91 | ナノ


「出口の無いトンネルみたいだな」

ばたん。難しそうな本が閉じられる。
自嘲と一緒にシンタローさんがぽつんと呟いた。それはくわんとした響きを持って部屋に広がり、消えていく。灰色の洞窟がぽっかりと延々と続く不気味さ、自分の足音に追われ剥き出しの管の影に急かされる。背後にふと気配を感じて振り向くけど誰も居ない。シンタローさんの額に触れて目を閉じた。流石に笑えなくて、心の中だけで笑う。白いベッドに座ってシワを見詰めるような生活の中、追い込まれそうなシンタローさんを押さえる日の中。ようやく諦めたらしく、シンタローさんは目を開けた。悪夢だなと呟いた声に俺は目を閉じさせ、ベッドに倒れ込む。

「暇だ」「そうっすねえ」「なんか面白いこと無いの」「シンタローさん、唐突っす」「何でも良いから」「そうっすね......」

ベンチの上でぐたりと上を見る。葉の影に隠れたはずの太陽光は目立ちたがりで、葉を透き通ってオレにぶつかる。春の気候はどうにも眠気を誘って仕方ない。

「ちょうど一年っすねえ」「ああ、そういえば」「祝うっすか?」「忌むべき日だもんな、盛大に祝うか」「聞いた俺が馬鹿だったっす」「馬鹿とか、今更自覚?」「酷い人っすねえ」

酷い酷いと言いながらからから笑うものだから頭が痛くなる。何の言葉もこいつに笑い飛ばされるのは調子が狂うから嫌になるのだが。
隣でオレと相席するコンビニのビニール袋から赤と白のロゴが覗く。がさがさと風に揺れる。少し古い公園には人が一人も居らず、まだ錆びても塗装が剥がれてもいない新しい公園の騒がしい声が聞こえた気がした。

「あんまりそういうの飲むのは感心しないっす」「余計なお世話だってずっと言ってるだろ」「貴方だけの体じゃないんすよ」

思わず何も言葉が返せなかった。好機とばかりに何か言おうとするセトを無視して大人気ないがペットボトルを開ける。あっと微かな声が聞こえた。少し周りを見回して誰も居ないことを確認する。固かった蓋が開き、返品できないことを示すとセトは押し黙った。苦い顔が瞼の裏に見える。
何口か飲んで蓋を閉めた。セトは呆れてか何も言わない。

「長生きしてもな」「苦しく死にたい訳じゃないのに」「これだけで大袈裟な」「これだけじゃないっす、ほぼ毎日飲んでるじゃないっすか」「一途だな、オレ」「シンタローさん」「分かった分かった」

適当に頷けばセトは溜め息を吐いて苦く笑う。大袈裟な。まあ体には悪いだろうけど。確かに苦しみたい訳じゃないが、長生きしたい訳でもない。むしろ今更、だ。
ベンチから立ち上がる。ビニール袋にペットボトルを入れて公園を出た。黄と白の蝶、黄と白の蒲公英、新緑の若々しい眩しさ。

「どう死にたい」「また突然っすね」「暇なんだよ」「どうって、理想ってことっすか?」「何でも良い」「自分から振っといて大雑把なんすから」「親みたいに口煩いな」「シンタローさんは思春期から見た父親っぽいっすね」「どんなだよ」「体験したこと無いから知らないっす」「オレも無いからその例え分かんないんだけど」「これは、失敗したっす」

ばたん。どこかでドアが閉まった。
神妙にううんと悩むセト。オレが親の話題を出したから対抗しようとしたんだろうが、どうにも詰めが甘い。
日の当たる道は暑い。夏はそう遠くない内に来てしまうと実感する。毎年毎年夏になるといつの間にと感じる。怠惰に過ごしているからかもしれないが。

「老衰したいっす」「戻るんだな」「特に話題が無いっすからね」「趣味が合わなくて悪かったな。で、老衰ってなんで」「理想って言うより考え付かなかったからなんすけどね、苦しいの嫌っすから」「ああ、病気とかな」「その点ではシンタローさんは手遅れっすね」

今度はオレがむすっとする。セトが慌ててまあまあとオレを宥め、にこにこ笑う。
車が近くを通る。歩道の無い狭い道だから端に寄ってやり過ごす。助手席に座っていた女性がぺこっと頭を下げた。

「ケーキ食べないっすか?」「急になんだよ」「さっきの助手席の女の人がケーキの箱持ってて」「あー、持ってたな」「で、どうせなら」「ちょうど一年ってやつか?」「んー、そうっすねえ」

明瞭で無い返事だった。

「まあ良いけど」「じゃあ商店街」「......急に面倒になってきた」「有言実行、男に二言はないっすよ」「あーはいはい、分かったよ......」

せっかくの我が家の前を通り過ぎてだらだら歩く。ふとコンビニでも良いんじゃと思うがセトが許さないだろう。コンビニの物も美味いんだぞ。たまに途中で飽きるけど。

「てか男一人とケーキって」「言葉だけだと寂しさと侘しさでいっぱいっすね」「絵面的にもだよ」「そうっすか?」「そうっすよー......」「でも行ってくれるんすね」「家を通り過ぎたら吹っ切れてな、なんかケーキ食いたい気分」「それはそれは」「なに」「いいえ、なんでも」

それにしては嬉しそうな響きだ。

「それにしてもこんな発狂しそうな状態が一年って」「いやー、俺もびっくりっす」「死んだと思った」「どっちが?」「どっちも。オレも、セトも」「死ななかったっすね」「死ねなかったの間違いだろ」「生きて貰うっすよ」「重い」「愛が?」「それは寒い。脳がだよ」

頭が重い、頭蓋骨の奥が重い、白い石壁の裏が重い。

「最悪の誕生日プレゼントだった」「覚えてたんすね」「いや、ケーキで思い出した」「シンタローさん空気読んで思い出さないで」「空気読めないとかお前に言われたくない」

オレの口は動かない。

「俺をプレゼントってやつっすね」「寒い、キモい、吐く」「酷いっす」「捨て身過ぎだろ、重い」「脳が?」「お前が」

ばたん。
脳を移植するとか何とか、そんなことを聞かされた記憶。許可を求める書類と電子音の心臓。

「こういうのも二重人格って言うんすかね」「オレが生み出した人格って説は」「それは逆も有り得るじゃないっすか」「お前がオレになってオレを、ああもうややこしい」「まあ信じたいのはやっぱり別々の人間って方っすよね」

そうだなと言うのが癪で黙る。
商店街に入った。そこそこ人が通っている。

「脳内同棲」「痛いな」

ぱたん。

オレには同居人が居る。頭可笑しいとか精神科を進められるような、兎に角同居人だ。きっと誰に言っても信じられず、それを予想して最初から諦めてしまうような同居人だ。
鏡の中に住んでいる。

長く細いシンプルな姿見が部屋の隅でぼんやりと立っている。カーテンを閉め切った薄暗い部屋で僅かな光を拾って存在感を示すように反射させる姿は涙ぐましい。元々母の物だったが新しく買った際物置にスペースがないからと特に必要性を求めていなかったオレの部屋にお古が運び込まれた。妹にやれよと言う声はその妹の持っていると言う言葉によって叩き落とされ、姿見は見事オレの部屋に住民権をあっさりと獲得した。埃を積もらせ隅でぼんやりと立つ役目。それが崩されたのはある日向こう側に人影を見てからだった。
反射する弱い光の中にきょろきょろとこっちを覗く人影がある。こんこんと叩くような仕草をするが、こっちには動作だけで音はしない。小さいタイヤをごろがろと転がしてその鏡の前まで滑れば、そいつは直ぐににこっと笑顔を見せる。おはよう、と丁寧に一字一字で口をゆっくり作るそいつに、オレは普通におはようと声に出した。もちろんあっちに聞こえるはずはないが、もしかしたらこっちの音は全部聞こえているんじゃないかと思うほどそいつは嬉しそうに笑った。
奇妙な同居人はオレと同じような部屋に住んでいる。オレの部屋は汚いとかあっちではペットが居るとかそういう差はあれど家具の配置やドアと言ったものは大体一緒だ。同居人と言って良いのか分からないが、他に言い方も思い付かない。そいつは一枚小さなメモ用紙とペンを持って立っている。いつも思うが、憎らしいほどオレと顔レベルが違う。言ってて切なくなるほどに。

「最近多いな」

向こうでそいつが持っていたメモ用紙を二つに折って横に置いていたハードカバーにぱたふと挟む。そのハードカバーを持ってひらんとオレに振るからオレは渋々立ち上がるしかない。そいつが持つ本と同じ物をパソコンの横から栞紐を引っ張って手に取る。ばらっと開けばメモ用紙がひらひら落ち、フローリングの床にぱさっと軽くぶつかった。どういう原理か分からないがあっちとこっちの同じものは入り口になっているようで、メモ用紙程度のものならこっちに送れるらしい。らしいと言うのもよく分かっていないからだ。こんなことが起こったなんて聞いたこともないし、第一調べようにもこの現象の検索の仕方が分からない。
ため息を吐き出して床の白いメモを指で引っ掻け持ち上げた。どこにでも売っているだろうメモ用紙には反転した文字が書かれている。これもいつも通り、読みにくくて仕方ない仕様だ。裏返して日に透かすとちゃんとした文に変わる。雨の日の昼なんかは少し読み辛い。

「......」

がろがろと机を強く蹴ってタイヤを回した。壁にぶつかる前に迫る壁に手をついて鏡を見る。いつもにこにこと笑う顔はそこに居らず、光を返してオレを写す鏡があるだけ。それが正常とは知っていても少し違和感を感じてしまうのは長くの同居生活の賜物だ、余計な物を残していきやがった。鏡を覗いた後メモにまた目を落とす。どういうことだ。

「シンタローさん」

それだけを書いたメモ。メモ文通の頻度は高かったが、それでもお互い名前を名乗ったことがないはずだ。鏡にまた視線を向ければ鏡の真ん中辺りにじわりと黒が染み出していた。若干ホラーにも思えるそんな様子を見守れば、それはどんどん文字を作る。ゆっくりゆっくり一文字一文字丁寧に、まるで毎日の挨拶を形にしていたあいつみたいに。

「どういう、意味だ」

その黒い字にオレは首を傾げる。少し斜めに見える癖のある字。

俺には同居人が居る。同居人と言って良いのか分からないが、兎に角同居人だ。現実的じゃない、まだまだ不思議なことは世界に溢れているのだと実感せざるを得ない同居人だ。
彼はまだ若い。

まだ幼い顔を毎日毎日飽きもせず眺め続けてきた。最初なんて驚きすぎて彼は盛大に椅子から転げ落ちて青ざめていたのが懐かしい。カノが見たなら大爆笑だっただろう。エネちゃんを思い出すような彼は学生服を着ていた。黒い学生服はいつもの彼と違って似合うには似合うのに犯罪者一歩手前を覚悟して脱ぐことを求めてしまいたくなるほどいっそう暗く感じて今もあまり好ましく思えない。やっぱり赤だなと思ってしまう。
ごと、と物置に姿見を置いた。物置にスペースがないからと俺の部屋に運び込まれていたが、ようやく片付けたらしい。窮屈さも無く姿見は物置に住所を据える。

「シンタローさん、覚えてるっすか?」

物置から出てドアを閉めた。不機嫌そうな顔が、気に入らないと言わんばかりの目が、ひたりと俺を睨む。

「誕生日、」

五年後に言う。下らないし小さいことだ、けど覚えているのだろう。
頬を撫でれば複雑そうな表情に変わって。
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