68 | ナノ
コノカノ

かこ、と音の鳴らない鍵盤が落ちた。ずいぶん弾いていなかったから仕方ない。一番端からかこん、ことん、と押していく。まばらに鳴る音がこーんと響いていく。
なにかを弾く気にもなれず、ただ端に行ってはまた端へと。意味もないけど何かすることも特に思い付かずそれを続けた。
ことーん、とまた音の鳴らない鍵盤を押せば、隣から手首を掴まれた。ゆるっと隣を見れば、いつの間にか猫が黒い椅子に座っていた。

「壊したいの?」

にこりと笑う猫が問いかけてきた。ぱっと離された手を下ろして白いつるつるぴかぴかの鍵盤を見た。てらんと光を返すつるつるの鍵盤。真新しいように見えるそれを、壊したいのか。
はた、と僕は軽く首を振った。髪が揺れて頬を掠めた。その答えに猫は満足そうに目を細めて、そうっと微笑んだ。ふら、っと伸ばされたその手は今度は僕の手首じゃなくてピアノの脚を撫でる。鍵盤は真新しいのに、その脚は表面が水を吸って浮き上がりぱきりとひび割れていた。気付かなかったと呟けば、猫は笑った。

「弾けば弾くだけ、折れちゃうからね」

気を付けないと。そう笑う猫が、僕の目に滲んだ。じわっと空気にぼんやり掠れていく。
ぱちんと目の前で瞼に軽く弾けた音がして、僕の体はくらりと傾く。思わず手をついた鍵盤はまばらに悲鳴を掻き鳴らし、脚がびしきっと音を立てて。
折れた。

「あ、起きたね」

ぶわりと一気に引っ張り上げられた眠気の波から、僕は息をくはっと吐いた。浅かった息は大きくなり、深く肺の下まで染みる。ぺち、と頬を叩いてくる手が冷たくて、思わず擦り寄った。びくっと一瞬震え、それでも僕の頬から手を離さない。ふらっと傾いていた不安は、それに大きく安堵する。

「僕の手、冷たくない?」

こくと一回頷いて、その手を握った。ぎゅうっと縛れば、物好きだねえとのんびりした声が僕に柔く落とされる。それが好きで、堪らない。
ころ、と今ばかりは静かに鳴る笑い声。ようやく白を持ってきた重い夜に、冷たい呼吸が再開する。今現在、活動と不活動の境目に居る。
表面は愛想笑いみたいな暖かさを持っていても、しばらく握れば分かる血管と肉の冷たさ。冷え症だからと手をよくポケットの中に閉じ込めているのを思い出す。

「寝ないの?」
「......ない」
「珍しいね」

珍しい。本当に珍しそうに言うから、困る。確かに寝るのは好きだ。ご飯も、体を動かすのも。でも、それが好きじゃなくなるときがある。複数の内臓のどこかで芽吹いている恐れが種を落とす。このまま目覚めないんじゃないかなんて。
異常かもしれない。普通の人はそんなことを考えず寝たら起きると考える。でも僕は好きの裏側で、生きる隙を見る。可笑しいかもしれない。けど正常かもしれない。

「あ、怖い夢でも見たんじゃない?」
「......分からないけど、ピアノ、壊した」
「へえ、それは怖いね」

怒られるかもしれない。また寝たら、壊れたピアノの前で、猫が立っているかもしれない。怖い、。
って、言うより、たぶん悲しい。
手をちょっと強く握ると、顔を覗き込まれた。顔が近くなって、どこがか音を立てる。こーん。こーん。かことん。

「コノハって、分かりやすいよね」
「......?」
「ふ、気付いてないなら良いんじゃない?」

ゆるっと笑む顔。それが近付いて額に唇で触れてきた。ほうっと安心する。良い子良い子と撫でてくるもう一方の手に擦り寄った。小動物っぽいよ笑う声が心地よくて目を閉じる。
こーん、と音がする。心臓に似ている。僕の心臓は彼みたいに綺麗にとくとく鳴らず、こーんと、鳴る。こーん、こーん、鍵盤みたいな、鳴らない鍵盤みたいな。

「怒らないから寝て良いよ」

なんでだろう、彼は分かってるみたいに僕の瞼を閉じさせて、優しく言う。ピアノを壊した。あれはきっと大事なものだったのに、鳴らないから自棄になって。壊した。
僕が壊した。
じわりと涙が瞼の裏を溜まった。くるくる瞼の裏で回って目を柔く引っ掻くから、目を開けた。
カノが僕の髪を撫でていた。猫みたいに笑う。
どうしようもなく涙が出てきた。外へと死にに落ちていく。

「う、ぁ」

嗚咽が喉を通っていく。カノはやっぱり笑っていた。ちょっと驚いたように僕を見ていたけど、僕が手を離して腕を伸ばしてきたのに答えてくれた。カノをぎゅうっと抱き締めたらやっぱり心臓はこーんって鳴っていた。正常な姿で、音がしない異常な、新品。黒と白。鍵盤。
僕は心臓を壊してしまった。
気付いたらただ子供みたいに泣いていた。鳴いていた。
さようなら。哭いて。
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