71 | ナノ
セトシン

ごほっと空気を肺に叩かせる音が気になった。時々繰り返され断片的に繋がるそれは面白いほど数を増やす。次第に重なる感覚が狭まり、ここの空気は淀んだ物なんじゃないかと思うほど彼は肩を震わせ、打ち、ソファに居た。

「風邪っすか?」
「そうかもな......」

季節は変わり目を迎え、夏を一気に拐うように遠くなっていく。色は褪せ、じわりと射す日差しは切っ先を丸くして空に居座った。高くなったように感じる青い天井はその距離を遠く遠くさせた。
水分を落としてからりと乾いた茶色の葉は親から離れてコンクリートに投身自殺。無惨に子供の秋の遊びに踏み潰され砕かれた死体の欠片が散らばる道。
色は褪せる。季節を追いかけるほどに。
そんな中で急激に変わった世界の体温は、人の体調と言う備品のネジを取るドライバーとなり、バランスが悪くなった人間の背中を押した。ぐうらりと。

「流行ってるらしいっすよ」
「毎年だ」
「そっすねえ」

シンタローさんの言葉に学習をしないって意味が籠っている気がして困ってしまう。学習云々と言うより、世界の中の癖だと思う。
ぶわりと噎せ返る、目を煮るような暑い空気は、すうっと徐々に蝉と一緒に喚き散らすのを止め始めた。ヒヤリと空気は焼けた肌に痛く染み、馴染んでいく。
シンタローさんがごほっとまた一つ、肺の悲鳴を溢した。

「あ」

喉に滑った意味のない音は、どっちの肉の管から出てきたのか。
シンタローさんの口から赤がドロリと溢れた。俺は思わずシンタローさんの側に駆け寄って彼の口に当てられた防止の手から伸びる細い腕を五本で強く縛り、引っ張った。
ばた、と床に、生きた血が落ちる。
うえ、と喉を擦るシンタローさんは、俺の顔を見てふはっと笑いを外に逃がす。それは空気に反射して俺の耳を射った。

「これ」

シンタローさんが雑に生きた血を掴んで、飲んでいたアイスティーに放り込んだ。透き通った紅に、赤がひらりぷかりと沈む。暫くして自分が帰ってきたのか、くるくると円を幾度も描き、それはふわんと穏やかに泳いだ。
赤い。

「要るか?」

咳き込んでいた事なんて無かったかのようにコップでくるりと円を描いてアイスティーを回すシンタローさんに、思わず頷いた。
紅を滑る赤。ちかりと窓から落ちてきた日に赤を構成する一枚一枚の柔い皮膚が反射した。
赤い魚。生きたシンタローさんの血は魚の形を取っていた。祭りの出店でしょっちゅう見掛ける普通の金魚。水槽にざわざわとごった返し、紙で巣食われ、何かを訴えることも無くエラ呼吸を止めてぶくぶくと浮く。そんな未来を辿っても可笑しくない金魚のコップを撫でた。ほたりと水が落ちてくる。

「三日で死ぬ」
「あ、なんか詐欺っぽい」
「失礼な」

心外だなと言わんばかりの声に不似合いな顔は、俺の持つ赤と紅を一枚隔てた硝子を撫でた。つつ、と下に滑る指。それについていくのは表面の水と中の赤い魚。その様子にくつりと笑う顔がやけに大人びていて、撫でる指を一本絡め取ってキスしてみた。

「俺が詐欺ならお前は気障だな」
「似て非なる物っすねえ」
「まあ何でも良いけどよ」

するりと猫の尻尾のように、手の平を撫でて出ていく指。またもう一回硝子を撫でる。今度は手全体で、水を払うみたいに。

「精々甘やかしてやれ」

それを残して去っていく彼は本当に猫のようだ。捕まえて縛って首輪に鎖をつけて置きたいのに、難なく手をかわす。憎らしくも可愛らしい。
くるりと紅茶を回せば、金魚も回った。

色々試してようやく分かったが、この金魚はこだわり派らしい。どんなに水を綺麗にしようが広い水槽に入れようが、苦しそうに居心地悪そうにくるくる回るのだ。仕方なく新しく淹れた紅茶を冷やした物に入れれば、ようやく落ち着く。
広さより味派なのか。しかし苦しくないのだろうかと思ってしまう。見る分には綺麗で文句はないが、目を離した隙にころっとぷかぷか浮かんでいるんじゃと考えるとどうも。
そして魚にとって人間の体温は熱いもののはずだ。それこそ火傷を負うほど。なのに指を入れると擦り寄ってくる。撫でると撫でた後嬉しそうにくるくる游ぎ回る。
ずいぶんこの金魚を産んだ彼とはかけ離れた性格をしていた。シンタローさんは金魚は何を食べるとは言わなかった。金魚はなにも食べなかった。取り合えず甘やかして甘やかして、撫でて話しかけてもみた。
三日後。
金魚は死んでた。あっけなく魂ってものをぼわんと消して亡くして、ぷかぷか浮かんでた。さてこれをどうしようかと思いながら取り合えずシンタローさんに電話をしてみた。
三日前から来なかったシンタローさんが来て、金魚の入ったコップを持ち上げた。まるで品定めするようにそのコップをくるくると回し見た後、シンタローさんはそれを金魚ごと飲み干した。

「美味しいんすか?」
「ああ」

コップをかとんとテーブルに置いたシンタローさんは俺の方をやっと見て、ぎょっとした顔をした後、俺の頭を撫でた。

「泣くなよ」

俺は泣いているらしく、シンタローさんはわしゃわしゃと俺の頭を慰めるように雑に撫でてくれた。

「どんな味だったか聞いて良いっすか」

俺の声はいつも通りなのに涙だけばらばら出てきた。落ちていく涙はずいぶん滑稽だった。

「甘かった」

シンタローさんの言葉に成る程と満足した。
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