有り余る恋と薔薇 | ナノ








有り余る恋と薔薇







「別れて」




ある冬の日だった。

シズちゃんが言った何の前触れもない一言に、俺は当然のように返す言葉は出てこなかった。どうして、ともなんで、とも言えず、ただその場に立ち尽くしてシズちゃんをじっと見つめたまま視線が逸らせない。彼の顔はとても真剣で、ああ冗談じゃないんだ、それだけが現実なのだと頭の端でそう思った。

どうしてだろうか。あと数分もすれば直ぐそこに彼の部屋があるというのに、アパートの手前でどうしてかシズちゃんは俺を呼び止めてそう言った。余りにも突然で、余りにも簡単だった。
今思えばこの時に嫌だとかそういう事を思い切り言って駄々を捏ねていれば良かったのかもしれない。けれどそれはできなかった。それくらい驚いていたし、俺にとって認めたくはない一言だったからだ。拒絶すれば認めざるを得なくなると思っていた。

聞けばシズちゃんは遠くに行ってしまうのだと言う。美容師になる切欠を作ってくれた先輩が店をオープンさせるとか何とかで、昔からその時にはスタッフとしてそこで働いて欲しいと言われていたのだと、そう約束をしていたらしい。
ここまでならさし当たって問題らしい問題はないのかも知れない。けれどそこからが逆に問題だった。彼は俺に別れようと言ったのだ。つまり、遠距離恋愛をするだとか距離を置くだとか、ましてや俺について来いだとかいう選択肢は初めから存在しない事になる。離れてしまえば終わりなのだと、そういう事を含めて一言、俺に別れてくれと告げた。

「…会いに、」

行くよとは最後まで言えなかった。行くから、そう訂正しようとしてもやっぱり駄目だった。どうしてこんなに上手く喋ることができないのかと考えてみたけれど、もう正直何が何だかわからない。
目の前のシズちゃんは別れようとそう口にした瞬間、随分と遠くに離れて行ってしまったような気がした。

薄暗い街灯だけがぼんやりと俺たち二人を照らし出す。夜の空気はとても冷たい。来週は雪が降るのだと天気予報でキャスターが言っていた。

現実味がひとつも存在しないこの空間で、それでもシズちゃんが俺と別れたがっているというのはどうしても認めざるを得ない。俺の答えがどうこうという訳じゃない、シズちゃんが言ったのだ。別れたいと。俺から離れたいと。うん、言った、もう要らないって。

「わかった」

じゃあね、ばいばい。ポケットに手を突っ込んだままの状態で、軽い口調でそう告げて俺はシズちゃんに背を向けて元来た道を辿った。行き先はこちらで間違いない筈だ、本当は足は反対側のアパートに向いていた筈だったのに、多分もう二度とあそこに行くことは無いのだろう。そんな事を考えて、だめだ、ポケットの中の手をぎゅっと握りしめてそんな考えを振り払うように一瞬固く瞳を閉じた。

視線はぽつりぽつりと俺の帰るべき道を照らす光を見つめるだけで、後ろを振り返ることもできない。この光が無かったら、多分俺は真っ直ぐ歩いて駅まで辿り着くことはきっとできなかったに違いない。
シズちゃんはまだ後ろに立っているのだろうか、それともあっさり自分の部屋に行ってしまったのだろうか。早く見えないところまで、あそこの角を曲がらないと。

早足で風を切る膝が冷たい、痛い、やたらと痛くて何だか泣いてしまいそうだった。
角にある住宅を取り囲む塀を曲がって直ぐに、どうしてか俺の足は勝手に立ち止まり、そこから一歩も進む事ができなくなってしまった。ああ、だから、膝が痛いんだってば。

誰も居ない歩道で、そのままそこにすとんとしゃがみ込んで膝を抱えた。痛い、いたい、つめたい、ねぇ、さむい。

ポケットから取り出した携帯を開いて、発光する画面を見つめる。それでも連絡を取る相手をどうしても探し出せずにかしゃんと、それは冷えた手から滑り落ちてしまった。






「ふられちゃった」

あれからワンコールで呼び出したドタチンは、何とも優しいことに直ぐに近くの駅まで駆け付けてくれた。そのままやっぱり駅の片隅で立ち上がれない俺を見て、なんで、と一言だけドタチンは言った。
何で?そんなの俺が聞きたいんだけど、けどね、違うよ、だってふられたんだもん。

「…大丈夫かよ、お前」

顔真っ青だぞ、立てるか、そう言われて手を差し出されたけれど、大丈夫と返した言葉とは裏腹に俺はそこから立ち上がれなくて、結局ドタチンが代わりにしゃがみ込む。膝を抱えてコートごと抱き抱えた膝と床に視線を落としたままの俺の頭を、ぽんぽんと優しく撫でてくれた。

「ドタチン、知ってたんだ」

シズちゃんが遠くに行っちゃうの。そうだよね、仕事仲間だから当然か。頭を撫でる手が離れたと思ったら、首元にふわりと温かい感触がして、ドタチンのマフラーが俺の首元を覆ったのに気付いた。

「…風邪ひくぞ」

「うん、さむいね」

「あいつ、お前もお前の生活があるから、俺の我儘で連れてくわけには行かねぇって」

「…わがまま?」

「離れても上手くやってける奴だっているって俺は言ったけど、ほらあいつ、あんな性格だから」

中途半端な事、したくねぇって。つーか俺の言う事なんか多分聞いてねぇよあいつ、悪いな。そう言われて何でドタチンが謝るんだと思ったがそれすらも上手く口にすることはできない。

シズちゃんの我儘なんて、何と貴重な事だろうか。いつだって我儘を言うのは俺一人だ、シズちゃんのは横暴であって我儘ではない。だって俺がそれを我儘だと認識したことはただの一度もないからだ。
我儘を一度だって聞くことなく別れてしまって、いや別れたいって言うのが我儘だったのかな、でも俺ちゃんと聞いてあげちゃったから、それでもちゃんと付き合ってたって思ってくれてるのかどうかも、知らなかった、から。

何だろう、つらいな。

どこがつらいのか考えた。先程からずっと痛む膝が痛いのか、左の肋骨が軋むのかその中が痛むのか、喉が痛むのか髪が痛むのか、はっきりとはわからないままで。考えれば考えるほど、頭の中がシズちゃんで満ちてどんどん俺の頭は重たくなり、ドタチンの手の重さも手伝ってそのまま膝の上に額を押し付ける格好になってしまった。

視界には床に向かって垂れる髪があって、見たくなくて、けれど何だろう、こうしてしゃがんでシズちゃんに髪撫でられたことあったっけなぁ。そんな事を思い返すうちにじんわりと熱くなる目頭を、誤魔化すようにぎゅっと瞳を閉じる。ぽたりと自分の足に濡れた感触がして、ああしまった逆効果だった、そんな冷静な事を思うのに、意志に反するようにぽたぽたと涙は零れ、肩が勝手にふるえた。

「…っ、う…ぁ、やだぁ…」

「おい、泣くな。俺が泣かしてるみてぇだろ」

「ひ…っ、……う、あ、あっ………やだ、っ」

「…何のやだ、だよ」

何のやだでも良いけど、それちゃんと静雄に言ったのか、言い聞かせるようなドタチンの言葉に俺は泣きじゃくりながら首を左右に振った。ほんの少し顔を上げたら、ドタチンは凄く困ったような顔をして俺を見つめ目を細める。

「…っし、しず、ちゃんの前で……おれ…泣かな、っ…も、……」

「泣けよ、そしたら静雄だってまた考えるかも知れねぇだろ」

「め、面倒くさいやつって……思われ、っ…たく、ない……!」

「………馬鹿だろおまえ」

俺の前で散々泣いといて言うか、そういう事。ドタチンの言っていることは最もだ。結局俺の頭の中にはシズちゃんしか居ない。シズちゃんの事しか考えていない。要するにシズちゃんの事を髪馬鹿と言えないくらいには、俺だって負けじとシズちゃん馬鹿だった。

終電をとっくに過ぎても俺はそこから立ち上がれずひたすらに泣き続けて、それでもドタチンはそんな俺の頭を撫で続けたまま涙が止まるまでずっと傍に居てくれた。
ドタチンは優しい、優しいから俺は都合よくいつもこうして利用してばかりだ。泣いて面倒臭いって思われたって、ドタチンだったらいい、でもドタチンは優しいから、ねぇそれでも、それでもシズちゃんの前で泣けなかった。

帰り際タクシーに乗せてくれたドタチンに「ごめん」と聞こえるか聞こえないかの本当に小さな声で呟くと、いいよ、また店来い。優しくそう言ってまた最後にくしゃりと頭を撫でられた。ありがとう、ひとりじゃなくて良かった。そんな台詞を作り笑顔で言うことすらできなくて、それでもまだ自己嫌悪に浸れるほど俺の心には余裕が無い。

隣の席を見てもシズちゃんは居ない。
一緒にタクシーに乗った覚えは記憶を辿ったって存在してはいなかっただろうけど、それでも出会ってからはずっと一緒に居た。

ぱちん、再度取り出した携帯を開いてかちかちと操作し電話帳を開く。あ、か、さ、と順に辿りしの欄からシズちゃんの名前を選んで開く。こんな事をしたところで何がどうとは思わないが、ひとりになって名前を見つけるのはどうしても嫌だった。操作を繰り返し、データを削除する。ついでに送受信メールも専用のフォルダも、発着信履歴もまるごと削除した。そこに並ぶのはシズちゃんの名前ばかりで、選択して消すのは一苦労しそうだったからだ。

真っ新になった携帯を閉じて手と一緒にポケットにまた仕舞い込む。窓の外には明かりと暗闇が流れて、ほんの少しだけ泣き腫らした目には眩しくて目を細めた。車内の暖房に暖められた膝の痛みはほんの少しだけ和らいできたが、それでもまだ痛い。


シズちゃんと俺が別れた、寒い冬の日だった。






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