92 | ナノ

ぱらん。
記憶力に自信はない。どこで買ったかは覚えていない。どこかで買ったと言うことだけは覚えている。路地の中の店だった気もする、路上で広げている店だった気もする、百均だった気もする。もしかしたら思い違いで元から家にあったのかもしれない。全部赤の傘。銀のはずの棒も赤、なんでも赤、取っ手も赤く、いつかの少女が喜びそうな色。
ぱらん。
けれど開くと中は赤くない。今は外の天気が晴れ渡っている。清々しく憎らしく青々として広々として延々続いて宇宙を薄くした色で太陽が光り鳥が飛んである人が言うには良い天気。引っ掻けを指で押してばんっと布を開く。張った布は僅かにカーブ。外は赤い、中は青く、薄い雲。外が曇って太陽が被って明るかった良い天気とやらがどんどん崩れていく。十分足らずで雲の天井が灰色に出来上がり、町に濃い影を落とす。遠くでノイズのような音がさああっと響き、徐々に近付いてくるのを窓を閉めて受け止めた。
ぱらん。
傘は赤く青い。いつ気付いたのかさっぱり忘れた。しかしいつかだった。いやもしかしたら思い違いで今日なのかもしれない。これは空を切る傘だった。空を切って傘の内部に貼り付けて、その穴を隠すために雨が降る。ざあざあ土砂降り、ぼたぼた流れ落ち。
ぱらん。
傘を閉じて、また開く。今度は内部は灰色に染まって重苦しい雰囲気だった。ざあっと降る。子供の頃やたらと雨に濡れて遊びたがるのは何故だっただろう。もう思い出せない。傘をさす。内側から雨が降る。外がからりと晴れ渡っているのがカーテンの隙間から分かった。雲に穴が開いたから、遠くに隠れてしまったのか。町を重く流れ、山岳を越え、遠く遠く。
ぱらん。
部屋に雨水が溜まる。床を覆う透明の床。踏めず蹴れず、ただ踏み抜けば勝手に修復される。床にあった物がふよふよと浮かんでたぱたぱと揺れた。どんどん溜まる。徐々に徐々に上に上がる。
ぱらん。
やっとオレを飲み込んだ雨はもう部屋の四分の三は溜まっていた。ぽかぷかと変な籠った音がする。塩の味がして、小さな鯨がくらんと游ぐ。岩が立ち、砂が床を隠し、海草が生えてふらんと流れる。魚が群れをなして逃げ惑う。鮫が捕まえ歯で砕いて赤い血を撒き散らす。臆病が岩場を求める。深い場所が出来、グロテスクな生き物が膨らんだ。クラゲがわさわさと毒を持つ。暗がりで光る物が生まれる。ヒトデがぺたりと岩にしがみつき、蛇のような魚が早く滑った。
オレの姿はばよばよ膨らんでぐにゃぐにゃ歪んで声も割れて聞こえない。傘を持って椅子に座る。肩に傘を預けて膝を立てて、このまま食い荒らされれば良いのにと。
ぱらん。
聞こえない音が聞こえてそっちを見た。オレは見えないのにそいつはやけにはっきり見える。おやあと驚いた顔をしてオレを見たそいつはたとたとと足音を響かせながらこっちに近付いてきた。あははと朗らかに笑う。

「海、嫌いじゃないっすか」

あ。ようやく思い出してどうしようかと周りを見れば、そいつはオレから傘を取ってぱらんと閉じた。床に突然穴が開く。マンホールほどの大きさの穴は縁が銀。金網なんて張られていないからぞっとするような黒がある。ごっごっと一気飲みでもしているんじゃなんて音が響く。あっという間に魚も何もかも全部飲み込まれて、部屋は元通り。

「行くっすよ、シンタローさん」

にこりと笑って傘を持って。どこに行くと言えばそれは一ヶ所しか無いわけで。
オレはようやく肩の力を抜いた。


人の波がゆらゆら動くのをじっと見る。早朝、と言うほど早朝でもない時間帯の駅のベンチ。忙しくばたばた駅の階段を登ったりエスカレーターにぐいぐい引っ張られたりのスーツや私服の群れ。黒や白や灰やら、その中でやけに目立つ原色を見付けてはそれに目を捕らえられては去っていくのを見送る。肩を比べ踵に随うように、大勢の人が急いでいた。通勤ラッシュと言うものだが、意外でも何でもないだろうが体感したことはない。冬は暖かい部屋で、夏は涼しい部屋で、そうやって生活してきたためだ。他県に行くような用事もなければ昨今は通販で済む買い物、むしろ現物を見に行く意味が分からない。社会を舐め腐っていることの自覚はバッチリあるが、今さら改めろと言われて急に何とかできる訳じゃないし何とかしたいとも思わない。しかし親はそうは思わなかったらしく、これは好機とばかりに外出を勧めてくる。心配していることは分かっているのだがいい加減視線が面倒で仕方無く、渋々こうして愛しの魔窟から這い出てきた訳で。一応息子さんの誕生日ですよと言いたいが大して祝われる歳でも無ければモモのように頑張ってもいないのに言えるわけない。しかし若干ではあれどショックはショックだ、忘れ去られているのは辛い。自分から言うのはまるで祝ってくれと言っているようだしそこまで構ってちゃんじゃない。そんなこんなで散歩がてらに歩き通勤ラッシュが目の前を横行するのを眺めている。さっきから新社会人たちから寄越される視線が酷く痛い。もしや就活に失敗した無職のクズとでも思っているんだろうか、なんと大きな間違えだ。就活自体やっていない。大敗の前に高校卒業資格すら取れてない。胸を張って言えない経歴だ、それで就活に臨んでみたら書類の時点で即落とされるだろう。若干しょっぱい思いになり、ベンチから立ち上がる。駅は相変わらず電車と人を飲み込んだり吐き出したりと忙しそうに齷齪働いていた。色が様々に広がっている、つい自動販売機の前で立ち止まってしまいキドに怒られたことを思い出す。自動販売機は高いとか何だとか、確かに高いがテーマパーク内の物よりマシだろ。それを言うならスーパーの方がもっとマシだと反論されそうで言ってないが。ゆっくりと素通りして時計を見るスーツの横を通る。駅前の店てんてんと列なっている中、花屋らしき店の前で止まって気紛れに中を覗いてみた。確かセトが居るとか何とかを聞いたことがあるようなと花で圧迫されそうな店内に入っていく。所狭しと花が置かれ若い植木が立っている。青臭さと花粉の香りがするなとぐるりと見回してみれば天井からも鉄のボウルのような物に植えられた花が鎖でぶら下がっているのが分かった。その鎖の先は隠しているのか蔓がびっしりと這い、それらがお互いに絡まって天井を作っている。緑の天井からカウンターに目を向ければそこには占い師のような女が座っていた。黒い髪に黒い輪がティアラみたいに回り、その輪から垂れた黒いヴェールが顔を覆っている。魔術師みたいな黒のローブを羽織り、オレに向かって手を招く。それに恐る恐る近寄れば占い師はどこからかメッセージカードを取り出す。そのメッセージカードにはばたばたとバラバラに大小の文字が書かれて重なっていた。占い師がそれをじっと見詰めた後ぱっとメッセージカードを振る。メッセージカードから様々な文字がからからと落ちて床に当たり粉々になっていく。満足したのかメッセージカードを振るのを止めた占い師はそれをオレに差し出してきた。受け取るまで一ミリも動かない気がして急いでそれを受け取れば、占い師は立ち上がってにこりと奥で笑う。ぞろっと蛇みたいにローブから伸びてきた片手がオレの肩を掴んでもう片手が白い箱をオレの手に握らせた。ぐいっと肩を押されて後ろを向かされる。振り返ろうとしたら女の力とは思えないほどの強さで背中をどんっと押された。思わず手の中にあった白い箱をぐしゃりと握りつぶす。ばふっと布が頬を打って受け止められる。

「いっつ......」
「え?あれ?」

困惑する声を聞きながらつい少し噛み切った口内を舌で労る。何と無く握りつぶした白い箱を見れば中身の形に変形しているようだった。薄い紙で出来ている、折り紙のように何度も折り込まれている箱を破って開けてみる。小さな折り鶴、では、ない。折り鶴に見えるよう細かく細工された白く濁った硝子。少しの動揺が内臓を揺さぶった。ゾッとするような、図星を指されて恥ずかしいような。
ふと背中を撫でらトンと一回叩かれる。名前をゆっくりと呼ばれて顔を上げる。

「シンタローさんどこから出てきました......?」

どこから、なんてオレに分かるわけがない。メッセージカードを開くと7の数字とIの英字が書かれ、緑のインクが蔓を作って文字に絡まり、赤い花を一輪咲かせていた。見覚えがある気がしてそれをなぞる。
何と無く答えを求めるようにセトをもう一度見れば、不思議そうな顔をしながらもにこりと笑って首を傾げた。文字より黒い髪が揺れる。
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