(なんで今頃高校の事なんて思い出したんだろ…)
屋上のフェンスにもたれ掛かって見上げた空は雲ひとつ無い青空で、もやもやと曇った私の心が強調されるようで、すぐに視線を戻す。
今日の四つ葉荘には私一人。
今は誰にも会いたくない気分だから好都合だけれど。
(あの時、三輪君に告白してたら何か変わってたのかな…。なんて…いつまでも落ち込んでるわけにはいかないし、課題やらなきゃ。)
今までの片想い遍歴を反芻してしまう程落ち込んでいるこの状況を端的に説明すれば…。
『また片想い』
男子ばかりの四つ葉荘に入居して戸惑う私を気にかけて、いつも優しくしてくれた裕ちゃんを好きになるのに、それほど時間はかからなくて。
隣同士の部屋の窓越しで、他愛も無い話をする時間がなんだか裕ちゃんを独り占めしているようで大好きだった。
夜空を見上げながら煙草を燻らすアンニュイな横顔も、悪戯っぽく笑う無邪気な笑顔も、窓越しでしか見られないなんて嫌で。
この片想いという壁を越えて、裕ちゃんの特別になりたい。
密かに恋心を温める事に関しては得意分野だと思っていたのに、自分の感情さえコントロール出来ないような、こんな風に心を乱されるのは初めてで、気付けば窓越しの裕ちゃんに『好き』と口走っていた。
(片想いの才能さえないのかも…)
はぁ…ともう何度目かわからないため息を吐きながら、自室へ戻るべく屋上の扉を開けようと伸ばした手は、予想外にもドアノブを掠めて空を掻く。
あっと思った次の瞬間には、前のめりになった上体を支えきれずにバランスを失なった体は、扉を開けて屋上へと上がってきた裕ちゃんの胸へ倒れこんでしまった。
「きゃぁ!!」
「…ぉわっ!!」
膝をつくように前のめりに倒れる私をかばうように、しりもちをつく形で床に座り込んだ裕ちゃんがイテテ…と少し顔を歪める。
「ごめんっ!!大丈夫!?どっかケガとかしてない!?」
裕ちゃんの痛いと言う言葉と歪んだ表情に、慌てて立ち上がると、自分の両膝にもズキンと鈍い痛みを覚える。
「いや、オレは大丈夫だよ。それよりこっちの方が重症じゃない?」
床に座ったままの裕ちゃんが指差す先には立ち上がった私の膝。
床に倒れこんだ時に擦りむいた膝頭からは血が滲み、傷口から溢れた血液が脛を伝っている。
「あちゃー。こりゃ結構深そう?」
相変わらずすわったままの裕ちゃんが傷口をまじまじと見つめている。
「だっ…大丈夫、大丈夫!!ちょっと擦りむいただけだから!」
心配してくれるのは嬉しいんだけど、足をまじまじと見つめられている状況はさすがにちょっと恥ずかしい。
第一、子どもじゃあるまいし、この歳で転んで両膝を擦りむくなんて事自体がそもそも恥ずかしい。
「それより、裕ちゃんは大丈夫?私がボーッとしてたから、ホントにごめんね。」
この恥ずかしい状況から一刻も速く立ち去りたくて、立ち上がる裕ちゃんに謝りながら痛む足を引きずるように後ずさる。
「や、オレはホントに平気。それより沙耶の膝!!オレが手当てしてやるよ。」
「えっ!?いいよ、大丈夫!!絆創膏貼っとけば大丈夫だと思うから、自分で出来るし…」
「だーめ。大体、歩くのだって痛いんだろ?この階段、リビングまで何段あると思ってんの?」
血が滲む私の膝と階下へと続く階段に交互に視線を向けながら少し怒ったような声で私の意見を却下した裕ちゃんが、ツカツカと近付いてきた次の瞬間。
両膝の裏にサッと左腕が通され、背中に回された右腕に支えられたかと思ったら、重力に逆らうようなフワッと宙に体が浮く感覚に思わず身を固くしてしまう。
「ひゃっ!ちょ…裕ちゃん!?」
「ははっ!『ひゃ』ってなんだよ。そんな足で歩けないだろ?リビングまで大人しく運ばれなさい。」
口調こそいつもの穏やかな裕ちゃんだけど、真剣な眼を見たら、いいから降ろして!なんて言えなくなって、大人しく身を預けるしかなくなった。
屋上からリビングなんてあっという間な距離なのに、裕ちゃんに運ばれたあの時間はスローモーションのようにゆっくりで、何を話したかも覚えていなくて…。
ただ、支えてくれた裕ちゃんの腕が意外に逞しかった事と、寄りかかった裕ちゃんの身体を通して聴いた低音が私の五感を支配していた。
「…ぃった…」
「ごめん、ごめん。もうちょい我慢してな?」
所謂、お姫様抱っこ状態でリビングまで運ばれた私は、ソファに降ろされてそのまま裕ちゃんに傷口の手当てをしてもらっていた。
傷自体はそれほど深くはなかったけれど、膝を床につく形で転んだせいで打撲の痛みが傷の痛みと相まって、傷口に少し触れられる度につい声が漏れてしまう。
「ううん。私こそごめんね?ぶつかった上に勝手に怪我して、手当てまでさせて…。屋上で休憩したかったんじゃない?」
「んや、ぜんっぜん大丈夫。つか、実を言うと沙耶を探しに屋上に行ったんだよ。」
「え…私?」
膝に巻いた包帯を留めながら、そ。と言ってニカッと笑う裕ちゃんの笑顔にドキンと心臓が跳ね上がる。
「今日カズさんも遅くなるっていうし、誰も居ないだろ?だから、夕飯一緒にどうかなって。」
「え…?」
予想外の展開に思考が追い付かなくて、返事にもならない言葉しか出てこない。
「つっても…この足じゃ出掛けるのは無理かぁ…。」
傷の処置を終えた裕ちゃんは救急箱をクローゼットに片付けながら私の膝に視線を向ける。
「あ…えと…ごめんなさい…」
両膝に包帯を巻いた状態で、しかも痛みのせいで歩き方もぎこちない事を考えれば、外出する事自体無理なわけで。
せっかくのお誘いを自分の粗相で不意にしてしまった情けなさと、裕ちゃんへの申し訳なさでなんだか泣きたくなってしまう。
「違う、違う!外に食べに行きたかったわけじゃないから謝んないでよ。ここでだって一緒に夕飯は食べれるだろ?…つーか、一緒に食べてくれる?」
裕ちゃんは優しい。
私にも、他の四つ葉荘の皆にも。
大学で見かける裕ちゃんの周りにが賑やかなのは、その人柄を慕っている人が多いからなんだと思う。
ムードメーカーな明るい性格は、ともすると軽くておちゃらけた印象さえ与えてしまうけど、裕ちゃんのそれはただのおふざけとは違う。
ちゃんと相手の気持ちや周りの空気を察した上で冗談を言って和ませたり、時には自分が悪役を買ってでたりする。
そんな裕ちゃんに惹かれて、半ば勢いで伝えた気持ち。
『今のオレは沙耶の気持ちに応える資格がないんだ。ごめんな。』
そう言って私の片想い歴を更新させた裕ちゃんは、私の気持ちを知ってからも相変わらず優しい。
というか、私の気持ちを知ってからは前にも増して優しい気がする。
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