80 | ナノ
シンセト

思いっきり殴れたなら、どれだけ後悔しながらもスッキリするのか。

金。世界を回して経済を成り立たせ物流に欠かせない人が作った精巧で緻密な、紙切れ。生きるためにはその紙切れは必要不可欠で、無かったら困るし有りすぎても困る厄介な存在。ただその男は有りすぎて困るなんて贅沢な悩みを持っておらず、逆に貧困ぎりぎりを常に歩いていた。
例えば舐めるだけなら五万とか、入れるなら十万からで時間によって数字が増えるとか。そういう仕事をしないと金への問題が途端に湧いて出る状況だった。きっとこいつが一人で暮らしていたりとかそういう身だったらそんな一般人が潔癖性装って嫌う事をしなくて良かったんだろう。けどそいつには金銭的お荷物が二人三人居るから。
そいつを見て常々思うのは、貧乏クジ引かされていると言う同情だった。

いつも通り遅い時間帯、オレは一人でネットの波を楽しむために広大な明るすぎる海を画面越しに探っていた。密閉型のヘッドフォンをして音楽を垂れ流し、スタンドライトで部屋を照らさせていた。エネは別段何かするわけでも無く、勝手にウィンドウを新しく開いて何やら楽しそうにしていて、平和だと思わざるを得ない夜だった。深夜をとうに越えている時計は明け方に向かって懸命に仕事をしている。たまにエネと会話を交わし、動画をあさり、ヘッドフォンをずらしてテレビをつけ、適当に番組を観たりと穏やかだ。そして明け方に近くなっていくに連れてようやくやって来る睡魔に身を委ねるのだと、思っていた。
滅多に連絡なんて来ない端末がキーボードの横で充電器を刺されたまま震えた。デジタルの時計に刻まれる時刻は四時。登録してあるアドレスの中から叩き出された名前は紛れもなく珍しい奴からだった。メール受信のアイコンをたとんとタッチすればぶわっと奥から泡のように浮き上がってくる画面が広がる。受信ボックスの文字の横に1の数字があり、久しぶりのメールをオレに知らせてくる。
滅多に無いメールには少々見苦しいながらも訳がある。それはまず第一にオレからメールをしないということと、メールが来てもオレの返信が素っ気なさ過ぎて会話が続かないと言う訳がある。後者はリアルタイムで話を交わし合えるサイトを利用しているが故の反動だ。書いてすぐに反映と行くわけにはならないメールは、ぶっちゃけ面倒くさい。そのため最近は意味も無いとりとめもないメールをしょっちゅう送ってくるカノでさえ、エネだけにメールを送るだけだと言うのに、珍しい人物からのメールだ。恐らくオレ宛だろうなとその件名も何もないシンプルな未読メールを開いた。

『すいません、家の前です』

それだけのメールにオレは首にかけていたヘッドフォンを外して窓の外を見た。暗闇と角度で見えにくくはあったが、どうにか家の前に居る男を視認し、その姿に思わずため息が喉を通った。暗い道に濃い緑色。
恐らく寝ているんだろう静かなモモの部屋を横切り、階段をたまにきしきし音を立てながら注意深く降りる。玄関で常に待機しているサンダルを裸足に引っ掻けてドアを開けた。
そこに居たのはぼろっと全体的にみすぼらしく服には所々足跡らしき物が黒く付き、口の端は切れているのか血が滲んでいた。手に握りしめられている札がぐしゃぐしゃに指の間から端々が覗いている。フードの下で薄ぼんやりと目が不気味に光り、無理矢理な笑顔でがたがたの表情。ボロボロという言葉がよく似合っているなという感想を抱く。

「シンタローさん......」

へらっと笑うセトの顔が、一瞬痛そうに歪む。口の端が痛いのか一回だけそこをひたりと撫でていた。
常々思う、貧乏クジだと。
その格好に顔をしかめて中に招き入れた。流石にここまで酷い様相の人物を面倒だと言う理由で追い返すほどオレだって鬼じゃない。どこか呆然としているセトはただオレをぼうっと見ていて、そんなセトに上がれと階段を指す。
リビングのドアを潜って滅多に立ち入らないキッチンに立つ。戸棚から探し出した空っぽのペットボトルに水を注ぎ玄関に戻れば、ぼんやりしたセトは同じ場所で同じように立っていた。オレを視界に入れたセトがまた笑う、へらへらカノを真似たような笑顔だった。誤魔化す笑い方はセトに全く似合わず、違和感しかない。それに気持ち悪さを感じながらセトの手首を掴めば思った以上にその肌は冷たかった。ひやりとした体温にオレの体温がゆっくりと馴染み、オレに冷たさが移ってくる。その体温に我に返ったようにセトがようやく靴を脱ぎ、オレはセトを連れて二階に上がる。モモの部屋のドアの隙間から仄かな明かりが見えて、恐らくエネだろうと検討をつけた。こういう時には空気が読めるのだから、余計いつもの行動が悪意に満ちていると分かる。
部屋に入る際僅かばかり抵抗なのか強張ったセトを気にせず押し込んでペットボトルを押し付けた。受け取ろうとしたセトは手に握り込んでいる札をやっと気付いたように見て少し目を見開き汚いものにでも触ったように振り落とす。歯を強く噛んで堪えるようにペットボトルを持ったセトに同情が微かに沸いた。

「す、いませ......」
「......どうした、なんか変だぞ」

聞いてみても答えない。押し黙るセトをとりあえずベッドに座らせた。オレの質問に答える気はないらしく、ただ沈黙がじんわりと広がり落ちてくる。床にぶちまけられた、こいつの年で持つには大金過ぎるぐしゃぐしゃの札は一枚一枚シワを伸ばして小さな机に置いた。羨ましさは欠片も感じない。

「今何時だよ......」
「、よじ?」

小首を傾げて言うセトにふざけているのかと怒りたいが、一方的に不毛に会話を長引かせて親にバレでもしたらオレが叱られ、こんなボロボロで得体の知れない男を家に上がらせていると知られてしまう。
セトはきょとんとした顔をして自分の両手を見ていた。心ここに在らず。正にそんな感じで、苛立つ。

「ここに来た理由は」
「......とめてほしーっす......」

簡潔な質問に舌っ足らずな発音で目的を言ったセトは両手をベッドに落とす。オレを見ているのか見ていないのか、視線が曖昧で分かりにくかった。

「こっからそう遠くもないし、アジト帰れば良いだろ」
「駄目っす」

そこまで言うほど遠くもないアジトを思い浮かべて、それはセトの強い言葉にずっぱり切り裂かれた。さっきの舌っ足らずな声は無く、急にはきはきと言葉を出されたことに顔をしかめれば、セトはオレを見ていなかった。下を向いて手に持たせたペットボトルを握り潰しそうなほど掴んでいた。

「帰らない」

しっかりした芯の通った拒否の声。さっきまで呆けていた人間とは思えないその様子にため息をついた。
セトはオレが嫌いだ。団員の中で誰が嫌いかを聞いたら居ないと体裁を繕うだろうが、好きじゃないかを聞いたらオレの名前が暫くの躊躇いの末に出てくるんだろう。オレの名前だけ。それは一度だけオレがセトの仕事なんて言ったら可哀想で義務的で同情誘うような汚い行為に辞めたらどうだと言ったから、なんて、たったそれだけだったりする。
その時のセトはいつ思い出しても感心してしまうほどオレをぶっ殺してやろうかとでも言うように怒りに満ちていた。実際軽く言ったつもりだったのに、オレはその顔だけで関わることを最低限に抑えて避ける程度にはセトにビビった。
セトはオレが嫌いで。
オレもセトが面倒で嫌いで。
苛立ちと面倒にぐるぐる渦巻いた感情を息で体内から逃がすように深々と溜め息をついてがしがしと頭を掻いた。セトがびくりと震えた肩を誤魔化すように笑う。

「別に泊まっても良い、オレは寝るから適当に寝るか起きとくかしてろ」

時刻は四時半。もういい加減眠くなってきたオレはセトを放置することにした。どうせ何があったか聞いてもオレじゃ何も言わないだろうし、格好からして聞けても録な話じゃないだろう。それなら深く考えないで寝てしまった方が良い。部屋をあさる奴でもないし、盗むなんてのもあんだけ大金持ってて今さら過ぎる。
セトはそれに、暫く経ってから一度頷いた。

起きればセトは居なかった。セトが持っていたものだろうぐしゃぐしゃの万札が一枚、テーブルで日の光を受けていただけだった。高すぎる宿代を迷惑料込みと考えて有り難く受け取る権利は確かにオレに在るんだろうが、しかしこれが見たこともないけれど冴えないオッサンイメージの男から渡されたものかもしれないと思うと激しい嫌悪感でむしろ捨てたくなる。
面倒なものが居なくなっていてホッとし、オレはパソコンの画面を叩いた。ファン...、と微かな起動音でエネは現れ、律儀にも朝の挨拶を元気良く遅すぎるほど遅いオレの起床時間と一緒に告げた。夜のセトの訪問についてはエネは一言も触れず、ただ今日もオレをからかって遊んだ後、アジトへの訪問を期待に満ちた目で乞う。しかし墨に浸したんじゃと思うほど悪意で真っ黒に満たした手でオレの隠しフォルダだった性欲の墓場を持っていたから乞うなんて表現じゃ余裕で収まらない脅迫が存在していたのは、いつも通りだった。
迷惑サイレンの再生ボタンに手を向けているエネに急かされながら着替え、端末にエネを入れる。そして部屋を出ようとしたオレは目の端に常に存在していた気持ち悪い臭いでもしそうな札を、ポケットに雑に突っ込んだ。
エネはそれにも触れず、ただアジトへの訪問に対して無邪気に喜んでいた。

「返す」

エネの要望通りにオレは寒い中アジトへ向かい、エネをマリーに渡してソファに座っていた場所を譲ってもらう。ぱたぱたとエネと話すために部屋に入っていくマリーの背中を、隣のセトは少し残念そうに見送っていた。
セトは別にオレから距離を置こうともせず、まるでついさっきと言うには時間が経っている出来事を欠片も感じさせない。しかしオレはそういう訳にもいかず、オレら以外居ない部屋で一万円札を取り出した。それをセトの目の前に差し出すと、セトはそれをジッと見た後、仕方無いと諦めたように微笑んで受け取る。

「シンタローさん、お金無いんじゃないんすか」
「そこまで困るほどじゃないし、多すぎる」
「じゃあ五千円とか?」
「言う順番を間違えた。お前が持っていた時点で触るのも嫌だ」
「あはは、潔癖性っすね」

オレの言葉にセトは大人しく雑にポケットの中へ札を突っ込んだ。オレがした行動とダブって、思わず顔が自分でも分かるほどに歪む。セトが不思議そうにオレを見てきたが答えず、とりあえず顔を反らして置いた。

「お前だって潔癖性じゃないのか」
「可笑しなこと言うっすね」
「じゃあそれが汚いから嫌だってなんで分かったんだよ、お前だから嫌だって言葉にも取れるはずだろ」
「俺が嫌いだから俺が触ったものは嫌なんじゃないんすか?」

それだと答え方は変わると思うぞ。
そう言いかけて、止めた。セトはいつも通り人当たりの良い笑顔でオレの言葉を待っているように見える。なのに軋んだ音が聞こえそうなくらいそれを言うのを許さない空気があった。殴られるとかそういうことじゃなく、今ここでこれを言えば、恐らく一生セトはオレの言葉を聞かない。
ため息が隠れることなく出てきた。

「シンタローさんは、どうしたら受け取ってくれるんすか」
「受け取らない」
「それは困るっす」
「お前面倒だな」

困った風に笑うセトは絶対にオレが受け取るまでこれを繰り返し蒸し返すんだろう。それを考えると面倒で堪らない。未来の煩わしさとここで妥協する諦めを天秤にかける。どちらにも傾かないそれをぼうっと眺めた。

「要らねえよ、やっぱ」
「可笑しな人っすね、でも」
「お前が泊まりに来るとエネが気を利かせてどっか行くんだよ」

セトがきょとんとした顔でオレを見る。多分やっぱり受け取って貰わないと困ると言おうとしたんだろう口は、言いかけた時からぽかっと開いたままで間抜けな顔だ。思わずイケメンの間抜け面に笑う。

「サイレンもねえし、それで良い」

意味が汲み取れたんだろうセトが何かを言おうとしていたが聞かずにテレビをつけた。黒い画面がぱっと明るくなり音を溢れさせる。何故かやけに大きかった音量でセトが何を言ったのか分からなかった。煩いほどのその音。
音量を下げてセトを見る。

「何か言ったか?」

はく、と口が一回動いた後、セトは悔しそうに顔をしかめて首を振った。

それからセトが突然夜中にやって来ることが増えた。いつも通り来て去って、最初の内は金をしつこく置いていっていたがさすがに毎回毎回突っ返されれば諦めた。何も置かれていないテーブルに、やっとかとため息もついた。
穏やかとは言えないが何かと言うような物もない日が続き、もうこれが日常になるんじゃないかなんて思っていた。
最近はセトもバイトの方が忙しくなってきたみたいでそっちの方には行っていないようだった。しかし入るには入るんだろうそれはメールでやり取りされているらしく、たまに端末を見て顔を酷く歪めるセトをよく見掛けていた。知りたくも無かった情報は日に日に増えていく。
それを間近で見ている。


「え......」

声は勝手に溢れた。
手に収まったその分厚さに目を見開く。茶色のさらさらと触り心地は良いけど安っぽい紙の封筒に雑に詰められた封筒とは違う紙の束。ぐしゃりとシワの寄った封筒から入らなかったのを無理矢理詰めていることが分かる。

「なんだ、これ」

なんだこれ、なんて、そんなの見慣れている。けど実際そういう意味じゃなくて、どうしてそれが存在するのかが問題だ。机のど真ん中に置かれていたそれは存在感を遺憾なく放ち、俺を酷く困惑させる。その為だけに用意されているんだとしたら悪趣味で残酷だが、それでももうひとつの考えられる理由よりずっとマシだ。
もしかしたら誰かが俺に置いていった、なんて物より。
ぐらぐらと俺自身の存在感が傾いていくような、足場が急に不安定になったような、急増する不安感。それを適当な引き出しにぼとりと落として思いっきり閉めた。大きな音が部屋の空気に広がって余韻のように震えを残す。
恐ろしいと感じた。何が恐ろしいのか説明が出来ないけれど、それを確かに恐ろしいと感じた。額を押さえて歯を食い縛る。耐えなければいけないと自分に言い聞かせていれば、初期設定から変えていない無機質な電子音が端末からぶわりと溢れ出す。バイトの時間に設定しておいたアラームにホッとしながら荷物を持ってアラームを止めた端末をポケットに放り込んで部屋を出る。
恐ろしいと感じた。
リビングには誰も居ない。ほったらかしにされていたグラスを流しに置いて玄関を出る。その時一回振り返って言葉だけの挨拶を告げた。誰にも返されないそれはすっかりこの部屋に馴染んでいる。
それをした人物を知るのが、恐ろしいと。
空を見上げて灰色一色の天井に傘を持った。思わず手に持った赤い傘を戻し、その隣の透明なビニール傘を取る。白い取っ手と錆びて濁ったオレンジ。また歯を食い縛る。
恐ろしい。

例えば少年期に誰もが憧れるヒーロー。それはライダーモノだったり戦隊モノだったり様々だが、将来の夢にそれを据えてしまうほどにそれに成りたいと強く願う。マントだとか仮面だとか、素性を隠して戦い、悪者をやっつける。そして人を助けてしまう。
人を。心まで助けてしまう。
ヒーローとは等しく超越していて特別で無個性で秘密主義で使い捨てで希望で憧れで、全てに置いて全てが正しい。例えば何気無い選択一つでも結局は正しい道筋になる。正しすぎるほど正しく正しい道を進む特別な存在。歳をある程度重ねてやっと人外と分かる。紛らわしく人の形を取っているから人と思ってしまう。
勇者も同じ。目の前でざくざくモンスターを斬っていくその存在。自分が人外だとはまったく気付いていないのだ。お気楽に重たい使命を背負ってなんやらかんやら。

「シンタローくんって変わってるよね」

かちゃかちゃコントローラーを操るカノは画面に視線を縫い止めてオレに話し掛けてくる。端末で結果を流し見ていたオレはその言葉に視線をカノにやった。画面をちらりと見れば主人公が勝利に喜んでポーズを決めている。攻撃パターンもダンジョンの謎も選択肢も結末も分かってしまうオレには楽しめない代物だ。マリーはどうやら見ているだけで楽しいらしくカノの隣で興奮しながら見ている。片耳につけていたイヤホンから流れる声をミュートにして消し、イヤホンを抜いた。
ぶつん。

「ふっかい穴から引っ張ってくれるのは良いけどさあ、そこに居たい酔狂な奴だって居るんだよ」
「なんの話?」
「マリーにはまだ早い話」

ムッとした白い髪の美少女にカノはからからと笑って誤魔化しコントローラーを操る。あれ、とダンジョンの謎に詰まったカノに右と教えてやれば納得したように画面内の人物は動き出す。端末の画面には予想通りの結果が叩き出されていて、オレは用もないと電源を落とした。
ぶつん。

「有り難迷惑とか考えないの?」
「お前は考えないのか?」
「考えてなかったらこんな質問自体しないって」

モモが不思議そうにオレとカノを見ながらキドの手伝いをしている。一日の最高気温を叩き出している真昼の時間帯にキドはせっせと昼食を作り出していく。セーブポイントに辿り着いたのかさっさとセーブして電源が切られたゲーム機。
ぶつん。

「考えたら何も出来ねえから考えてない」
「......あは、シンタローくんってやっぱ変だね」

嬉しげに言うカノがオレをけらけら笑う。リモコンを持ったマリーは不思議そうに俺たちを見ながらテレビを消した。
ぶつん。

最近頭が痛くて堪らない。と、言うのも、最初の日からずっと続いているとある現象が原因だ。こんなの要らないと突っぱねたくてもそもそもその相手が誰か分かっていないんじゃ出来ないし、流石にこれだけ続いていて外部の人間なんて可能性は欠片も残っていない。詰まりこれは俺が知る限りの誰かの行動というのはたまに鈍いと言われたりする俺だって分かった。
閉じていた目を開いていつも通りにテーブルの真ん中に置かれている封筒を見る。ああああ、と踞って情けなく声を出せば気が紛れるどころかどんどん重たく更に酷くなった気がした。
嫌だった。何がと言われれば何もかもが嫌だった。
こんなことを望んでいた訳じゃなくてヒーローなんて要らなくて救世主だとかそんな有り難迷惑な物も要らなくて、ただ。矛盾した気持ちを抱えながら、その封筒も引き出しに仕舞った。

「暇、っすね」

今日は特に忙しくもなく直ぐに帰され、この後にバイトもない。鬱々している気分を入れ換える良い機会だろう。ベッドに置いていた端末で時間を確認すれば散歩するだけならまだまだ余るほどの時間だった。ポケットに端末を突っ込んで財布を持って玄関を出る。ちょうど良いとアジトを出てふらふらと宛もなく俺は歩き出した。
目についた道にはどんどん入っていく。変な所で近道を見付けたりするのはよく有ることで、何度か案内してキドに呆れた顔を見せられたことがあるほどだ。最近活発に変わった街だから、最近は余計に見付ける頻度が高い。
散歩と言うより探検に近いかもしれない。RPGでもそうだ、最近はめっきり手に取っていないが、レベルを上げてボス戦に挑むことよりもダンジョンの入り組んだ道を全て入ってしまわないと気が済まない。どれだけ宝もない行き止まりの道に入っても、しつこく飽きず繰り返す。さくさく進んでいく人に比べると遅々とした進行だ。実際マリーも俺よりさくさく進めるカノの方が見ている限りでは好みのようだし。
少し拗ねたような思考になってしまったのに気付いて頭を振る。ご無沙汰の感覚に今更何を思っても仕方ない。目の前に立ち塞がる緑のフェンスに飛び越え、路地裏をざらざら歩いていく。たまに道に出れば出会した通行人がぎょっと驚いた顔をして路地を覗いて通りすぎていくのが少し可笑しい。
大通りにでも出てみるかと踵を返して普通の道を歩く。車が横をごふごお通っていく、閑散としているバス停を通りすぎる、たまに白線を歩く遊びをしてみる。端から見れば暇人そのものだろう。いつもは忙しいからなとぼんやり思いながら大通りに出てきた。近付くに連れて雑踏の音が広がっていたが、大通りに出ればそれは途端に溢れ出す。

「あ」

何気無く視線を向こうの道にやれば見慣れた姿が目に入り、つい声を溢した。向こうも、キドとマリーも同じように気付いたようで手を軽く振ってくる。それに答えながらマリーが大事に持っている箱に目が行った。どうやらケーキの箱のようで、マリーが両手でしっかり抱えているようだ。お茶にケーキでも買ってもらったのかもしれない。にこにことご機嫌に俺に笑いかけてくるマリーに笑い返して別れるようにお互い手を振った。
俺とは逆の方向、恐らく帰り道だろう二人は何やら談笑しながら歩いていく。その背中を見送ってやっと俺も歩き出す。どこに行くわけでも無いしそのまま帰っても良かったが、今帰ったところで部屋でよく分からない感情に襲われるのは分かっている。それならこのままぼんやり歩いていた方が良い。そう判断してふと青に変わった信号に横断歩道を見れば、どうやら俺は今日町中で人とやけに会う日のようだなと思った。
特徴的な猫目猫っ毛の青年に肩を抱かれて面倒臭そうに歩いてくる赤いジャージの青年。パッと見カノが気弱な青年に絡んでいるようにしか見えないなと幼馴染みながら批評していれば、横断歩道を渡りきった二人は同時に俺に気付いた。にこっと手を振ってくるカノとそれを好機とばかりに肩に回ったカノの腕を外すシンタローさん。

「よお」

無愛想な真っ黒な猫に無愛想な鳴き声と真っ黒な視線で挨拶された気分になり、何と無く、やっぱり帰れば良かったかなと挨拶を返しながら思った。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -