06 | ナノ



甘い香りが立ちこめていた。

やや遠くに聞こえるフライパンのじゅうじゅうと焼ける音が、実にゆっくりと意識を覚醒させて行く。

ぼんやりと霞む視界は、いつもベッドの上から覗くものと違っていた。そこには机の足やら床上やらが映し出されて、ああ、そういや床で寝たんだった。そんなことをまたひとつ、思い出してから欠伸を零した。

枕代わりにしていたクッションからのそのそと身体を起こす。ぼーっと見慣れた自分の部屋を見渡して、ふとキッチンの前に佇む細い影に目が留まった。誰だ、あれ。

それでもやたらと気怠い身体も思考も、中々思うようには働いてはくれない。そもそも部屋に自分以外の人間がいる時点で何かと異質だ。それだけはどう考えてもおかしいと、再確認することで漸く、黒ずくめの背中の主が誰かということを、脳はゆっくりと思い出し始めた。


「あ、おはよ」


くるり、それとほぼ同時に背中が振り返って、男はいっそ忌々しいほど爽やかな笑みを浮かべた。
それに対して俺はたぶん、何処となく表情が歪んでしまったに違いない。見えずとも顔の筋肉が引き攣ったのがわかった。

俺は一体何度同じ過ちを犯せば気が済むのだろうか。そんなことを考えてほんの少し絶望した。
なし崩しとはいえ、若干強要されたとはいえ、雰囲気に呑まれたとはいえ、結局それらを押し退けてでも抵抗や拒絶を試みなかったのは他の誰でもない自分だったから。言葉通り何とも居た堪れない。

ひとまずテーブルの端に乗っていた携帯で今の時刻を確認した。とっくに昼を回っていて、いつもよりは大分寝過ごしてしまっている。畜生、何なんだよ一体。

あのあと、シャワー借りるねと一方的に告げてデリヘル野郎は慣れたようにバスルームに我が物顔で乗り込んだ。
そのあと一度シャワーの音に混じって「あ、ごめん一緒がよかった?」とか馬鹿なことをわざわざ扉を開けてまでほざきやがったが、いらねーよと叫び流石にそれは拒絶した。
そして律儀に順番を守り俺がシャワーを浴びて部屋に戻ると、どうしてかそいつはベットの上に居た。もっと正確に言うならぐっすりとそこで眠り込んでいて、いっそ軽い眩暈すら覚えた記憶がある。


それでも何だかもう色々な意味で疲れ切ってしまっていた俺は、止む無くその状況をスルーし、それでも寝る場所が無い事に気付いてしまったりで、中々すんなりとは寝付けなかった。
ベッドの上からすうすうと聞こえる安らかな寝息が、何を考えようとしても全てをうやむやにしてしまう。

ぎゅっと無理矢理瞳を閉じて、何とか眠りに落ちることはできたらしい。けれど結果的に寝不足なのには変わりなかった。この怠さにはきっとそれも要因として入り込んでいるに違いない。

「勝手に台所借りたよ、食べる?フレンチトースト」

歩み寄ってきた男が何やら手にしていた皿を、俺の目の前の小さなテーブルの上にふたつ乗せる。そしてまた台所に歩み寄って、これまた我が物顔で次々とその引き出しを開け閉めし始めた。

「あ、あった」

何してんだと言うより先に、どうやら目的の物を見付けたらしい男が声を上げた。ので結局そのまま黙りこくっていた状態でいたら、戻って来た男は手にカップのアイスを片手に、もう片方の手にはスプーンやフォークを握り締めている。探していたのはそれだったらしい。

テーブルの上に置かれたのは、言葉通り何の変哲もないフレンチトーストだった。こんがりと
焼き目がついた黄色のそれはふわふわとした甘い香りを漂わせていて、純粋に起き抜けの身体は美味そうだな、なんてことを頭の端で思う。


「コンビニ行ったんだけどさぁ、シロップあるかないかよくわかんなかったからとりあえずこれ代用品。我慢してね」


因みに卵と牛乳は冷蔵庫から拝借したから。そう告げて男はアイスの二重になっている蓋を取り払い、ぐるりとカレー用と思われるスプーンで大胆に柔らかくなっていたアイスをくり抜いた。そしてぼとりと俺の前に置かれた更にそれを落とす。触れたトーストの熱で白いバニラアイスがまた更にとろ、と溶けた。

いや、美味そうなのは認めよう。美味そうだけど、そのアイスあれだろ。一個で普通のやつが幾つか買える高いやつなんじゃねぇのか。思うだけで口にはしないが、残り半分のアイスを男は自らの皿にも盛り付けた。


「いただきまーす」


フォーク一本で男は器用にトーストを切り分け、ぱくりとその口に放り込んで呑気に咀嚼し始めた。

俺はと言うと、未だ更の横に置かれたフォークをその手に持つことすらできない。何つーか、余りにも目の前で勝手に流れて行く光景が自由すぎて、何をどこからどう突っ込んでいいのかがわからない。

「食べないの?別に不味くはないよ、俺これでもフレンチトーストには煩いし」

「…………いや、」

って言うか何でお前はまだここに居るんだよ、そして何で素知らぬ顔して俺の家で朝飯を勝手に作って食べてんだ一体どういう事だ。

言いたいことは変わらず多くあるというのに、目の前のフレンチトーストバニラアイス添えだけが何も知らず俺の空腹をただひたすらに刺激してくる。だから、情けない話だが、負けた。




「…いただきます」

フォークを手にして小さく手を合わせると、男は満足気に笑って「どうぞ」と偉そうに促してきた。

男がそうしていたようにすんなりフォークで切り分けることは叶わなかったので、俺はぶすりとフォークで刺して横から食い付く方法を選んでそれを食べた。

しっとりとした感触と程よい甘さに、高級アイスのバニラの風味が香る。不味くはないと男は言ったが、どちらかと言えばこれは美味いの部類だろう。あと何と言うか、そういうのに疎い自分でもどことなく上品な味わいだとそんな事を思った。


「美味しい?好きだからこれだけは色々研究したんだよねぇ、焼き方とか材料の配分とか。まぁこれしか作れないんだけど」


「…へぇ」


なんとなく、会話の相手がどんな非常識な輩であろうと、どうしても作ったものを食べてしまっている手前、そのまま無視を決め込むのはどこか気が引けた。

のでとりあえずそつのない相槌を返して、俺はぱくぱくと皿の上のフレンチトーストを確実に消費して行く。純粋に糖分や熱量を欲していた身体は、結局綺麗にそれを平らげるまで止まることなくその手を動かし続けた。

そう、取り合えず食ってから、全てはそれからだ。自慢じゃないが頭の回転は速い方じゃない。ひとつずつ把握できないが故に毎回わけのわからないことになってしまう。
自覚はあった、そう、結局いつも一気に押し寄せたそれらを上手く処理できず、学習できないだけであって。


「うん、やっぱ軽い運動の後には甘いものだよねぇ。美味しい」


が、目の前の男の台詞によって突如として持ち出された核心に、思わず食べていた最後の一口が思わぬ器官へと滑りんでしまい、盛大にむせた。

げほげほと口元に手を当て咳き込んでいると、何やってんの、そんな言葉を添えられてコップに入れた水を手渡される。癪ではあったが、何せ余裕がない。迷わず受け取ったそれをぐいと飲み込んで、何とか喉も俺も落ち着きを取り戻して、思わず溜息を吐いた。


「あは、純情ったらないね。かわいいかわいい。だからつい困らせたくなっちゃう」


昨日もそんな感じだったからさ、でも気持ち良かったからいいでしょ?そんな身勝手な台詞ばかりが男の口からは飛び出すのに、俺は即座に言い返すことができない。
感想はいい、そればかりは今は置いておかねば俺の言い分などひとつとしてまかり通らない。いいとか悪いとか、そう、そういう問題じゃない。


「………うぜぇ」


漸く自らの口から吐き出せた言葉は、そんな苦し紛れの単語でしかなかった。虚しい限りだ。うざいというのも何ら事実だったけれど、それよりなんかこうもっと、あるだろ俺。しっかりしろ俺。こんなパンの一枚や二枚焼いて貰ったくらいで騙されてんじゃねーぞ俺。


「ふふ、俺の仕事知ってるでしょ?」

「………デリヘルだろ」

「そうそう。基本は尽くすお仕事だからさ、まぁたまに触ってくれる人もいるけど、結局は全て奉仕の名のもとにじゃない。どちらかと言えば俺淡泊な方なんだけど、それなりに溜まるときだってあるし」

「おい何の話だ」

「まぁまぁ、おにーさんも一人でするより触って貰った方がいいでしょ?一石二鳥じゃない」


なんか昨日ぼんやりした思考の中で似たようなことを考えたような、そんな気がしないでもなかったが今となっては最早過去の話だ。
知らない、俺は何も思ってない。ぐずった子どもみたいな声に少なからず興奮しただとか、そんな事は断じて思ってない。


「俺のとこ結構取るって話もしたじゃない?要はちょっとVIP専門って言うか、あんまり名前出さない方がいいような社長さんとか重役の人がほとんど常連なんだよね。よって必然的にちょっと歳食っちゃうし、まぁみんな金払ってる手前やっぱり自分のことばっかりで」


でも下手に触られて大してよくもないのに演技するのもしんどい。はぁ、と、溜息混じりで何やら愚痴られてしまったような状況に、俺はやっぱりどう反応していいのか戸惑うところだった。何せ外がこの明るさの時間帯だ。会話の主旨からしておかしい。

それでも目の前のデリヘル野郎は、呑気にフレンチトーストをまるで女子のようなスピードで消費しながら、一向に回り続けた口の速度は緩める事を知らない。
女子高生か手前は。突っ込んでやりたいようなけれどもそうでもないような、曖昧な気持ちを持て余しながら、小さな口が器用に喋ったり食べたりする様子をぼーっと眺めていた。


「昨日はお陰さまですっきりしたけど。したいように出来るってやっぱり最高だよねぇ」

「…手前のそれだって私欲だろうが」

「はは、それ言われちゃうと痛い」

「俺にとっては何のメリットもねぇよ……」


はーっと長く重々しい息を吐き出して、ほんの少し項垂れ脱力した。
何だこれは、もっとこうなんか、最中には言ってやりたいことが山のようにあった筈だというのに。今この状況においては綺麗さっぱりそれらが思い出せないのだから不思議だ。

するとにっと口元を緩ませた男が、目を細めて俺を見る。なんだよ、無愛想に若干睨み付ける形で問い掛けたら、男の口元の笑みは更にその色がぐっと濃くなった。


「…自分だってしたいことしたでしょ?それメリットじゃなかったら何だって言うわけ?」


くすくすと、まるで囁くような言葉が俺の耳をあまく突く。有り得ない怒りに動きを忘れたのか、呆れて声が出なかったのか、それとも図星を突かれて反応できなかったのかがわからなかった。けれど事実、ぽかんと口を開いたのまま思うような反応が返せない。

そんな中不意にピリリ、と電子音が部屋に響いた。俺のじゃない、咄嗟にそう思ったら目の前の男がポケットから携帯を取り出し、実に呑気な声を上げて電話に出た。先程までの妖艶な笑みの余韻など、今や一切皆無である。


「もしもーし。……ああ、うん、いま?いや、違う違う。家じゃない」


うんそんなとこ、何時?場所は?そんな会話の端々から、そうだったこいつの職業はそうなんだったと思い出した。

器用なことに電話をしながら皿の残りを平らげ、男がフォークを置くと同時に通話は終了する。


「…さてと、そろそろ行かないとな」


ふうと浅く息を吐いて、男は立ち上がって俺の皿と自分の皿を重ねて流し台へと運んだ。軽く水を出してから、すぐにまた蛇口を捻りその流れを止める。


「じゃあ、俺帰ってまた仕事だから。悪いけど後片付けは静雄くんのお仕事ってことで」


振り向いてにっこりと満面の笑みで笑い、毎度のことだがデリヘル野郎は嵐の如く人の部屋を後にした。

扉が閉まり漸く一人になれた部屋の中で、ただ静寂ばかりが広がっている。テレビでも付ければよかったのだろうけれど、やっぱり俺は一気に色々なことが起こると脳内がショートする傾向にあるらしい。

そのくらいの判断もつかないくらいには、その存在は全てが衝撃と値しそう称する他の手立てが見当たらなかった。ああ、なんかよくわかんねーけどせめてあと30分くらい、寝たい。



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