10 | ナノ
「あ、おかえり」
ぱたんとその背後でドアが閉まり、今まさに帰宅したところの玄関先でシズちゃんは、風呂上りほかほかな俺の姿を見るなりすぐに「そういやそうだった」みたいな微妙な表情を露わにした。
そして無言のままで溜息を吐いて、靴を脱ぎながら更にもう一度溜息を吐く。いっそ溜息の無駄遣いと言っても差支えないほどに、彼の口からは無意味な息ばかりが吐き出される。
そして靴を脱いで風呂場から出てきた俺の横を、そのまま素通りしようとしたのでその前に立ちはだかり進路を塞ぐ。瞬間、その表情はまたぴくりと眉を潜めて歪められた。
「…んだよ。どけ」
「ただいまは?」
「ああ?」
「ただいま、はいどーぞ。言わないと通してあげない」
「……………」
俺は別に超能力者でも何でもないが、いま彼の考えていることだけはまるで手に取るようにわかった。うぜぇ、恐らくはこの一言に尽きるだろう。自分でもそれに該当する真似を全く働いていないとは思わないので、それならそれで構わない。
「ほらほら、早く入って寛ぎたいでしょ?ほら」
「おい、手前ここ誰の部屋だと思ってやがる。殺すぞ」
「誰の部屋でもいいけど、一般常識だよ。両親にちゃんと教わらなかったの?」
「………うっぜ」
直前まで彼の表情に出ていた言葉はあっさりその口から零れてしまったが、それでも俺は怯まない。依然としてやや高い位置にあるその顔を見上げたまま、また更に同じ言葉を繰り返す。
「おかえり、シズちゃん」
ぴくり、いつも大抵吊り上げられたままの眉が一瞬だけ揺れて、それでも今度はうざいだとかそういう辛辣な言葉を吐き捨てられることはなかった。一拍置いたあと、また更に長い溜息を吐いて無駄遣いをする。そして俺にちらりと視線を向けて、すぐにそれを外したところで唇がそっと薄く開いた。
「……………ただいま」
これでいいんだろ、と舌打ち混じりの言葉は、うざいだとかいうそんな意図ばかりではなく、どちらかと言えば照れ臭さ混じりの意味合いの方がきっと強い。だから俺も我慢できずにまた笑ってしまった。
「おい、言わせといて何笑ってやがる…」
「え?笑ってない笑ってない、笑ってないよ」
「にやにやしながら言ってんじゃねぇぞコラ」
「ふ、ふふっ、まぁまぁ。疲れたでしょ?シャワー浴びといでよ、その間にごはんの準備しとくからさ」
「ああ?何で手前に指図されなきゃなんねぇんだ」
「まぁまぁ、シズちゃんはあれだね。もっとカルシウム摂った方がいいねきっと。ほらほら早く」
半ば無理矢理背の高い身体を風呂場に押し込んで、俺は頭の中で先程の「ただいま」を反芻しつつ台所へと舞い戻った。なんだ、結構可愛いところあるじゃないか。いや可愛いことは色んな意味でいつも可愛いんだけど。押しに弱いのは気持ち良くてぐだぐだになってる時以外にも、どうやらそこそこ有効らしい。
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きっと疲れていたのだろう、何だかんだ言いつつそのまま大人しくシャワーを浴びてくれたシズちゃんを待つあいだ、俺は手っ取り早く髪を乾かして大分遅い夕食の支度を始めた。
彼のお仕事の時間軸は夜がメインだから、若干今現在の時間に相応しくないとはいえ、これを夕食と称することは大目に見て頂きたい。俺も起きたきり水を飲んだくらいで、食事はこれが今日初めてだった。夕方に起きると何を食べればいいのが、逆に困ってしまったりするのは大体皆似たようなことが言えると思う。
「…別にいちいち待ってなくていいから先食えよ」
そんなことをぼそりとシズちゃんは呟いたが、まぁまぁと適当に宥めて食事を小さなテーブルの上に二人分並べる。白い湯気の立つ白米に、豆腐とわかめの味噌汁、そしてスーパーの惣菜売り場で適当に買ってきた焼き魚と付け合わせの野菜という献立だ。
以前言ったことに嘘はなく、俺はフレンチトースト以外にはマトモに料理らしい料理に取り組んだことはない。しかし物は大抵応用すれば何とかなるもので、携帯のネットでメニューを検索し、まぁこれくらいはできるかなと味噌汁は一応自分で作った。普段ならば断じて身体が欲するようなメニューではないのだが、眺めていた料理番組に映る今の夕食と似たような献立が、なぜか酷く魅力的に見えてしまったのだから致し方ない。人間環境に感覚が順応するっていうのはどうやら本当のようだ。
それでも流石に魚をさばく勇気は無かった。ので、元より焼いてあるものを買ってきて今さっきチンした次第である。温めただけのそれだったが、それなりに香しい美味しそうな匂いをさせているので、まぁ俺のチョイスも案外失敗ではなかったと言えよう。
「今の味噌って凄いねぇ、最初っからだし入ってるんだよ。しかも普通に美味しい。俺味噌汁なんて初めて作った」
「………へぇ」
「あ、茶碗とかは百均で買って来たんだけどね。暇だったから」
「………おまえ、外出られねぇんじゃなかったのかよ」
「いいじゃん。俺だって気分転換くらいしたいし?一応ちゃんと変装してたから多分大丈夫だよ」
「変装ねぇ…」
Tシャツにジャージという、ラフという単語だけで括るには憚られるほどの、これぞ部屋着ですという格好でシズちゃんは白米を突きながら溜息を吐いていた。
実際の所、暇なのは事実だ。休めと言われ挙句の果てにできるだけ外出は控えろとの指示が出ている以上、今の俺はただの無職という位置付けでしかない。だから必然だと言えばそうなのだが、正直暇を持て余す時間が多いということは、一日目にして嫌というほど把握することとなった。
けれどそれならそれで、暇を目一杯満喫しようという選択肢が今度は生まれてくる。俺の中ではそれが常だ。面白くない時間が何よりも嫌いで苦手だった。
そして適当に見たり調べたりしている間に、どうしてかあたたかな夕食の風景を生み出してしまう事となったわけだ。そう、それでも何だかんだでほんの少し険しい表情を緩めては、黙々と食事を突くシズちゃんの様子は、それなりに苦労した結果が垣間見せてくれた意外な部分でもあったから。
まぁ、そんなやり取りを経てしばらくの食休みの後に、現在の位置は就寝前のベットの上というわけである。
とは言えやっぱりベッドに乗っているのは俺の身体ひとつだけで、シズちゃんは何も言わずまたのそのそと床上に寝そべった。
薄っぺらい毛布とクッションを枕にしてはいるが、正直寝心地は余りよくない事だろう。最初は気にならなかったものの、悪い気がまぁ、しないでもない。いや、事実としては本当はあんまりしていないけれど。口に出すとまた怒鳴り付けて来るんだろうなぁと俺なりに考えて、とりあえずその言葉は飲み込むことにした。この辺りの配慮を含め、彼は俺に対する数々の暴言を改めるべきだろう。
電気を消したそう広くない部屋の中、天井を見上げていた体制からふと横にぐるりと身体を向ける。壁にぴったりとくっ付いたベットの、壁とは反対側の方向だ。闇に慣れた視界の中で、シズちゃんがこちらに背を向けて眠る体制を取っている様子が、真っ暗な空間にぼんやりと浮かんでいた。
「ねぇ、起きてる?」
「寝てる」
「起きてんじゃん」
「…うっせぇな。何だよ」
「一緒に寝る?」
さらりとした口調で問い掛けたら、次の瞬間彼はげほげほと大きな音を立て盛大に噎せ出した。はは、実に期待を裏切らない反応で結構なことだ。あと寝てないのに寝てるだとか、そんな下らない嘘を吐くからいけない。きっと罰が当たったのだ。
「………寝ねぇよ」
むせた名残を残した掠れた声で、まるで独り言のように彼が呟いた。しかしながらその答えまで含めてが俺の予想の範疇内である。もうどこまでもわかりやすくて本当面白いなぁ、そんな事を思いつつ俺はもぞもぞと布団の中で小さく身じろぎをした。
「足さむい」
「寝ろ。寝ればあったまるだろ」
「いやだから冷たくて眠れないんだってば」
「寝ろ」
「だから冷たくて………あーもう、いいや」
「………は?」
シズちゃんが間抜けな声を上げるより先に、俺は布団を片手に握り締めたままベットの上から落下し、そのままシズちゃんを覆う薄っぺらい毛布の中に足を容赦なく突っ込む。そしてそのまま一気に布団の中へと強引に潜り込んだ。
「はぁ…っ…!?」
「あ、なんだやっぱりぬくいじゃん。俺足冷えてると眠れないんだよねー…」
ごそごそと毛布の中で彼の足に自らの足を絡ませて、思っていたよりもずっと高い温度を少しでも奪ってやろうと、その身をずいとすり寄せる。そんな俺とシズちゃんの身体の上に、ベットから剥いできた布団を被せれば一丁上がりだ。
「おい!ふざけんなよ手前、上で寝ろ!ただでさえベッド譲ってやってんのに調子乗ってんじゃねーぞ!」
「はいはいうるさいうるさい。今日はもう……あったかいから床でいい……」
明日からはベッドでよろしく、言いつつぎゅうと絡ませた足に力を込める。上体もほぼ寄り添うに近い形でそのまま瞳を閉じた。足元からもどこからも伝わる熱が、じんわりと身体を浸食して行くことで自然と睡魔が襲ってくる。
「おい、くっつくな!あと寝るな、起きろ!」
「…………うん、…うん……………おやすみ……」
うとうと微睡む思考の端でやっぱりシズちゃんは怒鳴っていたけれど、それが気にならないくらいにはもう俺の睡魔は限界に達していた。ので、結局身体にしがみついたままの状態で、喚き立てるシズちゃんを一人残したまま俺はあっさりと意識を夢の世界へ手放したのだった。