90 | ナノ
セトシン

似合わない景色だ。
ボートが一艘、水面を僅かに埋まって進む。新緑から枯れ葉からとかき集めて敷き詰められた水面は色鮮やかに染まってちゃぽちゃぽ音を立てて、進む度に深い濃い黒の道が出来上がる。一面鮮やかな色彩を写すこの場所にオレはぼうっとその幻想的とも言える景色に見とれることも無くただただ眺めるだけ。漕ぐ度手が痛くなるようなオールはとっくに手離して、それが水を吸って重くなって落ちていくのを見届けてしまったから、だからオレはただただ眺めて風に押されて流れる景色を見るしかない。ずっとずっと遠くにある線の岸は一向に近付かず、それに焦ることもなくオレは飽きた景色にボートの底に寝転んだ。ぱしゃんと水が少し打つ。真っ正面から対峙と言うには遠い太陽は、かっかっと光って眩しい。それをずっと見続けるわけにも行かず、瞼を閉じても明るい日光を脱いだジャージを被って遮った。対して眠かったわけでもなかったはずなのに、オレの意識は不自然な速度でどんどん落ちていく。

「馬鹿だろ......」

その人の第一印象は、想われていると言うことだった。暫くするとそれが間違いだと気付き、重い人なのだと思うようになる。そして最後には思ってしまう人なのだと。
運命の相手は複数居る。たった一人も居るが大体は四、五人が一人にとっての運命だ。その中でたった一人を選ぶと他の相手は用済みとなり永遠に縁は結ばれない。大概の人間は運命の相手が居るがそれは飽くまでも複数の相手であってその相手たちにとっても自分は複数の相手の一人にすぎない、と言うことだ。つまり運命の糸と言うものは蜘蛛の糸のように縦横無尽広がっている。
運命の相手という物ほどの失敗作はないだろう。
持っただけでふつん...と切れてしまいそうな、そんな薄く細い赤の糸がその部屋には広がっていた。しゃらしゃらと風に揺れてお互いが擦れて微かな音が鳴る。何十の糸があちこちに引っ掛かっては床に溜まり、滑るようにするすると動く。その糸を掬うように指を伸ばせば小さな蜃気楼かのように指は通り抜けただの一本も引っ掛からない。暫くその手を見詰めて視線をその糸の先全てが集まる一点、日に焼けていない荒れてもいない手を見た。今じゃ糸が絡まって繋がれて手首まで真っ赤だ。手の形すら見えない。

「本当に、お人好しなんすから」

がたんごとんごたんがとん。
箱が移動をする。ぎりぎりと鉄の輪を回して鉄の線の上を走っていく。リノリウムのつるつるした床が水で濡れて更に光っていた。ゴムのような、柔らかくも固い床。ドアに埋め込まれたプラスチックの板が白い照明の光を返す。それは景色が真っ暗になっている窓に写り、鏡のようにもう一つの箱を作り出した。小さな電光掲示板がオレンジの明かりで次にきりきりブレーキをかけるコンクリートの要塞をぺかぴかと叩き出す。車内で横に二席ずつ並ぶ椅子は肌触りはするりとしているが安っぽい匂いがする。ひし形に編まれた荷物棚、くらくらとブランコのように軽く揺れる白いつり革、箱と箱を繋ぐドア。さあさあと細かな音が外の天候を示す。手に持った傘のくしゃりと畳まれた布部分から垂れる水がリノリウムの床にじわりじわりと広がり振動にふるふると光を震わせた。
箱の中には誰も居ない。かとんかとんと杖をつくような音も、窓が微かに震えているだけのものだ。
柄は赤い皮でしっとりと浅く濡れている。まだ濡れて乾いていない赤い布、くにゃっと曲がるようになっている赤い棒、その二つを柄と繋げる一本の真っ直ぐな真ん中の赤い棒。
がたんごとんごたんがとん。
暫くぼうっと傘の水溜まりを見ていると、塗料が溶け剥がれたように水溜まりが真っ赤になる。それに軽く驚いて柄に置いていた手を見ればこっちも真っ赤になっていた。床がどんどん赤く染まり、その水溜まりがじわじわと急速に広がって椅子や壁を這って飲み込む。窓の外も次第に蒼鉛色に代わり、そして赤をどんどん強くしていった。
手に付いた赤が血のように見えて服を掴む。椅子の上に座ったまま踞るように上体を折り、脳が揺れてくらりと目眩がしそうになるほどそうした。何分かの後、ようやく上体を起こして周りを見る。誰も居ない閑散としたそこには濃淡はあれど赤以外の色を見ることは出来なかった。枯れかけの葉のような秋の色。手も真っ赤なまま。しかしそれは手を眺めていると違うことが分かった。所々肌の色が微かに見え、間接がぎち、と動きにくい。手のひらから溢れているように見えるのは垂れているだけで、それがいつの間にか滝のように四方八方を束になって広がっている。座っている膝や足が見えない。
赤い絹のような滑らかな糸が指という指に絡まり手のひらや手首、肘と手の付け根の間まで、真っ赤に真っ赤に肌色を埋めていた。布のように広がる。
いくら引っ張っても千切れず、解こうと端を探せば無く、成す術もなく諦め呆然と見ていれば、それが微かに動き出した。一定のリズムで動くためそれはまるで波のように手に伝わる。どくんどくん。血が通って脈を感じそうして集まった一体の生命の塊のような。

「い、ーーっ!」

急激な痛みが手のひらから発される。意図せず漏れた声は痛みを耐える呼吸に変わり果てた。ぎちぎちと手のひらに糸が食い込む。下で何十人の男がぶら下がっているんじゃないかと思うほどのそれは弱まることも無いまま、むしろどんどん皮膚が裂けるほどに。
重いのだと分かる。重力を糸にだけ何倍も科せられているのだ。最初に見間違えた血が本当になってしまった。痛くて重くて、思わず椅子から落ちて冷たい床に手を落とす。何とか解きたくて、無理矢理にでも引き千切ってしまいたくて、それにはまず指から何から手が動かない。ぶわりと汗が出て肌を滑り、衣服へと消えていく。息を吐けば痛くなる気がして息は満足に通らず、常にぜえぜえと荒い。歯は噛み締めすぎて奥歯が痛くなり、拍子にどこかを噛み切ったのか血の味がでろでろと口内を制圧していた。
赤い電車ががたんごとんごたんがとんと揺れる度酷く痛む。駅に着けば良いのにとじんわり汗が浮かぶ皮膚の下に置いた脳で考えた。白い骨が血に染まらずにがたがた震える。誰か。誰が来るかも分からない。もしかしたら誰も来ないのかもしれない。いつの間にかこんな激しい痛さも慣れてしまうのかもしれない。電光掲示板はちかちかと光っていたが、全て赤くなった車内にその文字は見えることが無かった。ただ光っているという事実だけが存在している。
おもい。

お姉ちゃんに成り代わりたい訳じゃない。
しん、とした静かすぎるほど静かな駅、コンクリートと鉄の箱の要塞。商品棚に何もない売店の白熱灯がちかんちかと点滅し、少ししてぷつと途切れた。求人雑誌が種類も補充も豊富に棚に並べられ、掲示板がうっすらと明るい小さな光源を広く白く照り返している。切符の料金を示す路線図は色んな線がぐにゃぐにゃとのたうち回ってばたばたと無尽蔵に広がる駅名をはたはたと繋げて、下で機械がきちりと潔癖性のように整列して静かに客を待つ。
改札は誰も居ないお陰で少しも動かず、プラスチックの窓の向こうは散乱した書類だけで駅員の気配もない。プラットホームへ続く階段はゴムが張ったドアの向こうに閉じられている。それをあっさりと跨いでプラットホームへ降りた。隣のエスカレーターは起動しておらず、ただの黒炭のような黒い階段と化している。灰色のコンクリート階段、ぼろっと剥がれそうな黒ずんでいる黄色い点字ブロック、ぺたりと不快に手へ張り付くのぺりとした手摺、薄暗い白の照明、プラスチック板の向こう側のポスター、雨に濡れたアスファルトと錆の匂い、階段を降りる足音。冷たいのか生温いのか判断がつかない気温をようやく降りると体がぎしぎしとぎこちなくなりそうな錆の空気が一気に霧散する。プラットホームもまた無人だった。自動販売機と電球だけが活動を続けている無機質な酸素が肺に入り込む。電光掲示板は沈黙し、売店は無惨に荒らされたように商品が踏み潰されていた。水気を含む二酸化炭素と水気を含む酸素が少しばかり交換される。鉄管を声帯の震えが走ることもない。屋根を支える所々赤錆に彩られた鉄柱に思わず触れれば、塗装がべりっと手に張り付いて剥がれた。黒ずんだ白が手形を抜き作る。たまに滴のまま固まっている塗装の向こう側には赤い色がべちゃりと塗られていた。乾いていないのかどんどん外へ垂れていく。何となしに振り返れば、靴跡がてんてんと真っ赤に続いていた。赤い塗料が塗りたくられ、脆い外側シートが覆うように敷かれ巻かれている。手を叩いて白を払い、アスファルトの感触がするプラットホームを進んだ。電光掲示板が突然光り出す。するすると文を連れて歩いている。しかし文とは言えない数字と記号のだらだらと長い行進は止まらず、途切れず、何か特定の意味を拾うことも出来ないまま。そして何の前触れもなく突然ふつりと電源が落ちたようにそれは消えた。グオッと風が巻き起こる。
がたんごとん、ごたん、がとん。
騒がしくプラットホームに入ってきた真っ赤な電車。何もかもが真っ赤で目に痛い。ゆっくりと進み、そして止まる。ちょうど目の前で両側に開くドアが止まった。ぷしゅーと圧縮した空気を吐き出す音と共に二枚の板が両側にがこんと開く。窓も赤いのかと思っていた。車内は熱くも寒くも温くもない、気でも狂いそうなほど真っ赤な中で見落とせるはずもない黒。
小指から繋がる一本の糸だけ途中で切れている。それを離さないから、血が滲んでいる。苦しそうな息遣いに問いかける。教訓に、なっただろうか。

手が動かなくなった。動かしにくいとは常々思っていたから特に驚きはなく、やっぱりかと納得が胸中を占めていた。あいつは何だか複雑そうに見ていて。
重いかと聞いてきた。

手が動かなくなった。彼の手は重そうにぐるぐると巻かれていた。やっぱりかと浅く呟いた彼に複雑な感情が芽生え、手離さない彼がどうしても嬉しくて。
想いかと聞いてみた。

切れた糸の端を持ち上げてみた。気付いているのかいないのか、ただ焦点の定まらない視線はこっちを向いていない。目が疲れる赤糸の海の中で不格好な結びを作る。取り合えず切れないようにと何度も何度も結んで何度も何度も引っ張った。色んな結び方が固まりになっていく。満足いくまで結んで、手を握る。こんな日に、こんな贈り物。

「俺は、あなたより重いっすよ」

正常な色の電車。

「だから、絶対、どこにも」

トンネルに入った。
がたんごとんごたんがとん。
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