65 | ナノ
コノケン

眼鏡がかしゃんと静かな部屋に落ちていく。
手首を壁に押さえ付ける力は二年前よりずっと強く、やっぱり違う個体であると再認識される。持っていた出席簿は床へと色んなザラ版紙を撒き散らせてぐしゃりと倒れている。痛みが鋭く抉ってくるけど眠気は今もしつこく健在であり、それでも確かにさっきより霧散していた。
いつも微笑みを称えていた気すらする穏やかだった顔はぱちぱちと電気の音でもしそうなほど俺を睨んでいて、しかしその中に混じる困惑はひたすらに濃かった。
記憶が無いにも関わらず、体が違うにも関わらず、本能が覚えている。俺を許すなと言う声をまるでらしくもなく野生の動物のように聞き、そうして訳も分からず俺を攻撃しようとする。違うのに、全くの同じ。
少し上にある目線、黒から変わった白髪、こんな薄暗い部屋だと赤にも思える濃いピンクの目。
理科準備室らしく薬品の臭いが充満して恋人のように混じり合い、他とは違う空間をポッと出現させる。元、養護学級教室。もうすでに机は片付けられてあの頃とは違って俺の私物で溢れているというのに、微かで頼りない面影に惹かれてやって来てしまった迷子は俺を睨む目を緩めずに困惑を更に募らせている。
自分自身の感情をどこに置けば良いのか、どう処理すれば良いのか、目の前の男をどう攻撃すれば良いのか、迷子の子供はふらふらと感情と勢いだけの仮初めの決意を揺らしていた。
はく、と動いた口に声は無い。ただそれでも自身には届いたんだろう、白髪に隙間から覗いたふにゃと泣きそうになる顔は見覚えがあった。
その隙に、緩んだ腕を掴む手から逃れる。すぐにその事に気付いたように俺の手首をふるふる細かに震える手がはしりと弱々しく掴む。それはすがっているようにしか思えない。
ひた、と変わらない白い肌に触れる。暖かいその温度に俺の指の方が暖まった。それに思わず笑えば、ようやく鈍く安定しない殺気に似た気配はしゅうと遠退いていった。
ふと、前の記憶を思い出した。それは教室だったり廊下だったり職員室だったり俺が居た景色の中で。

「ケン、っ」

随分と生意気な呼び方をしようとする口をがつりと音がするほどの勢いで塞いだ。泣きそうな子供を泣かせないようにするなんて器用なこと俺には出来なかったものだから、とりあえず。これを二年前にしてやっていたら、と仄かに漂ってきた思考に風を吹かせる。そんなのは、結局意味がないんだろう。
ふは、と痛みと衝撃で浅く裂けて血の滲む、外的皮膚にしては柔らかい唇を離す。驚きで強張った顔がいっそう泣きそうに歪んで、間違えたかと、やはり向いていないなと実感した。
右の手首が大きく引かれ、引き寄せられる。左はすっかり自由になったが、代わりに顎を掴まれた。一、二歩、たたらを踏む。
さっきの痛みも引かない内に合わせられたのは、今度は痛くはなかった。けれどそれは明らかに度を越えていく。
滲んだ血を舐められ、舌が口内へと入り込んだ。ぶわりと沸く焦りと早くと求める焦りが口で繋がる。
恐れすら抱くその存在感と異物感。なのに不快感は肉欲染みたペンキで赤く塗り潰されていく。
視線でまとわりついて細やかに送られていた声が、ここまで育って俺を襲うのかと、一瞬だけ感心する。会ったのはたった数回、自分の行動すら分かっていないんだろうに、それでも従う。もっと考えろよと言うべきなのか、なんなのか。これを拒否しないと危ないとは分かっていながら、俺は行動に移そうと言う気がちっとも膨らまなかった。これで罪でも償った気になりたいのかもしれない、これで甘やかした気になりたいのかもしれない。
不誠実さがまとわりついて、仕方無い。
そんな俺の不誠実さの枷も次第に逃げていくのが分かった。いい加減しつこさで肩を拳で叩けば、コノハは色んな感情を放り込んで煮詰めてどろどろにした目で不満を一番強く訴えた。しかし元がそこまで押しの強さを持っていないからか、存外あっさりと離れて俺をひたすらにじっとみる。
若いって良いなと思わず思ってしまう程度にはコノハははっきりしている。目は口ほどに物を言うとは言ってもここまで素直だと緊張感やおぞましさより感心する。
ぐちゃりと道路で潰れたトマトみたいな音すら聞こえてきた気がして自然とふはっと笑いが溢れた。それはきっと自嘲的だっただろう。
困惑混乱の中で俺の元生徒の肩書きを持つ男は素直で、覚えてないくせにと別に詰るつもりじゃあ無いのに声を吐きたくなった。覚えてないくせに。覚えてないくせに、。
覚えてないくせに、余計なことだけ覚えている。
泣きそうなくせに不満げで、混乱してるくせに素直で。欲望に、素直で。コノハも遥も同じだ、欲求が人一倍強いくせに我慢強い。

「随分な悪趣味だな、遥」

笑って言ってやれば、コノハは、遥は、目を曇らせる。今にも何か衝撃でも与えられれば決壊しそうな顔は俺の不誠実さを呼び戻す。
力も無く右の手首の拘束はするっとほどけた。またすがるように俺の手首を追った手は、はたと途中で止まった。そして自分の無意識の糸を千切ろうとするように手は強くその場で握り込まれる。
ここでこの場を立ち去ったらこいつは俺ともう会うことも無くなるだろう。もう部外者である立場を持って、それでも忍び込んできたけれど、それは微かな物だ。
しかしそれじゃ困る。
両手をひらりと開いてみた。コノハの目は酷く傷つけられたように見開かれ、何かを言いかける。しかしやっぱり声は出ない。紛れもなく自分がその行動を俺に起こさせているとしっかり分かっているからだろう。

「どうする」

両手開いて迷子の子供を待つ。俺はコノハに離れてもらったら困る、コノハは俺に色々と求めている。利害の一致は完璧で、しかし一個だけ、俺はコノハと釣り合わない。
どうすると選択を突き付けた。ここでコノハが去れば俺は困ったことになる、ここでコノハがここに残れば万事解決。別にどうってこと無い、彼女が戻ればそれで良い。
しばらくその状態は続き、流石に腕が痺れてきた頃、コノハは酷く躊躇った末に俺に手を伸ばして抱き付いた。でかい子供だなと思いながらその背中を撫でる。
ああでも不憫だなとコノハに同情せざるを得ない。
こいつの一番欲しいものは手に入らない。
絶対に、。
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