73 | ナノ
セトシン

「抱き締めろ」

聞き間違えかと思った。
恐らく間抜けなほどぽかんとしていたんだろう、ベッドの上に座った目の前のシンタローさんはそんな俺を笑うように目を細めて両手を広げる。その動作が聞き間違いでなかったことを証明していて、俺は少しぎこちなく動きながらそれに答えた。
寒い季節が少し通り過ぎて、昼の日差しが暖かくなってきた春間近の気温。そろそろ花の匂いがそこかしかを漂って薄い病気のようなピンクをした幻想的にも思える儚い花が並木に咲くんだろう。それを思わせる気候はほかほかと穏やかに時を刻み、かちんこちと落ちていく時間と一緒に徐々に冷たい死体となっていく。
午後一時の陽射しが窓から入って床を照らし、空中を舞う微かな埃をきらきらと輝かせていた。昼のご飯が終わって眠くなるような時間帯。突然のこっちとしては嬉しく感じる細やかな我が儘を実行すれば、シンタローさんはふう、と落ち着いたように息を吐いた。
何かあったようには見えないし、今日一日の早朝以外は一緒に居たから全体的な行動は一応把握している。いつもなら俺が抱き付いて少し鬱陶しそうにするシンタローさんが、わざわざ俺に言ってまで。色々な憶測を飛び交わせるが、しかしそれ全部腕の中に居る本人に聞けば良いのだと気付いた。少し眠そうにしていた顔が、俺の視線を感じて目を開ける。

「どうしたんすか、突然」

ぽんぽんと背中を叩いて聞けば、うーんと眠そうな声が唸って俺に擦り寄った。なんだかそれが猫のように思えて小さく笑ってしまう。背中に回された手が服を掴んで、肩に顎を乗せた。それが話す体勢にしては少し違和感と言うか、いつも顔は見えるように話しているから見えないことがあまり無い。向こうの壁をぼうっと見るのも面白くなく、シンタローさんの肩に視界を埋めてみた。赤い。

「無償に抱き締めたくなった」
「気分?」
「気分」

こく、と頷いた動作が伝わる。ぽんぽんと俺も背中を叩かれ、そして頭を撫でられた。髪に指を通していくその撫で方が心地好くてシンタローさんの肩にもっとと擦り寄れば、一瞬止まった手がはいはいと言うようにまたそれを再開する。それが嬉しくてぎゅうっと抱き締める力を少し強めた。苦しくないだろう程度に加減すれば、シンタローさんが少し笑った気配。そのこそばい空気の振動が感じられ、俺も笑った。

「俺で良いんすか?」
「女子にやったらセクハラとか言われるのは目に見えてる」

きっぱりと確信の声が言った。確かにキサラギさんは素直じゃないし、マリーは色々ダメだろう。キドは、マリーと違う意味でダメだろうから。そのお陰でこういう状況とは言え、なんだか気に食わないのも本当で。意外と狭い心を叱咤する。罪悪感のような物と情けなさがプラスされて仕方無い。
うううと内心の醜さに唸っていればシンタローさんがぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。うわっと驚きに声を上げてシンタローさんをちょっと離して顔を見れば、なんだか呆れた顔が俺をびたりと見ていた。白くて男にしては細い指が頬をそっとくすぐったく這い、それに目を細めれば、突然むぎゅうと掴まれて引っ張られた。ぎりぎりと音でもしそうなほど強いそれにシンタローさんの手首を掴む。

「いたたっ、ちょ、しんひゃろーさん!」
「何拗ねてんだばーか、バーカ」
「す、拗ねて、は......」

分かりやすいほど詰まった言葉にシンタローさんが呆れ顔をしかめた。機嫌を損ねたかと不安になって思わず目を反らしてしまう。
はあ、とため息をつかれて、手が離れた。頬が元の形に戻ったのに、何故かまだ少し引っ張られているような気になる。ぺたぺたとそこを擦ってシンタローさんを見れば仕方無いなと笑っていた。眉間によった小さなシワ。
くしゃくしゃと髪が撫でられ、頭の両側を掴まれる。がしっと音がしそうな掴み方にぎょっとすれば、シンタローさんはそんな俺に近づいてきた。驚きに声を出し掛けるが、それは速攻で引っ込んだ。目の下、に。やわ、。
ぐいっと顔を無理矢理シンタローさんの肩に埋められる。

「柔らかいと抱き締めた感じがしない」
「、そうっすか」
「枕とか固い方が好きなんだよ」
「覚えとくっす」

良い子良い子と頭を撫でられる。シンタローさんの背中に腕を回して抱き締める。思いっきり抱き締めたら苦しがるから、加減は忘れない。けれど許されるなら、思いっきり抱き締めたい。そんな衝動が俺を囲ってつんつん誘惑をつついてくる。
シンタローさんの声が少し楽しそうに聞こえてきた。撫でる手もさっきより優しい。ああもう参った。

「耳赤いけど」
「シンタローさんのせいっす」
「へえ?」

意地悪そうに笑う声。くつくつ笑うのが声だけじゃなくて肩の震えでも分かる。撫でる手は止まって俺の背中をとんとんと叩く。リズムを作る手が俺の心臓よりゆっくりで、穏やかで。悔しいと好きだって気持ちでもう喉元までぎゅうぎゅう詰めなのに、この人は平然と俺の上に行っている。負け惜しみにがぶっと肩を服越しに噛めば、べちっと無言で頭を叩かれた。

「噛むな」
「飼い犬も噛むっす」
「へえ、お前自分が犬っぽいって自覚してるんだなー」
「......」
「ふ、良い子良い子」

なんて、言う。今日は何してもこの人を甘やかせない気がする。逆にいなされて宥められて、子供みたいに撫でられて。いつも無表情や焦った顔ばかりなのに今日は微笑んだり笑ったり。
俺に尻尾があったらきっとぶんぶん振っていると自覚できるだけ、シンタローさんの言葉に何も言い返せない。どろどろ、甘い。
もう色々堪らない。

「子供扱い、っす」
「子供っぽいし」
「、枕扱い」
「はいはいお前は枕じゃねえよ」

顔を上げて反論すれば、シンタローさんも俺と目を会わせる。俺の子供染みた反論は頬をぺちぺち叩かれていなされ、機嫌を取るようにおでこがこちっとぶつかった。
珍しいと嬉しげなシンタローさんが呟く。口の中で転がしただけかも知れないそれは、この距離ではしっかり聞こえた。それに俺が何がと答えれば、声が思ったより拗ねたように聞こえて、恥ずかしさで耳が熱くなる。

「笑ってない」
「俺だって笑わないときくらいあるっす」
「拗ねてるし」
「拗ねてない」

思わずいつもの口調を取っ払って答えてしまった。即答とも言える早さに居心地が悪くなる。シンタローさんが少し驚いたように俺を見ていて、思わず近い距離なのに無駄に目を反らした。どうしても視界の端にシンタローさんの表情が写ってしまい、逆に追い込まれている気分が増す。触れあっていた額を剥がし、顔を背けた。よく考えればその行動こそもっと拗ねている行動そのものだ。情けない気分がじわじわと顔を熱くした。

「拗ねてるだろ」
「し、つこいっす、シンタローさん」
「いつもしつこいお前に言われてもな」

しつこいって思われていたのか。地味にぐさっとくる言葉に、いつもなら顔にも出さないはずなのにぴくりと反応してしまった。絶好のからかいを与えてしまったと早々に気付いて後悔する。シンタローさんもそれが分かっているのか少しにやっとしているのが端に見えた気がして、降参の旗を心の中だけでひっそり振った。
けどそれには触れずにシンタローさんは俺の腕を突然引っ張る。ぐらっと倒れるシンタローさんと一緒に俺も倒れた。シンタローさんを押し潰すわけにはいかないと布地に触れた両手で体重を支える。がくっと肘が折れることもなく、シンタローさんを下にした体勢が作り出された。シンタローさんによって。

「あんまり拗ねんなよ」

少し申し訳なさそうに笑うシンタローさんが俺を見上げて、腕を伸ばしてくる。その腕が俺の後ろに回って抱き込むように俺は抱き締められた。身長差が関係無いから新鮮な体勢になっている。

「今日は甘やかしてやるから」

いつもはそちら側に居るため、急にそんなことを言われても困る。何か、とぐるぐる思考回路を回せば、明らかに度を越えたものしか出てこない。何を言えば。
迷いに迷った末にも、やっぱり一つしか出てこない。それはいつも通りで、でも言葉に出しにくくなっていた。はくりと声が出口を求めて声帯の自由を奪う。

「シンタローさん、」
「おー」
「キス」

俺の言葉にシンタローさんの腕がゆっくり離れていく。その片腕の手首を掴んで何故かいつも言っている言葉が出にくくなっているのを実感して嫌になった。
シンタローさんがじっと俺を見ている。

「したい、っす」

かあっと熱くなるうなじに居たたまれない。
シンタローさんが思わず吹き出しそうになるのを耐えているのが分かった。押し殺した声は震えていて、どれだけ俺が滑稽なのかが思い知らされる。

「どんだけしたいんだよ」

いつも言ってるから、なんだかそれが欲望の形みたいに思えて仕方無い。今さらな後悔がどっと押し寄せてぐわあっと熱をあげる。羞恥に身悶えてしまいたいのにこの人が居るってだけで許されない。
昼過ぎの穏やかだった時間はこの人のいつもと違う態度にあっさり奪われて崩されてぼろぼろと落ちて違う形を粗く作る。
ぺたりと冷たく感じる手が俺の額を撫でて頬を触った。呆れた笑顔が見上げてくる。

「しねえの?」

キスで初めて歯をぶつけて、シンタローさんが笑った。
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