、スリー | ナノ
ロストメモリー・スリー
「シズちゃん」
随分と久方振りにそう呼ばれて、一瞬躊躇いはしたものの何だよと返した。突然何を思ったか臨也が「静雄だからシズちゃんだね」と呟いて、正直驚いた。
まぁ俺がこうやってまともにノミ蟲に返事を返すことなど普通に考えて有り得ない事だ。けれど今のこいつは臨也であって臨也ではない。と言うか、俺の事を忘れただけで随分と別人だ。これじゃまるで俺の存在があいつの捻くれた性格を生み出しているみてぇじゃねーかと思ったが、直ぐにそんな考えは振り払った。
今日も今日とて新羅に呼び出され俺は律儀に臨也のマンションへと訪れた。いい加減止めればいいのにと思うのに、それが何と無くできなかった。別に大した理由も無いがただできない。その理由が自分の中に見付からなくて更に苛立つ。けれど来ることを止めたらそこで終わってしまう気がした。いや寧ろ負ける気がしていた、相も変わらず薄ら笑いを浮かべる目の前のこいつに。
「俺シズちゃんのこと忘れてるんだってね」
「…何だそりゃ、誰から聞いた」
「書いてあった」
「何に」
「紙に」
こういうちょっと苛々させる所は相も変わらず臨也なのだが、それでもやはり臨也であって臨也ではないのでそこをぐっと堪える。
「新羅が昨日俺に書かせたらしいけど、俺全然覚えてないんだよね。って言うか知らないし、でも俺の字で凄い不思議だった」
「不思議は大体気の所為だろ」
「でも、俺の字なんだけど?」
「だから何だよ」
「何だかよくわからないけど、書き残したってことは忘れたくなかったのかなぁって、まぁそれすらも覚えてないんだけど」
不思議だよね、自分の字だとなんか引っかかっちゃって気になるって言うか。薄く笑みを浮かべてまるで独り言のように呟く臨也を、傍らからぼーっと眺めていた。苛々しているような何処か空虚なような、 わけの判らない気持ちになって結果俺は苛々していた。
やっぱり此処に来るのは止めた方がいいと、そんなことを頭が言っているような気がして再度硬く心に誓う。
「ね、俺とシズちゃんってどんな関係?友人、にしては俺のこと嫌いそうだよねぇ」
「嫌いだな」
「本人前にしてそんなはっきり言う?普通」
「飽きるくらい言ってるっつーの」
「ふーん。ふふ、おっかし」
「……ああ?」
「もし俺が君のことをわすれてると仮定しよう。そして君が俺のことを目の前で口に出して言うくらい嫌いだったとしよう」
「…だったら何だよ」
「なら、どうして君は此処に居るのかな」
知るか、ふざけんな手前が勝手に忘れたんじゃねーか、口を切って叫びそうになった言葉を何とか飲み込んで唇を真横にきゅっと引き結ぶ。
今のこいつには何を言っても無駄だということを俺は判っている。こいつの言うとおり俺が此処にいる事は傍から見れば「おかしなこと」に過ぎないことも。
「ねぇ、何か話してよ。何でもいいから」
「…何で俺が手前の言う事なんざ聞かなきゃなんねぇんだ」
「命令じゃなくて頼んでるでしょ。いいから、別に下らないことでも何でもいいし」
頼む、だって?お前が俺にか?そんなおかしな事があって堪るか。そうは思っても、やはり臨也の瞳の色は俺の知らない色をしていることに変わりなかった。だからこれが事実なのだ、無言でその瞳がそう言い聞かせているような気がしてやり切れない微妙な思いを抱えたまま、俺は一先ず臨也の座るソファの隣に腰を下ろす。何か、疲れた。
それから小一時間ほど下らない話をして、臨也が小さく欠伸をしたところで俺ははっとした。それは俺と臨也がふたりでのんびり会話をしているというところにもあったかも知れないが、もうひとつ、臨也は俺の事を忘れてからやたらとよく眠るようになったらしいのだ。
原因はよくわからない。新羅に言わせれば元々俺の記憶だけが無いこと自体が異色だから、それが原因だとしてもまぁおかしくはないね。そんな事を言っていた。眠ればまた明日には何もかもを忘れる、ただしそれは俺のことだけなのだが。
不思議でならないが、別にそれをどうしようともしたいとも思わないしできないことが判っている。眠り次に目を覚ました瞬間、またこいつの中から俺は消えるのか。帰る、そう呟くと臨也は「え、なんで」ときょとんとした目で俺を見る。
「お前眠いんだろ、さっさと寝ろよ」
「眠くないけど」
「嘘つけ」
「…眠いけど、眠くない」
何だそりゃ、小学生か。そう思いながらも俺はソファから躊躇うことなく立ち上がりじゃあな、一言残しその場を立ち去ろうとした。
しかし臨也がぱしりと俺の手首を掴んで、それをやんわりと制する。正直そんなことをされるだなんて予想だにしていなかった俺は取り繕うこともせず驚いた。しかし当の臨也はそんな俺より更に驚いて俺を見上げている。
「もうちょっと居てよ、俺まだ誰かと話してたい気分だしさ、それに」
「俺は別に話す事はねぇ」
「ひど。えーっと、ほら、もし俺が君の事忘れてるんだったらもっと一緒に居たら何か思い出すかも知れないじゃない」
「思い出さねぇよ、つーか」
「なに?」
「お前は忘れるんだよ、俺のこと」
言った瞬間、一瞬だけ臨也の表情が引き攣ったような気がした。けれど俺はそれを気のせいだと自分に言い聞かせ腕を掴んでいた臨也の手をあっさりと振り払う。実にすんなりと、その手は臨也の膝の上に音も無く落ちた。
「…はは、どういう事?意味わかんない」
けれど動揺したのはきっと一瞬だ。一秒にも満たない瞬間の直ぐあとに、臨也はやっぱりいつも通り口元に笑みを浮かべながら俺を見上げ肩を竦めた。
有り得ないと、何を言っているんだと、そう言いたいのだろう。その位の考えていることがわかるくらいには、ここ最近こいつに会い過ぎてしまったと心の中でほんの少しだけ後悔した。
「お前、俺のこと何にも覚えてねぇんだろ」
「…覚えてないって言うか知らない。さっき聞いたことなら覚えてるよ、だって初対面でしょ?」
「それも明日になったら忘れんだよ。お前は寝て起きたら俺のことだけ綺麗に忘れる」
「はは、なにそれ、面白いねぇ。あ、シズちゃんってもしかして結構ドリーマーな人だったりするのかな?見た目はボキャブラリーめちゃめちゃ貧困そうなのにね、ギャップ有り過ぎでしょ」
からからとおかしそうに笑う様子も、俺はくすりとも笑わずに何も言わずただ見返すだけで。やがてぴたりと笑みが止んで、臨也はやっぱり薄く笑いながら、言った。
「………冗談でしょ?」
そんなおかしな冗談が言えるか、俺はお前ほどいかれてねぇ、小さく呟いたら臨也の表情から笑みが消えた。真顔になったと思えば、また懲りもせずに俺の手首をその細長い指が掴む。
「何だよ、離せ。帰るってさっき言ったじゃねぇか」
「帰ったら意味ないじゃん。俺が本当にシズちゃんのこと忘れるかどうかわかんないし、だから、今日は寝ないでいることに決めた。だからここに居てよ、そしたら忘れないかも知れないし」
「…アホか、寝ろ。俺は帰る」
「いや、言い出したのシズちゃんだし。俺気になってどうせ眠れないって、だから付き合ってよ」
「断る、離せこのノミ蟲」
「やだって言ってんじゃん」
「…お前なぁ」
きっと臨也が真顔で俺を見上げた。離さないよ、本当に覚えてたら思い出すかも知れないし。そう言って手首を握り締める掌に力が篭もるのがわかった。
けれど俺を見る臨也の目は、臨也だけど臨也じゃなかった。何が違うのかと問われれば多分答えられはしないが、それでも違った。目の前に居る臨也が臨也だと言うのなら、俺は臨也の事を知らない。今のこいつとそう大差は無いのかも知れない。
「思い出しても俺にもお前にも良い事ねぇし、思い出した後に後悔されんのが目に見えてんだよ」
だから別にわざわざそんな事しなくていい、寧ろ思い出すな、感情を込めずそう告げた。けれど臨也は手を離さなかった。
「俺も嫌だって言ってる」
意味わかんねぇ、何なんだよお前、もう今日で来るの止めるってさっき決めたんだよ。そうすりゃ明日には手前は俺のこと忘れて何もかも無かったことになるんだからそれで文句ねぇだろ。
万が一お前が俺のこと忘れてなかったら、そうしなかったらそれを間違い無くお前にねちねち言われんのは俺だ。わかりきっている。だからとっとと離しやがれこの野郎。
「…今までだって毎回毎回そうだった、今更何にも変わんねぇ」
「だから、」
「明日になってまた忘れて、またお前に一々名前から説明しなきゃなんねぇのか俺は」
いい加減飽きた、もう御免だ。
それは何とか口には出さず飲み込んで、やっぱり俺は臨也の手を振り払った。顔を見ずにそのまま足早にマンションを、言いたくは無いが逃げるように出た。
あの臨也もどきと一緒にいるのはもう勘弁して欲しい。わけのわからない事ばかりでただ苛々する。むかつく。そこまで考えてはた、と俺は夜も更け人通りの少なくなった道の真ん中で足を止める。
(…まるで「覚えてる」ノミ蟲野郎だったら良いみてぇじゃねーか)
有り得ねぇ、あいつなら余計に御免だ。ちっと舌打ちをして乱暴にポケットの中から取り出した煙草に火を点ける。ああ、やっぱり苛々する。基本あいつと居るといつもこうだ。
ひゅるりと頬を掠める風は、もう随分と冷たい。そういや今年はやたらと秋が短いような気がした。