紫陽花が泣いた

アリスには双子の妹が居た。


不思議の国に迷いこんで、一体どれだけの月日が立ったのだろうか。赤の女王を滅し、秩序を取り戻した世界の中で。私の中で確実に何かが消えて言っていた。

「ねえ、私。一体、なにを忘れてるのかしら」

ものしりな芋虫に尋ねる。
彼は煙管を口から離して、紫色の煙をふうと吐いた。彼はいつもと変わらない。この世界が秩序を取り戻す以前となにも変わってはいない。

面倒くさそうに視線を降ろし、ようやく私と目を合わせる。少し眉間に皺を寄せて、悲しそうな声で彼は言った。

「今の君には不必要なことさ、アリス。それでも君には必要なものかもしれないね」

相変わらず訳の分からないことを言う芋虫だ。心の中でそう悪態をつく。
今の私には不必要?そして必要?本当になにを言っているのだろう。

「分からないわ、もっとちゃんと説明してよ」
「分からないのなら、君には必要じゃないのだろう。必要なものは必ず頭のどこかに残っているのだからね」

皮肉を交えて彼は言う。溜息をついて私は芋虫に背を向けた。
煙管を咥える音が聞こえてくる。湿った地面を踏み締めて思うことはなにも無かった。





「ウサギさん、私一体何を忘れてるのかしら」
「アリスが忘れているもの?そんなの僕はアリスじゃないからわからないよ」
「それは知ってるわ、だけど…こう、なんか、もっとないの?」
「君は変なことをいうね」

喉で笑いながらウサギは言う。ふわふわの毛並みを整えることに忙しいのか、適当な応答だ。
何故こうも皆真面目に取り合ってくれないのだろう。まるで話をすり替えているようだ。
首を振って、来た道を引き返す。背後から思いだしたかのように、ウサギが言った。

「チェシャの所に行けばいいじゃないか。彼なら知ってるんじゃないか」
「そうかしら」
「それは聴いてからにしたらどうだい?」

突然目の前に現れたチェシャに一歩引く。尻尾をゆらりと振ってチェシャは久しぶりだね、アリス、と微笑んだ。月の様な瞳が弧をかき、口端から犬歯が覗く。

「ええ、そうね。だけどやっぱり突然現れるのはよして欲しいわ」
「おやおや、女王を倒した者だというのに、随分と小心なんだね。詫びるとしよう」

そう言いながらも少しも頭を下げないチェシャ。飄々としていながらも芋虫と同様、どこかに必ず皮肉を盛り込む彼のことは苦手だ。だが、ここでは重要な存在だ。

「ねえ、私ね。何か大事な物を忘れているような気がするの」
「ほう。何だろうね。アリスにとって不要なものじゃないのか?」

その言葉を聞いて、顔をしかめる。

「あなたって、芋虫さんと同じことを言うのね」
「おや、心外だね。私は猫だよ、虫じゃあ、ないんだけどね」

そんなこと知ってるわ、とでも言うかのように肩をすくめる。

「だけど、本当に何か忘れてるのよ、それが思い出せないの」

切羽詰まった声を出す。
正直なことを言えば、忘れたことなどチェシャを目の前にしたらどうでもよくなってしまった。不思議なことだ、自分でも分からないが。
チェシャはしばらく思案したが、やがていつものようにニヒルな笑顔を浮かべた。

「アリス、考えればいい。それを思い出すか…思い出すことを諦める日が来るまで」


そう言って、チェシャは永久に消えた。今思えば、チェシャは私の記憶の中に居る妹の唯一の面影だったのだと思う。
毒キノコが雨露に濡れた草原の中で、私は「あの子ってあんなに皮肉屋だったのね」と、言って笑った。


涙を流せる程、私は彼女の顔も声も、仕草も覚えてはいなかった。


あとがき


存外気に入っていたりする話。アリスネタは話が尽きません、本当に。
個人的にチェシャ猫はアリスの影だったり、姉妹だったりする設定が好きです。

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