〇Goodbye:Lullaby 【sample】 「そこ、通りたいんだけど‥‥」 「す、すまない‥‥」 リビングの出入り口でぼうっとしていると、背後から遠慮がちに声がかけられた。 彼は総士に視線を一度も合わせないまま、そっぽを向いてテーブルの上に並べられた朝食に手をつける。 スープに浮かんだにんじんを、彼の皿にそろりと移しながら、総士は弟である一騎が母親と談笑している様を眺めていた。 一騎は今年中学二年になった。総士は既に大学通いであるため、結構な歳の差だ。勿論、血の繋がりもある。 それなのに、好きになってしまった。 初めて、この感情が親愛から来るものではないのだと気付いたのは、総士が女の肌を知ったときだった。 ただでさえ、大学では主席だの研究だのと、色々目立っているというのに、父親譲りの整った造りの顔と長身で生まれてこの方、女には不自由したことがなかった。 だが、どれも本気にはなれなかった。相手の愛情と自分の愛情が釣り合わないからだった。 「あっ、にんじんも食べなくちゃ駄目だろ」 母親と会話に花を咲かせていた一騎は、漸く自分のスープに野菜が増えていることに気が付いたらしい。隣にいる母親は既に気が付いていたのか、苦笑を浮かべている。 「不味い」 「だからって、俺のところに入れるなってば‥‥こら!」 言葉ではこうやって叱っていても、結局、一騎はいつも自分には甘い。皿に移動されたにんじんを少しだけ総士の皿へと戻しながら、「一つくらいは食べろよ」と一騎は言った。 「もう‥‥」 横目で、溜め息を漏らしている一騎を盗み見る。 総士が父親譲りなら、一騎は母親譲りの造形だ。 柔らかな少し癖のある髪も、琥珀のように透き通った大きな目も、それを縁取る長い睫も。 正直、総士とはあまり似ていない。 高校の頃に、戸籍まで調べて見たが、淡い期待は非情にも打ち砕かれた。いくら似ていなくとも、一騎は正真正銘、血の繋がった弟だった。 そこまで考えて、総士は食事のペースを速めた。このままこうして、一騎を見、一騎のことを考えていると、無性に触れてしまいたくなりそうだったからだ。 「ご馳走様」 「あら、早いのね」 穏やかな母親が目を細めて笑った。 総士はこの母親を好いているが、苦手でもあった。そのまんまるで美しい瞳に、浅ましい感情も何もかも見透かされている気になるからだ。 「いってきます」 「はい、いってらっしゃい」 「一騎、お前、危ないとこに行くんじゃないぞ」 「子ども扱いするなよ」 今日は休日。総士はこれから大学の講義だが、一騎は彼女とデートでもするのだろう。いつもよりすました格好は、その事実を彷彿とさせた。 「‥‥そうだな」 (もう、お前は子どもじゃないんだな) 一騎も、女を抱くのだろうか。それとも既に抱いたのだろうか。 総士は、何も知らないし、尋ねることも出来ない。 兄弟仲はお世辞にも良好とは言えなかった。それは、総士が後ろめたさから一騎との間に壁を作ってしまったからだ。 くしゃりと一騎の髪をかき混ぜると、弟は怒った。折角セットした髪が崩れたと言って、眉間に皺を寄せる。 そんなところが大人びていると思う。最近はなかなか子どもっぽい態度を取ることもないし、何より一騎は賢い。生活力は明らかに一騎の方が上である。 だからつい、錯覚してしまう。 一騎は子どもではない。だが、大人でもないのだ。 早く、早く、一刻も早く。この家から出なければいけない。 欲望で心が染められてしまう前に、早く。 理性で無理矢理押さえ込んだ本能が噴出すよりも先に、総士は飛び出すように自宅の玄関扉を開け放っていた。 こんな話です。 展開早いです。 戻る |