60 | ナノ
セトシン

その時だけ違和感はなくて、本当に自然だった。息を掠めたことさえ忘れてしまうような、そんな触れあい。てろりと樹液みたいな琥珀と鋭く激しい金色の中間で薄ら輝く目が、なんの表情の欠片も無く固まったオレをじつと見ていた。バイトから帰ってきてそこまで経っていないからか、花と青い草の匂いがしている。その衝撃から暫く経ち、オレはやっと我に帰る前に思わず唇を袖でごしぐしと拭う。
琥珀の金はそっと細められ、顔が微笑んだ。静かに静かに大人しく、当たり障りの無いいつもの笑顔で去っていって、まるでそんな俺の無意識の拒絶は些事だと言わんばかりの様子に困惑する。
あんなことをする奴だったかと記憶の詰まった薄汚い箱をがちゃんと引っくり返し、やはりあれは違和感しか纏わない行為だと分かって更なる混乱がオレを襲う。びりびりと電気みたいな衝撃が後頭部から抜けて意識を冷やし、巡っていた血を落とした。さあっと波のように引いた血は混乱と嫌悪感を脳の砂浜に置いていく。打ち上げられたようなそれは水気を纏ってへばりつき存在を叫んだ。
ごしっと強く唇を袖で拭う。

(きもちわるい)

声も出ない。
同性との、ましてや自分よりガタイの良い男とのキスなど、誰が好き好んでやるというだろう。まるで嗚呼そうだった忘れていたと用事でも思い出したように振り返った男の目はいつも通りの物で、奥に何かを潜めているなんてことは微塵も感じられなかった。いつも通りの日常で終わるはずだった今日は、些細で在りながらも確実に関係性をぶっ壊す行動によって呆気なくくあんと倒れて細かくヒビを入れた。それは本当にもう、どうしようもないほど静かな手遅れ。
混乱は俺の脳を包みがりがりと削ろうと抉ろうと刺激する。その刺激によって繰り返し再生を流す壊れたビデオに吐き気が込み上げてきた。喉を圧迫してくるそれを耐えて浅く目を閉じれば、瞼の裏で光景が素早くフラッシュバックしてくる。別にファーストキスだなんだと夢見る女子やロマンチックを求める男子でも有るまいし騒ぎはしないが、。飲んでいたハーブティーの匂いと、他人の、更には男の唾液と言う気色悪い味、ぬるりとした感触の肉が、舌を、撫で、。
鮮明に思い出したせいで吐き気が限界を越え、オレはずるずると壁に体重を預けて座り込んだ。直接触るのが嫌で袖を口に押し付けて拭い、さっきの感覚を更に強い摩擦で忘れようと努力する。
とうとう唇はぶつりと弱く破けて赤いジャージを更に濃くしたが、それでもオレは構わず拭う。嫌悪感は背骨を走り不快感は肌をなぞった。ぞわっと鳥肌が覆う。

(あいつ、いみ、わかんねえ)

金色に近い目が黒髪から覗いて、オレの視界を撫でたあの瞬間が、細切れに再生される。女が好きなはずだ、マリーとイチャイチャしているのを何度も見た。
そういうことはマリーにしろと怒る前に去った背中が憎い。気付いてないだけで本当はホモとか、なんて疑問は抱くが、きっと違うんだろう。ああ、きっと何かの罰ゲームだ。きっと。オレを巻き込むなよ。
希望から出ない願いを持って立ち上がり、オレはふらっと歩き出した。今日はもう帰ろうと足を動かす。
梅雨の雨が降っているのも構わず、ケータイも忘れてオレはそこから逃げ帰った。

人類の終わり。そんな言葉を思い浮かべて連想するのは、隕石だとか洪水だとか、そんな明らかに複数の同じ題材の映画から抜粋したような物だろう。オレだってそうだ。けど人類の終わりは、思っていたよりずっと静かで、ずっと可笑しかった。耳鳴りでもしそうな沈黙のカーテンが世界を覆ってしまう、そんな世界終末は確かに起こったのに、それの確かな時間や日にちはない。
ぱちりとスイッチでも切り替わったように、世界は異常なほど静かで恐るべき早さの内に終わった。
母もモモも誰も居ないリビングでぐらぐらしそうな熱気を受けとる。煩く耳元で飛んでいるかのようなざーっと白と黒の砂嵐の音を巻き起こすテレビの電源を、オレはふつんと切った。途端に気味が悪くなるくらい静かになる部屋に、顎を伝った汗がぽたりと一個だけ床へと落ちる。窓を開け放して強すぎるほどの日光を射し込ませ、風がそよとも吹かないリビングで、オレはただ呆然と何をするでもなく立っていた。それ以外することが無かったとも言える。
電気は何故か通り、ガスも同じ。コンビニだって一応使える。オレの生活に必要不可欠なネットだって、異常無く出来るのだ。
ただ人が居ない。居ないは間違えているかもしれない、居る。そう、居るには居るのだ。それはオレが知っている人間の形をしていないだけで。画面の向こうでドアの向こうで街の中に、居る。
世界の至るところである時原因不明の奇病が流行り出した。最初の発症者は肺が苦しいと、次の発症者は髪の間から葉が落ちてくると。そんな奇病はその二人が見つかってから恐るべき早さで世界に広がった。
全世界の全人類、オレ以外が全て、その奇病に掛かって、沈黙した。
オレ以外、だと思う。遂にはヒキニートを諦めて街をだらだらと歩き続けた日々、オレはオレ以外で動いている人間を影すら見たことがない。ただただあちこちに硬いアスファルトをクッキーのように砕いて根を張る木が、至るところに居るのだ。まるでコンクリートやアスファルトの下からそれらを突き破って生えてきたように。
何が原因かとかこういう現状でとか、そういうのは伝わる前に知っている人間の記憶は固い樹皮の向こうに閉じ込められたと思う。これが世界終末人類最期とでも言うんだろうか。動物は人間を始め全て姿を消し、持ってこられる音はたまに住宅街から漏れる付けっぱなしのテレビの砂嵐。
キドもカノもモモもマリーもコノハもヒビヤもヒヨリも、アジトでぼうっと花を咲かせ体に蔓を巻き付かせて生きている。エネはその日から忽然と液晶画面の中から姿を消し、夏の日は不自然なほど異常であると分かるほど長く長くじりじり続いていた。蝉の音も聞こえない中でオレの足音だけ響く世界。気が狂いそうなほど、オレは本当の意味でただ一人だった。
嫌になるほど暑い気温を受けながら、次第に耳に嫌な感触を残していく砂嵐をふつりと途絶えさせた。
途端に消えて静かになったテレビのリモコンをソファの上に放り、いつも通りの服にさっさと着替えてしまう。黒のTシャツ、赤のジャージ、カーキ色のカーゴパンツ、いつも通りなんの変わりもない格好で、それをダサいと罵る声も、それをからかう声もない。
着終わってから茹だるような暑さの廊下をだらだらと億劫な足を引きずるように歩き、玄関でざざんばらっと適当に置かれている最近だけで随分履き慣れた靴に足を入れた。恐れていた外は凶悪なほどの暑さを持っているが、一番に恐れていた人との関わりが一切無くなってからは随分オレのドアを開ける動作を軽くしている。皮肉だな、なんて自嘲するのももう飽きていながら、がちゃんとドアを開けた。部屋とそう変わらない温度に体を浸し、家の影から出る。その瞬間から始めるのは一方的な太陽からの攻撃。
安全と言い難い低い塀に埋め込まれたような軽い門から出てこったりと存分に太陽って熱源に熱されたアスファルトを踏む。歩き慣れた道で痛みすら感じる日を避けて日陰に入って行く。汗はとっくに噴き出していて、服にしゅうしゅうと吸引されている。
ぼうっと足が進むままに適当に歩いて行けば、最近活発に利用しているコンビニに着いた。レジの中から天井まで延びて窮屈そうに横に広がる大きな樹木と付けっぱなしのきんきんのクーラーがオレを迎えるのはいつも通り。
少し寒さすら感じる店内をくるっと歩く。埃を被っていながらもちかぴか色鮮やかなパッケージの化粧品やファッション雑誌はスルーし、来たらパラッとでも捲っていた漫画雑誌はいくら待っても新しい話は更新されないからとこれもあっさりと通り過ぎる。
商品棚に置かれた商品を取っては、貼られたシールにべったり黒く印刷された賞味期限を気にしながら適当に数個、カゴに放り込んだ。冷気をふおふおと吐いている棚には多くの弁当などが詰まっていたが、もうとっくに手遅れだろう。密封されている物じゃないと安心して食べられない。
最初の頃はまだ合った良心的な黙って持っていく罪悪感によってお金をレジに置いていったが、もうそれもとっくにしなくなっていた。あれだけの価値を持って誇っていた紙幣は、本当にただの紙となったからだ。その依存しきっていた物も、一人きりだろう今はまるで意味がない。
今日の食事に十分かと思われる量をレジの下からビニール袋を一枚取って、その中に持っていた物を詰めた。入れる度がしょがしゃと鳴るビニールにどうしてだか気が急ぎ、詰め終わったビニール袋を乱暴に持って自動ドアの前に立った。一個何かを落とした気がしたが、もう良いかと振り向きもしない。出迎える熱気に包まれて、まるで引き留めるような後ろからの冷たさに走ってしまいたいと思う心。そんな弱さを体力の無駄とばちりと叩き落として空を見上げれば、強烈な太陽光はオレを容赦無く刺し殺そうと光っていた。
また戻った道は道路との間に低い柵が立って無駄に安全確認をする。しばらく歩いて見えた、道路のど真ん中で乗り捨てられたように停まったままの迷惑な車。天井を貫かれ、そこから伸びた枝に見たこともない白い花をびっしりと咲かせた木が大きく根を張っている。その隣に小さな木がポツポツと赤の花を枝に散らせているのに、なんとなく親子だったのかなんて思いながらその横を通り過ぎた。もしかしたら手でも合わせるべきなのかもしれないけれど、もう何が何だか麻痺してきたオレにそんな余裕は無い。ぱらっと暑さに汗が落ちたけど、拭うのも億劫だった。
正常な世であったのなら即スクラップだろう壊れた車を通り過ぎればすぐに見慣れた公園が視界に飛び込んできた。通り掛かればジャングルジムやブランコなどの褪せた遊具にぐるぐると絡み付いく蔦に、砂場で二本寄り添って生えるオレの膝上ぐらいまでの木。ちらほらと日を受けてぺかぺか輝く葉。前より一層緑が多くなった公園になんとなく入って、水飲み場のノズルを大きく回した。ぶわっと上で広がって落ちてくる水の向きを指で押さえて木に当ててみる。それを一通りして、水のノズルをきゅっと閉めた。幾分か元気になったように見える木にオレは公園を出てさっきコンビニで調達した簡易朝食の箱を開けて袋を破く。なんとなく、なんの意味もない。それが酷く虚しく切なくなって、ひたすら煩いほど緑が多くなった道を歩いた。ブロック状の乾いた物を噛み砕いて飲み込めば、それは更に質量増した気がして、オレは唇を柔く噛んだ。
大通りに出れば一層緑は多くなり、デパート周辺になるともう森と言っても良いようになっている。何度見てもあの向かい合っているデパートの窓から伸びている木には乾いた笑いしか出てこない。人なんて居ない。俺が一番よく知っていて、分かりきっているほど分かっていることだった。それでもこうやって毎日入れもしない人だった木の群れの前に足を進めるのは、こんなに探しきれない所からなら、誰か。誰か、。
もしかしたら、

「、......」

思ったより震えて弱々しい声に、オレはついに木の影で冷えたアスファルトに踞った。
こんな、人間が木になるなんて、馬鹿馬鹿しくて有り得ないはずの、それでも現実の現象が起き始めたその時、一人の団員はあっさりと今までの存在感を掻き消すように荷物を纏めて行方不明になった。人の気配を濃く残すくせに何もない部屋に、オレを始めメカクシ団の全員を困惑させた。放浪癖にしては可笑しいとその幼馴染みが捜索に乗り出したその日、オレの周りは完全に沈黙した。
馬鹿馬鹿しいと、画面の向こうなら笑えたのか。アホらしいと、電源を切れたのか。有り得ないと、批判コメでも打てたのか。
かた、と微かに体が震えて、オレは急いで立ち上がる。これ以上ここに居たら死にたくなるんじゃないかなんて、今もみっともなく生きるオレを、誰か。
ふと知っている声が聞こえて、顔を上げた。
鬱蒼と繁る森の奥は暗くて何も見えない。ざあっとさっきまでちょっとも吹いていなかった風が強く吹き、木を大きく揺らして落ちた葉を巻き上げた。オオオと風を吹き込ませて鳴いている。

「、......え」

風の間に届いたその音。そんな訳が無い、聞こえる訳が無い。そう思うのに思わず空を見上げて声の主を探す。誰も居ないそこに、オレは一人で立っている。ついに可笑しくなったのかなんて首を振ってその暗い黒すら見えるような森から遠ざかった。
有り得ない。そう思いながらオレは一度だけ振り返って城のようなデカイ建物を眺めた。

「シンタローさん」

あいつの声が、聞こえたなんて。
耳にしっかりこびりついたその幻聴を耳をなんとなく擦って消そうとする。くわんと響くような音。声。
懐かしさが、削り取られていくんじゃないかってくらい繰り返し思い出した記憶を呼んだ。
葉が落ちる。


それを知ったのは偶然だった。
身体中をぞわぞわとまとわりつく微熱、ぼうっとする頭、視覚と触覚に叩き込まれるような洪水みたいな雨。排水溝がごほごほと溺れていく音を聞きながら誰もが大慌てで帰っていく夕立の中で客なんて一人も居なくて。精々軒下で雨宿りする通行人くらいの物。
悲鳴みたいな水の音。そんな中に微かに聞こえた残念そうな声に、ああしまったと目を押さえた。声なのに声じゃない、脳に直接否応なしに叩き込まれる声。微熱によって能力の制御が少し緩んでいたから。仄かに赤が残る視界に奥へ引っ込もうとして、気付く。
硝子の向こう、雨の音。
表からは見えにくい影に行き、意図して能力を使った。ぼうっとする頭にまた入ってきた声は幼く、何も知らないような子供の声。その記憶は地面に叩き付けられてもう飛べないなあ残念だと言った拗ねたような無垢なもので、気に止める必要は無かったようにすら感じる。
しかし、それが持っていた情報は、途方もない物だった。
理解の租借が完了し、俺の思考にじりじりと微かな遠い警報が鳴り響く。それは次第に音を大きくして俺の危機感をどんどん高める。
そんな馬鹿なと一笑するのは簡単だった。現実逃避に軽く仕事に没頭すれば良い、忘れてしまえと。しかし俺が一番、憎くもこの能力の正確さを分かっている。
どうしたらと思いはする、けれど誰かに相談でもしてどうこう出来るというのかと聞かれれば、答えは勿論、否。どこかのSF映画じゃあるまいし、全人類を救うなんてのは出来ないことなんだ。
嗚呼参ったな、そう思いながら店の奥に引っ込む。考えるのは幼馴染みや団員やマリーや。あの人。
ばたたっつ、。雨がどこかを打った音に小さく俺は愕然とし、笑った。こんな所でこんな状況でこんな終わり方を知って、俺は一つを自覚した。こんなのって無いだろうと叫ぶのは簡単だし実際に叫んだって良い。でもそんなことしても俺は結局、結局。

雨が降る。世界を少し伸ばしただけだった雨が降る。

泣きたいとか吐きたいとか気持ち悪いとか非常識だとか、結局慣れてしまえばどうってことは無くなっていった。アイツは事あるごとにそれをし、日常に組み込み、オレを慣れさせてしまったから。それでもコンプレックスを感じさせるような姿は変わらず、そのくせ理解不能な行動は止まらずで、オレはあいつが大嫌いだった。
ぼうっとベッドに転がって天井を見上げる。薄い布団の上に寝て、クーラーの冷風を受け入れた。ベッドの横に置いた小さな机にコーラと随分前に新商品と書かれていた空のカラフルな紙の箱を置いて、ただなにもしない。なにも出来ない。
久し振りに呼ばれたような感覚が、ずっとまとわりついてオレから離れず、オレもそれを離そうなんて到底思わずにいる。人間の声自体もう長いこと聞いてないのに、それが更に近い人間だと思うと懐かしさがぎゅうっとオレの首を絞める。息が詰まって苦しくなって、さあ、どうしよう。肺の奥を支配して喉に延びる手。噎せ返る声が部屋に響いた気がした。
止めて欲しい。止めないで欲しい。
雨のあとのコーヒー牛乳色した濁流のような記憶に思い出すのは嫌悪の対象だったアイツだけ。家族とか、モモとか、キドとか、マリーとか、エネとか、アヤノとか、ヒヨリとか、ヒビヤとか、コノハとか、カノとか、とか、。他にも思い出したい奴はいっぱい居るのに要るのに、なんて無情な、人間性。
聞こえた声は本物じゃないかなんてすがりたくて堪らなくて、苦しくて。お願いだからなんてみっともなく祈りたい。情けなく叫びたい。感覚が無くなるまでの全力で。
カミサマなんて物を信じては居ない。だってこんな世界で信じろって方が、だろう。
ぐた、と寝返りを打つ。ベッドからはみ出した腕が重力に逆らって空中で止まる。次第に痺れてきた腕を伸ばしてコーラを掴んだ。ひんやりした液体がプラスチック越しに伝わる。
その瞬間に思い出した記憶に、オレはその液体を落とした。ごとんと床を打ってごたごと転がったそのペットボトル。しゅわしゅあ炭酸の悲鳴が微かに聞こえる。
その音にも脳裏を撫でられ、記憶のアルバムはもの凄い勢いで捲られ、オレの思い出した瞬間を叩き出す。

ーー濡れた手がオレの手を握って、駄目だ。ーー引っ張って、止めろ。ーーオレに、なんて、。
金色の、目。

がばっと勢いよく起き上がった。
息が出来なくて、軽く一回喘ぐみたいに声を出して口を開く。汗が滲んで次から次へと服へ吸い込まれていくのが分かった。汗が、止まらない。ぐしゃりと前髪を引っ張る。
アイツに会ったあの日、アイツはオレになんて言った。雨の中で、なんて言った。
また記憶がアイツの声を、再生する、脳。
違う、違う。やっぱり違う。これは違う。
耳朶を打つこの声は、紛れもなく、疑いようもない。記憶の再生なんかじゃない。レコードの壊れた音じゃない。

「シンタローさん、」

ーーこれはオレを本当に呼んでいる。
耳を閉じて踞れば、ぼた、り、と汗が落ちた。

俺と関係の全くない人物に話したところで、下らないと一笑されるのは想像に難くない。実際俺は何度もそうやって笑われ馬鹿にされ、危機を伝えようという気持ちは小さい頃に枯渇していた。しかし俺と関わりがそう浅くない人物ならどうだろう。悪い冗談だと最初は笑い、次第に俺の言ったことを信じるんだろう。顔を真っ青に染めて嘘だと呟くんだろう。それは、それは嫌なものだ。駄目なことだ。
どうせもう止められない。準備は静かに行われ、これを知るのは俺くらいなものだろう。誰も気付いていない。それなら。
これを少しばかり利用させて貰うことにした。
どうせ最後だと諦めながら、俺はくるりと振り返る。ああそうだ忘れていたと思いながら、最初の行動に出た。吸い込んで、君を助けて見せようか。救出劇なんてお綺麗なものじゃない、冒険活劇なんてからっきし。
それは果ての無い緩い絶望と生存と、。
ほんのすこしの好意だけ。

起き上がって着替えて、急いで家を出る。囁くように耳にまとわりつくこの声が誘っているようだと気付くのにそう時間は要らなかった。これは紛れもなくアイツの声だ、けれどアイツだという保証はない。もしかしたら気が狂っているだけかもしれないし、これは木になる予兆で、オレもまた木となるのかもしれない。それはそれで良い、アイツに会ったところで、オレはあいつが嫌いだったままで決してオレはあいつの言葉を全部理解できない。
徐々に傾くような精神の疲労、絡み付くような孤独感と果ての無い絶望。死にたいと望みながら誰か居ないかと探し、生きる理由を貰おうとする臆病者。一度擲ったくせにしがみつくように浅ましく。
もし、もしこれが本当だとして、あいつだとして。そんな仮定が今も渦巻きオレの諦めを流していく。辛うじて引っ掛かっているはずなのに存在が希薄になっていくのを感じる。
緊張やら今更な恐怖やらで息が詰まり満足にできない中での行動にいつもより早くバテた。吐き気も限界で壁にもたれ掛かり、濃く薄暗い色の日陰の中に座り込む。情けないと言葉を漏らせば、汗が落ちる。久しぶりの体力を粗く削った行動衝動。
声は相変わらず一定の間隔を置いてオレに響く。おいでと優しく耳朶を触る声が、オレの弱味の隙間に入り、中を食い荒らしていく。
立ち上がり、ふらりと誘惑されたように歩き出す。無意識と意識の間の曖昧に立って、オレはその声を確かに望んでいた。

泡の立つ、柔く白い滑る石。削れて溶けて薄くなったそれを、お湯を張った洗面器に落とす。ぱしょんと穏やかに揺れていた水面を、叩いて乱した石のゆるりと溶ける様を見ながらぼんやりとした。あの人を思い浮かべ、嫌われているんだろうなと理解する。すぐに浮かんだ嫌そうな顔や嫌悪してる顔、最近じゃ慣れてきたのかそういう露骨な顔はしないが、俺を見ると微かに歪む顔を知っている。
白い浴槽の床を足でとかんと叩き、壁と同じ材質の、ざらっとした天井を見上げた。お湯の呼吸のような湯気は視界を少しばかり煙らせ、空気を隠す。閉じた窓から格子の影が水面に落ちて体を刻み、日光はてらてらとお湯の表面に弾かれる。
嫌われることをしている自覚はある。むしろ嫌ってくれなければならない。掬ったお湯を顔にぶつければ、ばらっと疎らに雨が降る。
肺の苦しさは日に日に重くなっていく。それはそうだ、二人分の負担だから。もう肺に咲いた花は手遅れだ。だから急がないといけない。
この体は捨てても良い、それだけの価値が、。

商店街はやっぱり木が溢れ返っていた。デパート程ではないが、随分多い。馴染み深かったこの場所には理解が追い付かない現象が始まってからは一度も足を踏み入れたことはなかった。それはどうしても複雑な気持ちを抱かせる光景で、居心地の悪さは一層増してオレに予想より重くのし掛かってきた。
その中を通り、声に頼る。もう何がなんだか、今までずっと冷静で見れていたこの現状に、今更ながらに叫びたくなるのだ。
なんでこうなったと。
目眩が起き、立ち止まる。さ迷うように、迷子のように、オレははたはた歩くしかない。その無言はオレを貫いて目眩を乱暴に払い除けた。
商店街を抜けて、脇道を覗く。窓硝子を割り開き、まるで争うように窮屈な箱を埋めて外を求める木と目が合った。ひゅっと、細かい息を飲む。ぱっと顔を逸らして早足で歩き出し、さっきの映像が眼球の裏でこびりついているのを理解しながら、オレは目を伏せて歯を強く噛む。
樹皮が盛り上がり、まるで型を取ったみたいに、人の顔が。
さすがにオレだって最初は信じられなかった。人が木になるなんて、有り得ない。だけどそれを信じざるを得なかったのは、その木の造形だ。全ての木に人の形が、その人物の形が残っていた。まるで精巧な人形のように、型を取って嵌めたみたいに。
気が狂いそうな光景。
声が気にするなとばかりにオレを押し、オレを誘う。明るい光に集る羽虫のように、オレは黙ってそちらに歩いていく。もう嫌だとはっきり訴えてくるオレの波立つ感情。もう無理だとすがって、。浅ましさに吐き気すら覚えて、それでもそれを、最後かもしれないそれを。
オレはもう拒否できない。どうしたってなんだって、もうオレは全部見たくない。
一つ呼吸をして、オレは商店街を抜けた。大通り、路地、小道、店の中、木、木木木々木。
アジト。
107の数字がそのドアの存在感を大きくしていた。狭い路地の中、脇には木製は塀に蔦を絡めて花を咲かせている。光の射さない薄暗いその細い道はひんやりとしていてそのドアを隠すように空間を圧迫させていた。
ぼうっとどこか意識が曖昧なままそのドアに手を掛ける。何度も見たその光景は脳裏でぐちりと種を芽吹かせオレの目の前にちかちかと写真を浮かばせた。
がしゃん、とそのドアを大きく押し、入る。その隙間から見えるのはやっぱり木だ。花の香りがぶわりと濃く漂い、土の臭いがどこにも無いのにまるで簡単な森みたいだった。中はクーラーは付いていないからか熱気が込もってかなり暑いのに、その木は草臥れた様子も何も無い。
その木々の隙間を通り、何となく傘を持たない裸の電球の下に立ってみた。現実味の無いあやふやにも感じる光景の中、孤独感だけが電気信号を発する。ちかちかと点滅するような痛みがオレの背中を抱き締めてそっとある一室を指した。その指に従って、オレの視線もその一室を強く刺す。
一歩一歩が酷く重くて首が絞まった。息も満足に出来ない水中の中で鉄の靴でも足と融合させられたかのように、それでも確かにオレはその目の前に立つ。ひたりと細かく震える指がその部屋のドアの表面を撫でた。どくりと一つ大きく震えた心臓と体液と鼓膜。
がちゃんと、その薄くも厚い板を押した。
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