リトル・バイ・リトル | ナノ
日が沈み切って星が瞬き始めた頃、今日はいつもより少し早目に部屋へと戻った。
――壁外調査前日。今日は幹部全員が揃って最後の会議を行った。そこにはいつも通り陽気なハンジを始め、もちろんリヴァイの姿もあった。相変わらずしかめっ面をしており、私がじっと見ていることに気付くとわずかに眉間の皺が増えたような気がした。
そんなリヴァイも既に特別班の皆が待つ旧本部へ帰っただろう。結局言葉を交わすことは出来なかった。
「あぁ、明日か…」
静まり返った自室に入った瞬間気が抜け、ぽつりと呟く。ジャケットを脱ぎ捨て、窓を開ければ心地よい夜風が私の髪を揺らした。
怖いわけではない。不安なわけでもない。ただ、どうも落ち着かない。
今回の壁外調査がいつもとは違う特別な意味を持つからかもしれない。それはエレンという存在、そして何かが起こるであろうという言い様のない緊張感が故だ。そしてもうひとつ。明日の布陣では私はリヴァイの傍にはいられないということも、この気持ちの原因だろう。これまでのように隣で戦うことはできない。
私情を持ち込む気は全くないし、エレンの安全を第一に考えなければならないことも十分理解している。ただどんなに押し込めても僅かに顔を出す彼への想いが私に小さな焦燥を与えていたのも事実である。
「…だめ、しっかりしろ…」
新兵の子達には偉そうに諭しておいて、自分は何て様だ。恐怖も不安も私情も何一つ不要なのに。自らの命を繋ぎ、更に大切な人達を皆守り抜くためには、そんな感情は足枷になるだけだ。私はどんな時も強くあらなければならない。
パシッと両掌で頬を叩いて自分を戒める。そして小さく息を吐いた、その時だった。部屋のドアをノックする音が聞こえ、慌てて返事をすればゆっくりとドアが開く。
「ナマエ、いるか」
「リヴァイ…」
会いたかったけれど、会いたくなかった。会議室で目配せをして別れてから、そのままもう今日は顔を合わせる機会はないと思っていた。とっくに旧本部へ帰ったのかと。
たじろぐ私などお構い無しに彼は部屋へと足を踏み入れ、床に脱ぎ捨てたジャケットを拾い上げてソファーの背もたれに掛けてくれた。それにお礼を言いつつ、情けない表情は見せまいと笑顔を貼り付ける。きっとすべてお見通しだと思うが、彼は何も言わずに私の頭をぽんと一撫でした。思わず涙が溢れそうになるも、ぐっと堪える。
「もうとっくに帰ったかと思ってた…」
「今から戻るところだ」
「どうして、わざわざ…」
「……お前がめそめそ泣いてやしないかと思ってな。あながち間違いでもなかったか」
「は?泣いてないよ!?リヴァイの目は節穴なの?」
「俺の前でそうやって強がるのはやめろ。明日部下の前に出る時にしゃんとすりゃあいいんだ」
「…っ、」
普段は不器用で口下手で、なのに口うるさい男なのに、こういう時は無駄に鋭くて無駄に優しい。だからこの人のことを好きなのはやめられないのだ。一人で真っ直ぐ前を見据えて立っているつもりでも、どこか彼に支えられている部分があるんだと嫌でも思い知らされる。
明日の朝、エルヴィンや幹部の皆、部下や新兵の前に出る時にはいつも通り元気で強い分隊長の私に戻るから。だから今この瞬間、少しだけ彼に甘えることを許してくれるだろうか。
「…リヴァイ」
小さく紡いだ彼の名前。自分でも驚くほどその声には覇気がなくて、私を見下ろす彼の視線に僅かに動揺が見て取れた。ゆっくりと手を伸ばし、そっと彼の腕に触れる。
「一回…一回だけでいいから、ぎゅってして」
「……バカが」
どんな罵声にも私を想う気持ちが込められているように聞こえる。壊れ物を扱うように丁寧に、そして優しく抱き締められ、暖かい気持ちが身体中を駆け巡っていく。
「リヴァイ、私…死なないから」
「……」
「だからリヴァイも死なないで」
「は、…今更何を言ってんだ。そんな口約束、久しぶりに聞いた」
「だって……」
まだ調査兵団に入りたて、彼と出会って間もない頃、私は壁外に出るたびに彼にそんなくだらない口約束を望んでいた。共に戦うようになってからはどちらかが例え死ぬことになっても最期の瞬間は看取ることができるだろうと、そんな約束はいつしか発しなくなったのだ。
壁外に出ることは不安でもないし、怖くもないし、ましてや逃げ出したいわけでもない。なのに溢れてしまった彼への気持ちは、私が彼の前ではただの女になるということを痛感させた。けれど彼はそんな私の弱い部分までいとも簡単に包み込んでしまうのだ。
「…ナマエ」
「え…?」
「朝が早ぇから今は我慢するが…、帰ってきたら思い切り抱かせろ」
「……っ、最低」
最低だけど、最高の約束だ。
ぎゅっと彼の背中を抱けば、お返しと言わんばかりの強い力で抱き締められる。不思議と気持ちは軽くなり、いつもの私に戻れるような気がしていた。
しばらく抱き締められたまま沈黙が走る。けれど私の頭を優しく撫でる掌は止まらないまま。
窓から入る風が少し強くなった頃、そっと身体が離れた。
「戻る…?」
「あぁ」
「わざわざありがとう。元気出た」
「そうか。もう泣くんじゃねぇぞ」
「だから泣いてないってば」
「そういうことにしておいてやる」
全く、すっかり彼のペースだ。もう少し一緒にいたい、なんて小さな乙女心が顔を出すも、それが叶わないのは承知している。だから明日、戦って守って、生き残って、そしてまたここへ戻ってきて彼ともう一度会えばいい。私にはそれを実現させる力も知識も度胸もある。彼のおかげでそこに少しだけ力が加わって、私は更に強くなれるのだ。
「そんな顔をするな、戻れなくなる」
「…っ、どんな顔か知らないけど、さっさと戻ったら?エレン待ってるんじゃないの!」
「キスして抱いてほしいって張り付けた顔で何言いやがる。答えてやりたいところだが、約束通り帰還した後だ」
「っ、リヴァイのバカ!さっさと帰れ!」
「おい、蹴るな」
どうも私をからかいたがる彼をグイグイと押し、無理矢理部屋から追い出した。去り際にくしゃりと髪に触れたその掌に、身体が熱くなったのは絶対に秘密だ。いや、きっとバレているだろうけれど。
「…よし!」
一人に戻った部屋で、再び頬を叩いて気合いを入れる。大丈夫だ、戦える。
来たる明日に備えて、私は様々な想いを巡らせて眠りに就いた。
あなたの翼で大空を包んで
130915