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ロストメモリー・リセット



あの日を最後に臨也には会っていない。

一週間近くが過ぎて、やたらと平穏な日々が続いていた。

仕事も大した問題も無くこなし、そうそうキレて突っかかる回数も減っている。トムさんにも今日の帰り際にそれを褒められたし、穏やかに過ごしている自覚はあった。ただ、何も無さ過ぎるだけで。

気にはならない訳では無かったが、気にしない事で気にならなくなると信じていたから、出来るだけ気にしていない振りをした。

それでも俺は忘れなかった。いっそあいつじゃなくて俺があいつのことを忘れた方が全て丸く収まったんじゃないのかと思うほどに。

このまま毎日が過ぎて行くと思っていた。何事もなく、そしていつか俺もあいつのことを忘れるのかも知れないと。




「臨也と連絡が取れないんだ」

だから、俺の静かで平和な日々を邪魔するんじゃねぇよ、そう叫びたいのは山々だったが口には出さなかった。

突然入った新羅からの一本の電話に、俺はそうか、それだけ答えて電話を切った。別に様子を見て来てくれないかとかそういう事を言われた訳でもないが、新羅は今手が離せないと言う。大方また闇医者としての仕事が入っているのだろうと容易に想像がついた。

連絡が取れないなどというのは臨也の妙な仕事柄よくある事だろうと思うだろう、新羅もそれくらいは分かっている。

ただ、今の臨也は俺のことを忘れていて、それが発覚して以来はきちんと連絡も取れそれが途絶えたことは無かったという。だから、ほんの少しばかり気になった。

もし何処かで野垂れ死んでいるなら別にそれでも構わない。ならばその事実が早く知りたい位だ。俺にとってみればとんだ朗報でしかない。

足は勝手に臨也のマンションへ向かい、俺は向かう道中でそんな言い訳を頭の中で目一杯考えた。そうじゃないと、俺がこんなことをしている理由は苛々している、ただそれだけになる。

(シズちゃんは本っ当横暴だよねぇ)

ふと懐かしい、いや寧ろ腹立だしい臨也の声が頭に響く。何かあって殴りに来たと言えばそれに決まってそんな言葉が返って来たのに、今もし訪ねたとしてもそれはない。そんなことは承知の上だ。

取り敢えず出て来てまたいつも通り薄ら笑いを浮かべていたら、問答無用で一発殴ってやる。そう心に決めて、俺はマンションへ向けた足を急がせた。




インターフォンは押さずに、新羅に以前無理矢理押し付けられた鍵を使って(勝手に複製したらしい、要らないと言ったが魔よけになるかもよなんて馬鹿げた事を言いつつポケットにねじ込まれたものだ)臨也の部屋に入って、驚いた。

部屋中の棚という棚全てから本が全て飛び出し散乱している、今までとは様変わりした状態の部屋が俺の視界にはただ広がっている。まるで大地震でもあったのかと疑いたくなるような光景だ。

泥棒か?いやまさか、鍵掛かってたし。けれど臨也の姿は見当らない。

やっぱり此処には居ないのだろうかと思いつつ、俺はそのままぐちゃぐちゃに散乱した本を避けては歩き、ふと部屋の奥の臨也の椅子にいつもあいつが着ている真っ黒のコートを見付けた。

これがあるということは、マンションの中には居るのだろう。それを手に取るついでに机の上に視線を向ければ、そこに一冊の開きっ放しになったままのノートを見付けた。コートを一旦腕に掛け、ノートを手にしてぱらぱらとそれを捲る。



何ページもの白紙の紙をすっ飛ばしたノートの真ん中のページに、やたらとくしゃりとしたページがあった。黒いインクで書き綴られたのは、見慣れた自分の名前。その横には断片的な単語が少し急いたような文字で綴られていた。ノートが置かれていた傍らには、この文字を綴ったであろうボールペンがころんと寂しく横たわっている。

金髪、サングラス、バーテン服、長身、煙草、一目で自分のことだと判る。少し控えめに小さく書かれたその横に、ページを跨いで少し大きめに書かれている「平和島静雄」の文字。ひらがな、かたかな、漢字でのそれ、まるでリピートするようにページの上で自分の名前がぐるぐる踊っている。

呪詛にも似たようなそれはページが下まで一杯になる直前で、途絶えたインクの掠れた跡を残して終わっていた。



(ここに居てよ、そしたら忘れないかも知れないし)



俺があの手を振り払って帰ったあと、あれから一週間は此処に訪れていない。

その間に延々と書かれたであろう文字の羅列に言葉が見付からなかった。そこで俺は漸く、気付いてしまったのだ、臨也は忘れていることを忘れてしまっているのだという事に。俺が幾らそれを覚えていても、臨也はそれが叶わない。

身体は眠り目を覚ませばリセットされる。また、忘れる。忘れることを忘れる、何度も、何度も何度も繰り返しただひたすらに。

忘れられている、ただそれだけが何処までも自分を苛立たせていた。

此処に来ないと決めてからこの一週間、揺らいでばかりいた。あいつもう俺のこと忘れてんのかな、むかつく、むかつくむかつくむかつく。そんな事ばかりを考えては、止めて、繰り返した。

けれど連なる名前を目前にして、俺は今正直何て言葉を口にしたらいいのかわからない。

何にも覚えてねぇ癖に、あいつ、馬鹿じゃねぇのか。

俺は閉じたノートを元の位置に戻し、コートだけを手に抱えたままマンションの屋上を目指す。居る、何一つ確証は無かったがそう頭の中でひたすら思った。










階段を駆け上がり息も切れ切れになった頃辿り着いた屋上で、片隅に細い影を見付けた。

臨也だ。



びゅうびゅうと吹き付ける風は容赦なく冷たい。細っこい背中を向けたままの影に歩み寄ると、そのまま手にしていたコートを頭からばさりと被せてやった。フードごと被せそこに掌を乗せたまま「何やってんだお前」そう呟いてから失念した。

しまった、こいつ俺の事知らねぇんだった。このままじゃ俺ただの不審者じゃねぇのかこれ。そんな事を考えた瞬間、だった。

フードを被ったままの頭がぐるりとこちらを向く。とてもゆっくりとした動きで回った首の目が、更にゆっくりと俺に視線を合わせた。


(あ、)


後々何故かと問われてもきっと上手くは言えないが、何かが違った。

色か、はたまたそれ以外の何だったのかもわからない。けれどいつもとは違うその瞳の奥が、俺を捉えた瞬間微かに、揺れたのが分かった。

「…思い出したのか」

すると直ぐに視線は逸らされ、まるで怯えたように臨也の瞳は見下ろす俺の位置からフードに隠れ見えなくなった。

それで俺は確信して、頭に置いていた掌で今度は肩をきつく掴んだ。おい、肩を揺するとくすくすと小さく笑い声が聞こえて、今度は俺がそこから手を離した。フードを被ったままの臨也が顔をゆっくりと上げて、再度視線がぶつかる。

「…相変わらず乱暴だね、シズちゃんは」

いつか思い出したのと全く同じ、懐かしくも苛立つ声が俺の耳に響いた。臨也の肩から離れた俺の手は行き場を無くし、大人しくそれを引っ込める。終始笑ったままの臨也を見て、ああ、そうだ、こいつはこんな顔だった。再度そう思った。

「覚えてんのか、俺のこと」

「覚えてるって言うか、まぁそれなりに。忘れたフリしとくのもありかなぁと思ったんだけどね」

それはそれでシズちゃんの反応も面白そうだし?そう言ってやっぱり目の前のこいつは笑う。けれど、やたらとやつれたような表情をしているように俺の目からは見えて、思わず返事を返すことを忘れていた。

「本当に覚えてんのか」

「しつこいなぁ、何なら一個ずつ言ってあげてもいいよ。特別にね。但しここからは別料金だけど」

「ほざけ、殴るぞこの馬鹿」

「あはは!冗談じゃない、そんな怖い顔しないでよ。元々怖い顔が更に怖くなってるよ?」

久しぶりにちゃんと見ると余計怖いよね、そんな事を言いながら臨也はついと右手を出し、その指をひとつ折って言った。

「えーっと、名前は平和島静雄」

親指の次は、人差し指。

「弟が一人居て、君は超ブラコン。顔は怖いのに甘いものが好き、職業はこわーい借金取り」

中指、薬指、順に指が折られ数えられる。それからね、そう言いつつ折りかけられた最後の小指ごと、俺はその手を自分の掌で覆って握り込む。もういい、言えば臨也は今度は反対側の手を取り出し、更に指折り数えようとしたのでそれも同じように掌で包むようにして握った。

「いい、止めろ」

どうして、臨也の声がほんの少しか細く聞こえた気がした。

「幾ら嫌いなシズちゃんのことでも、もう少しくらいは知ってることあるよ」

第一覚えてるかどうか聞いたのシズちゃんでしょ。そう言って細められた目元に、うっすらと隈が浮かんでいる。顔色もいつもよりずっと悪い。それらを総合して頭の中で導き出せば、答えなんてひとつしか思い当たらない。幾ら俺でもそのくらいは分かる、臨也は、いつからかは知らないがきっと、眠っていない。

握り締めた手は酷くつめたく冷え切っていて、確かめるように力を込めたら微かに震えた。きっとこの分じゃあ身体も冷たい。だから余計に顔色が悪いのだ。

「…お前、寝てねぇだろ」

「そんなわけないじゃん、俺だって人間なんだから夜になれば寝るよ」

「嘘つけ、気持ち悪い顔の色しやがって」

「うわあ、失礼だなぁ。元々こういう顔なんだけど?って言うかいい加減離してくれない、手」

ぶんぶんと軽く上下に振り解こうとする手を、俺は離さずそのまま握り締めていた。

「いつ思い出した」

「どうだっていいじゃん、そんなの。シズちゃんには関係ないよ」

「いつだ」

「だからさ、シズちゃんには関係ないって…」

「言え!」

手を引き寄せ言い聞かせるようにしながら声を張り上げれば、臨也の肩は面白いほどびくりと震えた。寒さもあったかも知れない。するとそこで視線はゆっくりと俺から離れて、宙に浮いた。

「俺の事忘れてんだろうが、関係無くねぇだろ」

「………ない」

「臨也!」

「うるさい!」

そこで漸く、臨也の顔からあのやたら憎たらしい笑みが完全に消えた。は、と短く吐き出した息が溶けて、少しだけの沈黙が流れる。寒くて静かで、音が、響く。

「思い出したのは三日前、眠ったら忘れるとか俺的に凄い癪だから寝てない。これでいい?」





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