ノットリースユー | ナノ
※どっかのホテルのプールで戯れる二人です
薄暗い、言えど明かりが離れた場所という視点から見れば、随分と辺りの景色は鮮明に視界に映されていた。
ライトなどの照明の類は全てホテルの建物から差し込む程度のもので、あとはこのプールがあるエリアをぐるりと囲んだように角にひとつずつ配置されている。足元や姿を照らし出すのは、どうやら月明かりが大半のようだった。
「あー…やっぱり水辺はいいねぇ、涼しい」
「別に大して変わんねぇだろ」
さも興味が無さそうに呟いて、ぺたぺたと足音を響かせながら呑気な足取りでシズちゃんはプールサイドを歩いた。
何て事のない理由だった。普段は互いの家で過ごす休日が多かったけれど、元々休日がそう被ったりすることのない間柄なので、二人の休みが重なり舞い上がってしまった。ただそれだけの理由で高級ホテルに部屋を取って優雅に過ごそう、そんなことを言い出したのは俺の方で。
それに対して文句こそ言わないものの、彼の機嫌がこうなのは正直いつもことだから別に構わない。俺の言う事にイエスの意味合いで返事をかえして来ることの方が稀なのだから。
「いつもながらにつれないねぇ…折角俺がチョイスしたホテルなのに。まぁご飯だけは美味しそうに食べてくれて何よりだけど」
「折角も何も手前はいつも大体勝手に人のこと連れ回すだけだろうが」
「まぁ、そうとも言うね」
やれやれと肩を竦めたら、シズちゃんはちらりとこちらを視線で伺ってからまた直ぐ、辺りの暗闇をただぼんやりと見つめていた。
夕食は本場で修業を積んだシェフのフレンチフルコースで、俺はワインを、アルコールが飲めないシズちゃんはペリエを初めて口にしたらしく何とも不思議そうな表情を浮かべていた。それでも流石値段が値段なだけあって、出て来る料理は食べ慣れてこそいないものの、どれも美味と称賛するに価するような品物ばかりで、いつもは小食な俺もつい食べ過ぎてしまったくらいだ。
因みにシズちゃんも不慣れなフォークとナイフを使った食事に苦戦しながらも、食事のときはいつも顰められたその表情を緩めて、ひとつひとつ丁寧に味わうように料理を噛み締めていた。
黙々と食べているその様子を見てかわいらしいなぁなんてことも思ったりしたわけだが、それから今30分ほど経過したところでもう既に可愛くなくなってしまった。何というタイムリミットの短さだろうか。彼は何分子どもっぽいので、いや寧ろそこら辺の子どもよりなお子どもらしいので致し方ない。突然の機嫌の上昇下降は毎度の事だ。
まぁそれにもすっかり慣れっこの俺からしたら、つれなかろうと何だろうと別にそれらは大した問題にならない。そのことも重々承知している。シズちゃんは何処までもシズちゃんだ、よって仕方が無い。これが俺の持論だっだ。
「ねぇ、見て」
「……ああ?何だよ」
言いつつ俺はシズちゃんの傍らに歩み寄って、プールの更に向こう側を指差してそんなことを言ってみた。その視線はどこか疑いの色を含んでいたが、シズちゃんの視線も俺の指先に倣って目の前のプールの奥、殆ど暗闇のそこに向けられる。見て、とは言った。けれどその先には残念ながら何もない、ただそ気を引きたいだけだった。
「はい、いーち、にーの」
「…は?」
「さーん!」
みっつめを数えたところで、俺は足を上げ勢いを付けてシズちゃんの腰元を勢いよく蹴り飛ばした。油断していたであろうシズちゃんは声も無くそのまま水のたっぷり張り巡らされたプールの中に倒れ込んで行く。もし地面がそこに広がっていたならば、流石の俺も一応売れっ子のモデル相手にそんな馬鹿な真似はしたりしない。そう、つまりは確信犯だ。
ぷは、とそこそこ深さのあるらしいプールの中から彼がその顔を上げる瞬間を、俺は予めポケットの中で起動させておいたデジカメですかさず写真の中に収めた。こういう不意打ちの表情は中々撮れたものじゃない。彼は一見ガサツそうに見えるが、実際のところは中々どうして色々と用心深かったりするのだ。
「……っ、おい!いきなり何しやがんだ手前!」
「はは、いーねぇその顔!」
濡れて額に張り付いてしまった前髪を掻き上げる仕草や、睨み付ける鋭い視線を次々カメラの中に収めるたび、彼の眉間の皺は段々と深くなって行った。そう、用心深いという意味合いにおいて彼はやたらと勘がいい。たぶん、俺の行動の意図に今はもうとっくに気付いてしまっている頃だろう。
「……手前、これやるためにわざわざプールが見たいとかふざけたこと抜かしたんじゃねぇだろうなぁ。ああ?」
「ご名答〜大当たり!」
「…いい度胸してんじゃねーかおい。やるなら来い」
「やーだ。水に濡れてカメラ壊したら俺シズちゃんの事嫌いになるよ」
その言葉を聞いた途端、今さっきまで俺のことをこれでもかという程睨み付けていた表情はぐっと詰まった。予想通りと言えば予想通りの反応にふっと口元を緩めたら、再度シズちゃんは何かを言おうとしたにも関わらず結局その口を噤んでしまった。ので、それを良い事に俺は自らの欲望に忠実に写真を撮る事に専念する。
いつもみたく覗き込むファインダーこそ無いものの、基本的に映し出すその四角は変わりない。ゆらゆら未だ飛び込んだ名残を残して揺れる水面の上に、しっとりと濡れたシャツや髪がその肌に張り付いたシズちゃんが佇む。ゆら、一瞬画面すら揺れてしまっているのかと錯覚したが、それでも魅せられるように手は勝手にシャッターを切っていた。
一度こうなってしまうともう止まらない。横向いて、視線だけ頂戴、伏し目がちに、そう、ゆっくりこっち向いて。
数多くの注文に、彼は不機嫌そうにしながらもそのひとつひとつに丁寧に答えてくれた。恐らくではあるが、先程言った「嫌いになる」の言葉が心のどこかに引っかかっているに違いない。馬鹿だなぁ、そんなの、なるわけないのに。かわいいやつめ。
言ってはあげないけどね、そんな事を思いつつ時間も忘れて撮影に没頭していたら、流石に痺れを切らしたのかシズちゃんが「おい」と口を開く。
「いつまで浸かってりゃいいんだよ、寒いだろーが」
「いいじゃん。涼しいでしょ?」
「…なぁ」
「なーに?」
「手ぇ貸せ」
上がる、そう言って差し出された手と彼を交互に見つめ、暫く思案した後に俺はデジカメをそっと水のかからなさそうな離れた場所に置いて避難させた。そして手を取るように自らのそれを差し出して、指先が触れたか触れないかのところでシズちゃんの瞳が揺れることに気付く。やっぱりか、そう簡単に引っかかると思うなよ馬鹿め!
触れたかどうかもわからない手をぱしんと払って、俺は自らも勢いよくざぶんとプールに飛び込んだ。シズちゃんと1メートルほどの距離を空けて潜り込んだそこから顔を上げて髪を掻き上げると、行き場の無い手をじっと見つめる何とも切ない光景の中にシズちゃんが映る。
「そう簡単に騙されると思われちゃ困るなぁ、俺のこと引っ張り込むつもりだったんでしょ」
「…うっぜぇ」
ちっとそれはもう大きな舌打ちを残して、ざぶんと手は水の中に沈められてしまった。拗ねたような様子ににやにやと笑む口元を隠すこみともできず、そのまますいすいと水の中の底を蹴ってシズちゃんの元へと近づいて行く。
「何だよ」
「ホテルの人に見つかったら怒られちゃうよねぇ、これ。服着たまんま」
「全部手前の所為だろーが」
馬鹿にしやがって、とでも言いたげな表情すら、この状況ではどこか可愛らしいのただそれだけに尽きる。ので、別にご機嫌を取ろうと思ったわけでも何でもないが、ほんの少し背丈のある彼に向かい合いそっと瞳を閉じてくい、と唇を上向かせてみた。属に言うキスを強請る、という仕草である。
しかし十秒待てど十五秒待てど何のアクションも無かったので、片目をうっすらと開いて伺い見て、何とも言えない表情を浮かべたシズちゃんに俺は思わず盛大に吹き出して笑ってしまった。
「ふ、は、あはははは!なにその顔!」
「っ、うっせぇな!手前こそいきなり何なんだよふざけんな!!」
はっと我に返ったようにいつもの表情に戻りこそしたが、俺がほんの数秒この視界に映した顔は、それはもう実に面白いものだった。
何というか、一言で言うなら初めて彼女にキスを強請られた中学生男子のような、うん、それはもう実に初々しく、とてもじゃないが普段では見れたものじゃない戸惑いだらけの表情だった。だから思わず我慢することもできず笑ってしまったという訳だ。
「ええ、だってキスするときって大概俺からばっかじゃん。たまにはして欲しい時だってあるよ」
「…胡散臭ぇ」
「ははっ、ひっどーい」
大して酷いと思ってもねぇ癖によく言う、そう言われて今度は何を思ったかシズちゃんの指先が、俺の頬にすっと伸ばされそこにそっと触れられる。少し冷えた水に長い時間浸された指先は思いの他冷たく、それでもこれを振り払おうものなら今度は臍を曲げるくらいじゃ済まされないということは想像に容易い。だから一先ずはされるがままにしておいた。別に俺も嫌じゃないから然程問題はない。
指先は頬から一度こめかみを撫で上げて、それから再度頬に戻り今度は掌がぴたりと添わされ、何度かゆるゆると撫でるようにされた。終始視線は重なったままで、タイミングを逸らしてしまったみたいにどうしても逸らすことができない。
「なに?ごめんって、月が明るかったからどうしても水場で撮ってみたくてさぁ。シズちゃん暗いところ映えそうだし、その馬鹿みたいな頭の色」
「おい、このまま頬むしってやろうか」
「え、やだやだシズちゃんが言うと冗談に聞こえない。それだけはやだ」
「お前は、」
「え?」
「真っ黒だから、夜に溶けちまう」
「ああ、うん。俺現役のころからそれだけがネックだって言われた。まぁ大人しくスタジオに引き籠ってろって意味かなぁと思ってたんだけど」
「でも、肌だけ馬鹿みてぇに白い」
「ははっ、シズちゃんのスケベ」
「うるせーな……昔からそう思ってたんだよ」
「………へーぇ」
くすりと笑むと、目元をすいと親指が撫でた。思わず目を細めて見返すと、同じようにシズちゃんの瞳も細められて俺を見る。月明かりやライトがきらきらと反射してシズちゃんの肌を照らし出して、時折髪の束から雫が零れ落ちる。目元から口元に指先が滑り落ちて来て、ゆっくり唇の下をなぞられても結局キスが降ってくることは無かった。
彼が求める俺はどんなものだろうか。
付き合い出した当初はまぁ少なからずそんなことも考えたりしたのだが、結局はこうして一緒にいる。それが何よりも本心だと俺はそう思っているから、いつしかそんなことを考えることを止めてしまった。俺は俺だ、シズちゃんが好きな俺が今の俺ならそれは越したことはないけれど、それがどうだかはわからない。
拒絶はされない。曖昧だけれどそれでいい。恋愛なんてものは言わば大半が駆け引きだ、つまり一人じゃできない。だからねぇ、取り敢えず俺たちは一緒に居るしかないんだよ。
「ね、部屋戻ったらシャンパン飲もう」
「…だから酒飲めねぇって言ってんだろーが」
「一口でいいよ。んでちょっと酔っぱらって、ふわふわしながらいっぱいキスして、そのあとセックスしようよ」
「……………おまえの辞書に恥じらいの単語はねーのか」
「なんで?本当のことだし」
何かそういう気分、だからそうしようよ、言いつつ彼の肩口に水の中からちゃぷ、と音を立て手を上げてそこに添える。ゆっくりと濡れたそこを撫で下ろして、ちゃぷん、また沈んだ水の中で、もう片方のシズちゃんの手を探り当ててそっと掴んだ。
「……それならキスしてくれる?」
卑怯と言われようが何だろうが、彼の一番弱いと思われる笑みを浮かべて小さく呟く。添えるだけに近かった手にきゅっと力が籠もるのがわかった。
「しねーよ馬鹿」
「…まーたまたぁ、俺今日は上乗ってあげるからさ。ね?」
そこで特別反論もせずにまたちっと舌打ちをしたところを見ると、やはり彼とてそれ自体は満更でもないようだ。わかりやすくて実によろしい、今日は俺は機嫌がいいから、口に出したことをちゃんと実行してあげるつもりだ。
キスしてくれるかどうかなんて聞くに値しない質問だということもわかっている。シャンパンをひとくちその唇に注いでしまえば、その後のことなんて想像しなくたって俺にはもうわかり切っていた。