04 | ナノ
「ジッポ、返せよ」
その口は割とありきたりな、いや寧ろ余りに想像通りの台詞を吐くものだから、思わず俺は我慢できずにくすりと笑ってしまった。じ、と風に煽られ、時折煙草の先に点された火はその熱を色濃く増す。
俺の手元に握られていたパッケージは彼の角度からは見えなかった筈だが、それでも今俺の口元にあるそれが、自分のものと同じだということに気が付いたらしい。恐らくはあの日、俺が強請ったものだということも。
「誕生日プレゼントなんじゃなかったの?これくらい後腐れなくすんなりくれたっていいじゃん。けち」
煙草を口元から外し、その拍子に灰が振動でぱらりと宙に散った。また口元に運び直すと、白い煙は俺に纏わりつくようにして煽られる。
「お前吸わねぇだろ」
「そうだね。吸わなかったよ」
「…相変わらずそういうくそうぜぇ答え方しかできねぇのか。手前はよ」
「だって本当の事じゃない」
俺の言い回しがどうこうより、たぶんシズちゃんが苛立っているのは後にも先にも俺のこの態度にだけなのだろう。
笑みを絶やさず、それはどこか人を小馬鹿にしているようにしか見えないと、直属の秘書にもよく言われる。自覚こそないが、まぁ慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべている自覚こそないので否定はしない。
けれどこの場合はシズちゃんにしてみたって少しは理不尽だ。
だって俺は至極普通に答えを返しているだけなのに、彼の言い分はまるで言い掛かりでしかない。慣れていると言えば慣れているからいいんだけれど、何ていうか、いつもそうだけどわかり易い。多分シズちゃんは苛立っている。
表情に滲み出る色こそ薄かったが、静かに怒っていると言えば他人にも理解して貰えるのだろうか。
しかし残念だ。今この屋上にいるのは俺とシズちゃんのたったふたりだけで、他人に説明する意味など一切存在しない。そう、ふたりだけ。
ライターを手にして、彼の方へと投げた。コントロールを特に気にしたつもりがなくても、シルバーのジッポはくるりと一回転する前にシズちゃんの掌に容易く収められる。これで俺の手元にはもう何もない。あるのは残り一本の吸い掛けの煙草だけだった。
「帰らないの?ライターちゃんと返したよ」
「………歳取ったからか」
「…は?」
「24になったからか」
「なに、」
が、と。
口に出す前にやめた。見失ってしまったからだ、それが煙草に対してのことなのか俺たちの微妙すぎた関係に対してなのか、はたまたそれのどれにも属していないのか。
今の話の流れで言うとシズちゃんの問い掛けは、「24になったから記念に煙草でも吸うことにしたのか」というものが一番自然だろう。しかしどうだろうか、俺は一瞬過った可能性に今ある余裕をほんの少し壁際に追い込まれてしまったような気がしたのだ。
そう、「24になって関係をやめたから、煙草を吸い始めたのか」というありもしない模範解答の可能性に。
追い詰められたのはたぶん、それが何より俺にとっての真実だったからだろう。口にしないだけでそういう事だ。ただ煙草を吸い始めた、という解釈には若干の語弊が生じる。俺は止めるつもりで煙草を吸い始めたのだ。だからつまり、煙草が無くなれば止めるしかない。
「…不思議だね」
「あ?」
「歳を取ると考え方が変わるよ、色々と」
「…なにがだよ」
「やめたよ。やめたんだ、24になったから」
言い終えて直ぐにまた煙草の煙を深く吸い込む。目を細めて見つめた先のシズちゃんは、表情を変えないままで俺のことを真っ直ぐに見つめてくる。正直居心地が悪い。
「…なにをだよ」
「なにが?」
「お前、一体何をやめたんだよ。別に最初っから何もなかっただろ、始めようとかそういうのも」
意外過ぎる言葉は、多分その口に出してそんなことを言うシズちゃんが一番、言葉の意味を理解していないに違いない。俺とて驚きはしたが、言われてみればそうだったかも知れないなんて、不覚にもそんな理解の余地を抱いてしまった。
「シズちゃんは、頭悪いくせに結構難しいこと考えてるんだね」
「…ああ?手前、馬鹿にしてんのか」
「物は考えようって言うじゃない。それができない以上馬鹿にさせて貰うしかないかなぁ」
満足に煙草の煙を肺に収めることができないまま、その長さは短くなって行くばかりで。
空いた方の手をシズちゃんの方に向けて一度開いてから、ゆっくりと見せ付けるように親指を折った。
「俺とシズちゃんにできることが、それしかなかったと思えばいい。例えばみっつくらいで、そのひとつめはキス」
人差し指を折ると、シズちゃんの視線がそこを追った。
「ふたつめはセックス。最後は…そうだね」
中指を折ると、ぶわ、と風が一際強く吹いて片方がアシンメトリーの前髪が目に掛かり、シズちゃんの表情を一瞬見失うことになった。
「みっつめは喧嘩、かな?」
余りにも狭い世界で、余りにも自由が利かなかった。それでもできることだけを繰り返して、きっと24になるまでの間に彼は俺のことをあっさり突然捨ててしまうものだろうと思い込んでいたから、だから俺は爆弾を仕掛けた。
怖かったのだ。キスとセックスと喧嘩しかできない間柄なのに、まるで当たり前になってゆく化け物の存在が。
そりゃ学生の頃は若かったから、それこそ欲求を満たす割合だって多かったかも知れない。学校も同じだったからとか、何ていうか言い訳みたいなものは幾らだって取り繕うと思えばできたはずだ。
好きだとか愛しているだなんて馬鹿みたいなことを思うわけでもない。それでも歳を取り徐々に感傷に憂いては行く中で、だんだんと与えられるキスにわけのわからない感情を抱くようになってしまった。
勘違いもいいところだったが、ベッドの上でセックスの後、彼が決まって煙草をふかしている横で俺は特別何もすることがない。
そこで片手間に与えられる何て事のないキスが好きだった。触れる唇の感触は喧嘩をしている時のシズちゃんからは、まるで想像できないほどに穏やかだったから。
だからつい、やさしく扱う枠の中に入れているような錯覚を覚えてしまって、結果俺は色々と駄目になってしまった。
彼が煙草の味を覚えて俺もそれがキスの味になったし、執行猶予もとい二段階式の爆弾のつもりでシズちゃんの元から攫ってきた煙草は、結果として俺が忘れようとしたパスワードを思い出すためのリマインダーにしかならなかった。
「…べつに、何でもいいけどよ」
「なに?」
「俺はまだ23だ」
「…え、」
「24にはなってねぇ」
「俺は24になったんですけど」
「知らねーよそんなもん。手前が勝手に歳取ったんだろうが」
会話が、いまいち上手く成立しないのは気のせいだろうか。とは言え恐らく会話を会話にするつもりがないのはシズちゃんの方であって、断じて俺の方ではない。
よくわからない、わからないことだらけだ、今思えば初めての時からずっとそうだった。
「おい」
掛けられた声と一緒にひゅ、と飛んできた何かを反射的に掴み取る。思ったよりずっしりとした感触にてのひらを開き見れば、そこには先程投げ返したはずのジッポが存在していた。
「なにこれ、取りに来たんじゃなかったの」
「やる」
「……はぁ?」
「やるって言ってんだよ。一度お前のもんになっちまったみてぇで癪だからやる」
要らないよ煙草止めるんだってば。と言おうとして、それでも言えなかった。
やめるやめると口ばかりが達者で、なにひとつやめられないのはどちらかと言えば俺の方だ。
だからこんなもの。今すぐ真後ろのフェンスの向こう側に投げ付けてやりたい気持ちもあったが、思うばかりでそれらは一つとして現実になることはない。だから俺は口ばかりで結局何もできやしない。
俺はシズちゃんみたく馬鹿じゃない。
だからこそスマートに後腐れなく別れ、何事も無かったかのように毎日を過ごすのだと信じていた。こういうわけのわからない感情に塗れた世界で生きるなんて冗談じゃない、死んだほうがましだ。それなのに死ぬことすら満足にできない。
「あー………」
「なんだよ」
「禁煙したい」
「はぁ?吸い始めたばっかでもうかよ」
「やめたいんだよ」
何をやめたいのだろう、言われて初めて考えたことだった。でも取り敢えず何かをやめたいとただ漠然と思う。生きるのをやめたい、煙草をやめたい、歳を取るのをやめたい、なんだっていいから、やめたい。
すっかり短くなった煙草を咥えて、そっとシズちゃんの元に歩み寄った。表情は相も変わらず変わらないままで、それでも俺との距離が縮むとほんの少しその目が細められた。
ぴたり。間近に迫ったところで足を止めてその表情を見上げる。顔を見ること自体久しぶりだったが、こんな風に間近で見つめることもそうない。貴重なひとときだった。
「シズちゃんのタイミング悪いところ、大っ嫌い」
それだけ告げて、彼が何かを言う前にその口に俺が吸っていた煙草を無理矢理咥えさせ押し付ける。流石に驚いたような顔をしていたが、彼にとってみたらいつもしている行動のひとつだ。暴れるような真似はされなくて済んだ。
「……吸って。そのまま、息止めて」
シズちゃんの唇に触れた指がばかみたいに熱を持つ。じんと痺れるみたいに不思議な感覚が俺を支配した。
煙草の先が赤く燃えることを確認して、そのまま口元から外した。
反射的にシズちゃんが呼吸しそうになったのを察して、吐いちゃだめ。そう制して更に互いの間の距離を更に縮める。至近処理で視線が合って、一瞬だけ俺も呼吸を忘れた。
「吐き出して、ぜんぶ、俺のなかに」
笑って言ったつもりだったが、笑えていたのかどうかは微妙なところだった。
本当に欲しいものを強請るとき、俺はどういう顔をして言葉を口にしたらいいのかがよくわからない。そもそも欲しいものが何なのかすらわからなかったし、シズちゃんが好きなのかどうかすらわからなかった。嫌いなのはまず間違いないんだけど。
歪なかたちをした感情は、誰が見たって言葉通りゆがんでしまっている。俺とシズちゃんはそうだった、たぶんずっとこれからも。
片手間にされるキスが好きだった。優しくされたかったわけじゃない、与えられたかった。
ベッドの上でろくに交す会話すら持たないシズちゃんの、気紛れが俺のなにかをぐずぐずに溶かしてしまったというのに。きっと彼にその自覚はないんだろうけれど。
忘れようとしたことすら、触れる唇の温度と体温と煙草の味が俺の中で混ざり合い、俺の努力は全て水の泡となった。
リマインド、身体を侵す白い煙が忘れさせてくれない。パスワードを忘れてしまおうと意味がない、与えられた設問に俺は素知らぬふりがきっとできない。だから駄目だった。
シズちゃんの肺から俺の体内へ、注ぎ込まれるものを全て吸い込んで、ああこのくちびるが離れてしまったあと、俺は一体どんなことを口にしたらいいのだろう。
キスする直前に瞼の裏に焼き付けた新宿の空は、いつもより随分とまぶしかった気がする。擦り付けあう口付けの合間に、そんなことを思いながらシズちゃんの服を指先できつく握り締めた。
ふたりで共有した煙草は手元から零れ落ちて、いまはもうその行方がわからない。酸素が足りない、呼吸ができない。
いっそこのまま、肺まで侵されたい