64 | ナノ
カノマリ

彼女には片耳がない。
しゅんしゅうヤカンが湯気を吹き上げ、台所には一時だけ暖かい湿気を帯びる。ふわんふわんとマリーの動きに合わせて揺れて空中に散る白い髪。唯一の得意だと言って率先してお茶を淹れるマリーは今にもふふっと笑い出して鼻歌でも歌いそうなくらい楽しげに見える。お土産に買ってこられたドーナツを白いお皿に綺麗に盛っていき、カップやポットを用意して、慌ただしいように見えて食器の鳴る音はとても少なく心地好い。
彼女には耳がない。
怒ればその感情で染め上げられた深紅は今は落ち着いて薄い赤を持っている。白い髪と一緒になって、その二つの色は白い兎を連想させ、思わずその小動物の行動とマリーの常が一致して、笑う。密かに笑っている僕を不思議に思ったのか、マリーはきょとりとこちらを見ていた。どうしたの、そう小さく内緒話でもするように問う目に何でも無いよと笑い返す。途端に秘密にされたことにムッとした顔がそっぽを向いた。
彼女には片耳がない。
僕だけお茶無しなんて事は無いだろうけど、少し渋いお茶は勘弁したい。機嫌を治して欲しいなあと下心満載で肩を引き寄せ顔を覗き込めば、更に拗ねた顔が僕をじっと見た。しかし暫くしたらため息をついて小さい声でもう良いよおと言う。それを知っている。今日もそうで、それを言われた僕は嬉しくなって笑うけど、もっと我が儘でも良いんじゃないかと言いたくなる。
彼女には耳がない。片耳がない。
ガーゼで左の耳を覆ってテープを貼って、近い色の髪の毛で隠されている。音は聞こえるようで、聴覚に支障はない。ただ見てくれが悪いため、マリーは隠す。たまに左側に大きな髪飾りを付けたり幅の大きいリボンを結んだりして誤魔化している。耳が本来ある場所にぽっかりと黒く開いた穴。まるで最初からそうだったみたいに傷なんて一つもない。ただそこの肌は少しだけ、薄く緑に変色している。
水色の淡いスカートがふわりと揺れて、白い髪はさらりと落ちる。日光は傾いて部屋を照らし、蒸らす時間を測る薄い桃色の砂が硝子の細いくびれを通っていく。いつも裸足の小さな足は、流石の寒さに耐えられず毛糸の暖かそうな靴下を履いてあって、それをスリッパが包んでいる。今日は大きな黄色の花の髪飾りに蝶結びの綺麗なレモンイエローのリボンが長く垂れていた。そういう髪飾りに合わせてエプロンの色も仄かに違うのだと自慢げに語って貰ったことがあるが、申し訳無いけどいつも通りの白にしか見えない。マリーはお盆に乗った紅茶とお菓子を見てにこりと笑い、僕を見る。

「今日はジャスミン」

ふわりと香ったジャスミンの匂いに、お盆を持つ。マリーは持てると言いたげな目をしたけど、結局僕に任せて一緒に着いてきた。
隣を歩くマリーの髪の間から、髪の色とは違う清潔感と薬品臭を感じそうな白が覗く。

「ごめんね」
「なにが?」

僕の突然の謝罪に、マリーは何のことと不思議そうにする。本当に知らないように見えるけど、マリーの口は少し弧を描いていた。目は僕をじっと見て、先を促す。

「耳、貰っちゃって」

マリーは徐々に笑みを深くし、そして耐えきれずに笑った。くすくす笑う声が耳朶をそっと触り、余韻を残して聴覚に溶ける。

「大事にしてね」
「してるよ」
「こっち無くて大変だよ、責任とってくれる?」
「ん、とらせてくれるの?」

マリーは僕の言葉にさあ、と意地悪く言う。ガーゼの色と髪の色は近いのに、それでも僕には直ぐに分かる。意識しているだけなのかもしれない、黄色い髪飾りがガーゼの上をひらんと横切り隠す。
お盆を片手で持って、マリーの肩を引き寄せる。なあにと言う顔に笑いかけ、ガーゼの上から無くなった耳にキスをした。

「カノってそういうところズルいね......」

キッと睨んでくる目の下が赤い。肩からパッと手を離し、いい加減痺れてきた片腕からお盆を交代した。くすくす今度は僕が笑う。

「お互い様」

ガーゼの上を手で覆うマリーは少し躊躇った後、確かにと悔しそうに声に出した。今日は僕の勝ち。

マリーは静かに笑っていた。
ほうっと寒い中で暖かい飲み物を飲んだような息が出る。春が近くて昼間には暑いと感じるほどの陽射しが古い皮膚を脱皮したように新しく輝いていた。黒い服を押し付けられてそれに袖を通していたけど、いい加減暑くなって上だけ脱いで片手で抱えていた。仲間内でひっそり行われた寂しい秘密のお別れ。泣いている声だって聞こえたけど、僕はそれを映画館で感動ものの映画を観ている気分だった。周りが泣いているから逆に冷めてしまってぼうっと観ている感じ。
マリーは綺麗だった。
長くないと言っていた。それはずっとずっと前に自分で決めてしまっていたことらしい。マリーのお母さんが死んでしまったとき、マリーは自分の寿命に上限をつけた。だからと言って成長が早くなる訳じゃなかったらしいけど。
最後だ。そうキドが固い声で告げた。代わる代わるマリーの姿を見ていく皆を見ていたら、セトが僕の肩を強めに殴った。振り返ってセトを見れば何も言わなかったけれど、その目はひたりとマリーの方を見ていて雄弁だった。
セトがそっちに歩いていくのを見て、僕も着いていく。
マリーをしっかりと見詰めた途端、この綺麗で儚い人には会えないのだと理解して、少し悲しく思った。マリーの髪を撫でてて行ったセトの代わりに、僕の順番が来る。何を言えば良いのか、何をすれば良いのか。じっと見て、マリーを囲む四角の壁の一辺の縁に手をついた。
考えれば考えるほど何も出来なくなって、次第にしたいことが思考の糸をほどいて僕を自由にした。何も考えず、お伽噺みたいにキスして、マリーの手を握って、手の甲にもキスをした。
はたた、と水が落ちる。それは僕の目からぼろぼろと滴り落ちていた。意外と、ショックだったみたいだ。自覚して、ホッとする。
振り返って驚いた顔をしている皆に、もう良いよと言った。うまく笑えている自信がないのは久しぶりだった。

水のやり過ぎには注意しましょう。丸っこい字で書かれた言葉の通り、水のやり過ぎには注意した。肥料はやらなくて良いです。間引きも要りません。
とりあえず言われた通り、余計なことはせずに水をやり続けた。
暫くして芽が出た。暫くして茎と葉が出来た。暫くして、暫くして、暫くして、暫くして、。
たった三ヶ月。春はもう迎えていた。
木となった小さな芽は緑の葉をぶわりと開かせ、幹を伸ばして枝を作り、仄かに甘い匂いをさせていた。
琥珀色の水をやる。
実が出来たら一個だけ取った。それを腐るまで置き、種だけになったそれを大きめのコップに水と一緒に置いておく。それだけで良い。他はいつの間にかあっという間に地に落ちて芽を出す。

「この分だと森になりそうだね」
「それも良いんじゃない?趣味は森いじりですって言って生きていくよ」
「いじるの意味がカノだと違う風に聞こえる......」
「マリーの思い込みじゃない?」

肩に乗って不満そうにしているマリーに笑ってやる。十五センチくらいの身長はお気に召さないようだが、年々大きくなっているのは確かだ。やはり片耳はない。
マリー曰く、代償みたいな物らしい。これだけ大きなことをして片耳で済んでいるのはむしろ行幸な方だと。

「森から出れなかったのに、森になっちゃった」
「新鮮?」
「むしろ呆れてる......。カノが居なかったらしなかった」
「責任とって一生世話していくって」

それで勘弁してほしい。
マリーは僕の顔を落っこちそうになりながら覗き込んで、ふふっと笑った。仕方ないねって楽しげな声が言う。

「責任とられてあげるよ」

やっぱ、ズルいよね。
今日は僕の負け。
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