77 | ナノ
シンヒヨとヒビヤ

はあっと息を吐けば、景色に見慣れた色が一色増えた。マフラーをぐいぐい上に上げて巻き、口を隠すように後ろで少しきつめにリボンで結ばれている。コノハがやたらこういう可愛いことをしたがるのは、今に始まったことじゃない。白いピーコートを着て、冷えに冷えたうっすら氷の張る水溜まりを、くしゃんとブーツで踏んでいく。手袋は黒に白のラインが数本入っているけど、それは日に当たること無くポケットの中で少ない温度を蓄えている。
川は生えに生えた草を押し込むようにコンクリートの壁でぽっかりと深く広い溝を作り、背の高い草の間を水溜まりのように凍ることの無い川が流れている。コンクリートの壁の上に盛られた土には枝が切り揃えられた桜が、対岸の桜の木と対になるように並んでいた。対岸の木と絡み合いたがっているかのように、その裸の桜の木の枝は広がってうねっている。木のトンネルとでも、言えば良いかな。
また息をつく。白い。
鞄を肩にかけてひたすら急ぐように歩く。重くもないスクール鞄が肩に引っ掛かり、コートの厚みでずりずりと肘にまで落ちてくる。厄介だ。鞄の中から色とりどりの箱や袋の複数が上に乗せられていた、底のハードカバーの嵩張る重い本を取り出す。図書室用に変身している本は表面がざらざらするビニールに包まれ、若干ぺとぺとと嫌に指に張り付いた。
バス停のがらんと誰も居ない備え付けベンチに座る。比較的新しいベンチはつるりと鈍い冬の太陽で光っていた。暇潰しに本を開けて栞になる色の着いた紐を引っ張り出す。中でくしゃんと閉じられていた紐が歪んだ形で垂れて、それを何度か引っ張ったり伸ばしたりして弄ってから本の最初のページを開いた。紙の感触はさらさらと撫でる指の下で滑っていく。文字を辿れば、黒いインクの膨らみを感じた。文字を追っていけば、目の前を女の子が走っていく。ファンタジーに有りがちに、その子は勇気をいっぱい抱えて走っていく。勇ましく美しい女の子の挿し絵、その横顔の輪郭を撫でた。ちょっとの間の読書。
ふと、車も滅多に通らないその道路にエンジンの足音がちょっとずつ近付いてくるのに顔を上げた。ぐんぐいぷしゅーっとバスが目の前に止まって、がろっとドアが開く。多くの年齢を感じさせる愛嬌あるシワだらけの顔が私を見てにこりと笑い、それに私もにこりと笑い返して本をぱたんと閉じ、バスの中に入った。バス内の暖房の暖かさが温く感じて窓際に座れば、ひやりとした温度が微かに頬を撫でた。
さっきの女の子のような物理的な強さは無い、けど今日は最強の日である。私は今日は最強の日なのだ。
そう言い聞かせれば、何でも出来る気がした。

引きつった笑顔が軽く一回首を振る。しかしそれは許されない。なんてたって今日は私が最強の日なのだから。私と親しい人にとって今日は紛れもなく私の日なのだ。
この前モモさんが遊びで整えてくれた爪が綺麗に指先を彩っている私の手は、くるんと弧を描く魔法のステッキと言うには老婆の腰より曲がりすぎている曲線物を持つ。先ほどから目の前の引きつる顔にどうにか一言諦めの分かったと言わせる為にそれで頬を叩いていた。ぺちぺちとプラスチックが頬と当たって鳴く。でも聞きたいのは、これじゃあ無いのよねえ。
にこりと笑えば目の前の顔は青ざめさせながら、どこかドギマギと顔を固まらせて視線を外す幼馴染み。相変わらず私の笑顔ってものに弱いヒビヤに、更ににーっこりと笑いかけた。

「こういうのは僕じゃ似合わないよ」
「似合うわよ」
「いやヒヨリとか女の子の方が」
「私の見立てを疑うの?ヒビヤのくせに?」

目を閉じて呻く顔は随分印象的過ぎる日から大分成長したけど、中身はどっこも変わってない。うんうん、良いことよ、私に弱いのはとてもね。これならほっといても勝手に折れてくれると自信満々にソファに座り直して紅茶を飲む。マリーさんが淹れてくれた紅茶は砂糖が仄かに甘くて檸檬の匂いがふわりと湯気と香り、とても美味しい。
今だ唸りながらも隣でどんどん頭を抱えていくヒビヤに情けないわねえと声をかけそうになる。上体が折れて膝に肘をつき、両手で髪をくしゃりと押さえ付けるヒビヤに小さく気付かれない程度に鼻で笑っておくだけに留めた。

「また......」

微かな溜め息と混じった声に振り返る。代わり映えのしない赤いジャージと黒髪、呆れた表情。野暮ったい格好の男の人が私を見てヒビヤを見て、また優雅に座って紅茶を飲む私を見た。人口密度が上がり、少し室温が上がった気がする。
にこりと口の端を上げてこんにちはと言ってみた。シンタローさんは私の笑顔に呆れながらも感心したように、またため息をつきながらおうと返してくれた。
シンタローさんが来たことによって話が反れるとでも思ったんだろうか、ヒビヤはそっと立ち上がって適当な用事をでっち上げる。しかし私はそれを許さず、そうと一回返して、そういえばね、と立ち上がったヒビヤに話しかけた。ヒビヤの肩が分かりやすく跳ねる。

「私のお小遣いはね、そんなに言うほど多くないの」
「そ、そうなん、だー......」
「それの三分の一を使って、誕生日なのに、私が、わざわざ、......買ったのよ?」

一字一字に力を込め、わざと丁寧過ぎるほど区切ってヒビヤに言う。ふるふると微かに震えるヒビヤの肩が可笑しくって堪らないけど、それで私が笑ってしまうとこの流れが切れるかもしれないから頑張って耐えた。代わりに私が見立てた猫耳カチューシャでテーブルを一回かつんと叩く。その音にヒビヤがもう耐えられないと言うように私の方に振り向いた。

「......分かったよつけるよ!後でつければ良いんだろ?!」
「始めっからそう言いなさいよ」

ようやく折れたヒビヤに満足げに頷く。ヒビヤはどうやらもう自棄に諦めたようで、分かったとまた乱暴に答えて、しかし律儀に私の鞄を持ち上げてケータイと本を出して奥に持っていった。出来た幼馴染みだ。
隣の気配が無くなって、また新しい気配がゆっくりと座る。ちらりと横を見れば、私たちのやり取りを見ていたシンタローさんがヒビヤの背中を同情の視線で眺めていた。それからシンタローさんの男にしては細めの指は黒くふわふわの猫耳カチューシャを取る。まあ誇大表現なんてしていないが、そこそこ高くはあれど、まあヒビヤが感じているほどの値段はない。今現在の私の残っている全額のお小遣いの内三分の一程度の値段と言うだけだ。勘違いしたのはあっちだ。シンタローさんはきっとそれに気付いている。

「あんま、苛めてやるなよ」
「今日だけ」
「嘘つけ」

ことんとそれがテーブルに置かれる。ヒビヤが使うはずだったカップが濡れていないことに気付いたのか、それに紅茶を注ぐシンタローさんの横顔を見た。綺麗な横顔とは全く無縁で、勇ましさも美しさも無い。目付きは悪いし隈はあるし、黒髪が目にかかっていて暗い性格をしているように見える。

「お前がヒビヤに遠慮無いのは、いつもだろ」

そうでもない、とは言えない。そうだから。
ヒビヤは私が大切だ。何よりもとは言わないけど、順位があるのなら私はヒビヤの上位三位内に必ず入る自信がある。それを使って利用しているとは聞こえが悪けれど、それを拒否できないのはヒビヤだ。私はちゃんと毎回ヒビヤがそれは嫌だと拒否し続ければ逃げ切れるって道を残している。
だからシンタローさんの言葉は当たっているしハズレでもある。私がヒビヤに遠慮がないんじゃなくて、ヒビヤが私に遠慮を無くすようにしているんだから。
説明したところで、時間の無駄だから、言わないけれど。
沈黙にシンタローさんはくあっと欠伸をしてテレビをつけた。そこまで私と会話を続ける気は無いようだった。だから、モテない。
紅茶を飲み干して本を開く。

「そういえば、お前さ」
「なに?」
「オレにはつけろって言わねえよな。団員全員に言ってるのに」

ぷらーんとシンタローさんの手で持ち上がる黒に一回だけ息を飲み込んだ。お茶菓子の袋を破いて中のクッキーをくわえ、ああ、そういやエネも無いかと比較としては全く弱すぎる画面の向こうの人間まで持ち上げてきた。

「シンタローさんは、」
「おお」
「似合わないから」

似合わないから、言わない。
ざくざくと歯で砕かれ崩れるクッキーの音がごくんと無くなる。テレビでは全く面白くない売れてない芸人の掛け合いが響く。

「ありがたい限りだな」

微かに笑った気配に私はテレビを観るふりをして見なかった。私はシンタローさんが苦手だ。

「私は今日最強なの」
「誕生日だからか?」
「それと、女の子が主役の日だから、私は最強なの」

今日だけ最強。何をしても許される。甘やかされる。
甘いケーキと美味しいご馳走と可愛いプレゼント。誰よりも優先される優先順位の急激な浮上。
シンタローさんがなるほどと呟いて頷く。

「シンタローさん」
「なんだ、プレゼントは後でだぞ」
「付き合って」

しんっと沈黙。テレビは煩いけど確かに沈黙はそこにあった。別に特別変なことは言ってないのに、血が血管から溢れ出しそうで、指先がすうっと冷えた。カップが熱いくらいに感じられる。

「なあ」
「なに」

すごく長かった時間が不意に途切れて、思わず肩が小さく震えたけど、多分気付かれていないと思う。シンタローさんがチャンネルを変えてぱぱっと画面が移り変わる。大したものは無くて、結局まあマシな番組に落ち着いた。

「何処に付き合えば良いんだ?」
「......、ふっ」

思わず笑ってしまう。だから苦手だ、この人。かっこよくもないし可愛くもない、特別優しいわけでもなければ頼れるほどの力強さもない。
間抜けな解答にだからモテないと繰り返す。
紅茶は冷めて温くて、広げた本の活字も読む気が起きない。カップを置いて額に手を当て、笑う。

「やっぱりシンタローさんって馬鹿ね」
「馬鹿ってお前な」

不満げな声は黙殺して、取り合えず今日は私が最強の日なので。

「好きってことよ、鈍いシンタローさん」

プレゼントとして私に意識くらいくれても良いはずだから。
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