢物、メールに電話。もはやその時点でひとときの夢を買うという観点からかなりのズレが生じてしまっているため、やがて俺にその客を取り次ぐことはなくなった。
そこそこの常連がひとり減ってしまったという辺りは、物悲しいようなそうでもないような微妙な気分にさせられたりもしたが、正直それらのストーカーじみた行為は話を聞くたび余り気持ちのいいものではなかった。

やがて社長という社会的立場にあるにも関わらず、その客は興信所を使い俺の事を調べ上げたらしい。自宅の場所は案外あっさりとバレてしまい、毎日知らない誰かに伺われている気配が常にしていた。俺としたことが迂闊だったと、今となっては本当にそう思う。

仕事上の付き合いなら幾らでも優しくしてあげられた。好きだとでも一番だとでも何とでも甘い言葉を与えることができたし、俺は金と引き換えに時間を売る。ある程度のルールが存在するだけで、それを守ることを条件に、基本俺は客に言われることを拒むことはしなかった。ただルールはあくまでルールとして存在し、それをあちらが破ってしまった。そう、それだけの話だった。


『偽名使ってうちを利用してる時点で甘いのよ。バレなきゃいいと思ってる奴ほど片付けるのは簡単だわ。最初っから後ろめたいんだから』

「…こっわーい。これだから女は苦手だよ」

『煩いわよ変態』


今度は俺が見えない場所で肩を竦めたが、波江はまた直ぐに話題を切り替えて「仕事を回したいんだけど」と伺いを立ててきた。
会話がくるくると直ぐに回る、これも女の特徴だよなぁと呑気にそんなことを思う。俺が会う相手は男ばかりだったから、やはりそういうところは男と女で随分違っていた。しかし変態はないだろ変態は。誰が変態だ。


「俺、まだ三日しか休んでないんですけど」

『あら、もう三日も休んだでしょ?』


辛辣さが割増しに感じられるほどの綺麗に響いた声に、思わずうわぁと思ったが声に出さずに何とか耐えた。
そりゃあ以前は一日休みがたまにあるくらいの忙しなさで、それから見たら確かに十分な休息と言えるだろう。けれど一週間と言われてしまった以上、俺の脳も身体もすっかり一週間休みの状態でスタンバイしてしまっている。いきなり働けと言われても中々どうして無理な話だ。

そう、例えば学生だって一か月以上ある筈の夏休みが突然一週間で「はい終わり」と言われて誰が始まる新たな学期にやる気など出すだろうか。つまり俺が言いたいのはそういうことだ。


「せめて五日くらい休ませてくれない?俺も今ちょっと自分の仕事にマンネリを感じててさぁ、いろいろ研究してもっとこう…自分の技術を高めたいって言うか?」

『気色悪いからそれ以上喋らないで。あーもう………わかったわよ』


嘘も言ってみるものだと、心の中でガッツポーズをせんばかりの勢いで口元が緩む。そうそう、何をするにしろ適度な休暇は大事だ。

携帯の向こうからは紙を捲る乾いた音が響く。何だかんだでこんなに早く今回の一件を片付けたということは、そもそもの原因として俺の仕事が詰まっているからに違いない。

波江は基本的に資本主義だから、仕事は取れるだけ取る。しかしながら買う方も買う方で、俺は男でありながら馬鹿みたいな金額が設定されているにも関わらず、その辺の売れっ子のホストよりも遥かにその稼ぎが多いくらいだ。この世の中、一体どんな需要があるかなんて本当は誰にもわからないんじゃなかろうか。


『あと二日したら仕事回すから、また連絡するわ。ちなみに携帯の電源切ったらはっ倒すわよ』

「俺も命は惜しいんで流石にそれはしない。多分だけど」

『多分が余計よこの変態』


おやおや言葉遣いが乱れちゃってるよ波江さん。結果的に短くなった休日をほんの少しでも延長させることに成功し、ご機嫌だった俺が笑いながらそう口にすると、彼女は殆ど呼吸のみの声で死ねと非情なばかりの言葉を吐き捨てた。
まぁ所詮は機械越しのやり取りだ。何と罵ってくれようと構わない。他人から見たら実に一方的な言い合いだろうが、これが俺と彼女のごく日常的なやり取りだからだ。


「あ、そうだ。丁度いいや」

『なに?』

「波江さんさぁ、肉じゃがの作り方知ってる?」

『………………はぁ?』


彼女のはぁ?にはまた何をおかしな事を言い出したんだこいつ、の意味合いが非常に強く込められている気がしてならない。
けれどそんなことはさした問題じゃない。俺にとっての今の問題は、どれだけシズちゃんの期待を良い意味で裏切れるかというそれだけだった。

彼女は口調や態度こそ辛辣だが、料理の腕前は少なくとも普通以上だ。そこそこ役立ちそうな情報を分け与えて貰うには絶妙のタイミングだと思ったのだが、彼女は更に怪訝そうな声音で「あなた今いったいどこにいるのよ」と問い返してきた。

取り敢えず笑ってその問い掛けを誤魔化し、メモを取るべく主の居ない部屋でペンや紙を探すため、俺は電話を片手に収納という収納を好き勝手に漁り始めるのだった。




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