58 | ナノ
セトシンとメカクシ団

とある奇病の話。ーーから一部抜粋。
発症者との接触により感染し、時期には個人差がありますが平均二ヶ月〜三ヶ月で発症。発症者は細かい胞子を肌に纏い、それは一度他人の体に接触すれば途端に肌に吸収され、眼球へと到達。眼球の水分は徐々に胞子に吸収され、それに伴い視力の低下が見られます。その吸収の後に胞子は発芽し、数を増やし、そうして最後には眼球は枯れて無くなり、眼窟からは発作のように暫く無数の花を溢れ出すようになります。末期症状としては口からもその花は出てくるようになり、次第に身体中の水分が枯れ果てて行くため、水分を過剰に求めるようになります。最後には常に体の一部を水に浸さなければ生きられなくなり、花が枯れるように冬場に急速に老いていき、死に至る場合があります。
発症した場合、回復は望めません。しかし途中で症状を止めることは可能で、その方法によって胞子の放出と花の生産が無くなるということが近年証明されましたーー。

かつん、と小さいけれど確かに部屋の空気を揺らすクリック音で、画面いっぱいに占拠を広げていたウィンドウは消え去る。履歴にだけその姿を表し、いつしか消えるであろうその項目を、オレはもう欠片も見る気はなかった。
花読目病「かどくめびょう」、一般的な名前はそれだ。他にも長ったらしい正式名称はあるが、そんな物を覚えていられるほど人ってやつは暇じゃないし、それを覚えてやる容量があるくらいなら他に回すってものだ。
かっちんかっつんとクリックの音は軽く響く。重い内容だろうがグロい内容だろうが、この音の軽さだけは変わらない。適当に開いた動画サイトでランキングに載っていた音楽をクリック、開く動画は準備中の表示がくるくると白く光っている。それにマウスから手を離してうぐうと伸びをしてヘッドフォンを耳に当てた。準備中が終わり、再生のボタンを左クリックすれば、途端に耳には音楽が流れ出す。ぶわりと広がっていく五線譜上の黒いインクは、こうして現在オレを襲う。穏やかな昼下がりの気温、まったく青春に相応しい春の陽射しは揚々とオレの部屋のカーテンの隙間からふわふわと覗き見ていた。それがベッドを照らし、シーツはヒキニートの所有物とは思えないほど純白に輝いている。眩しさに目を細めて、ふとこんな陽射しが似合う花の群れを思い出してしまった。
床に広がった有りとあらゆる種類の花は、茎は無く、葉もない。まるで最初から無かったようにそれは堂々と咲き誇っていた。目蓋を閉じてその上を押さえる手は荒れて真っ赤に割れていて、その指の隙間から溢れる花は留まることを知らずに、意思もなく意志もなく。
そうっと開かれた目蓋の裏、オレが知っている色は一つも無かった。太陽の下で金の色をあっちこっちに向けていた目は、無かった。
ようやく降っていた雨に似た雪は止み、灰の雲間から覗く青を薄くした水色に近い色が帰ってきた時。窓からは燦々と陽射しが代わりに降ってきて、部屋を明るく照らしていた。それは状況的にはとても不釣り合いで、その癖とても似合っていて。
ぽっかりと、まるで陽射しと逆の位置に居るような目が、オレにしっかりと向けられた。眼球と言う中が空っぽな玉を取り出し、真っ黒な墨汁をそれに注ぎ入れた様な、そんな穴。
目は無かった。黒目が極端に大きくなったとかそんな訳じゃない、むしろそれなら金色がそこに無くてはならない。しかしそこには代わり映えのしない、変わることのない、確かな気配は、欠片も残っていなかった。代わりにと言わんばかりにその黒から吐き出されるのは、布が新鮮な血を吸ったような赤や、葉に煮詰められて染められたような緑。紋白蝶の羽を飾っているような白や、黒炭を薄く削って添えたような黒。コバルトブルーの絵の具を溶かした水にずっと挿していたような水色や、幾つもの檸檬に色彩を分けて貰ってきたような黄色。その他にも例えようがない、名称すらハッと出てこない彩りが、溢れ返っていた。
まるで花弁は涙のように落ち、細かな柔く崩れやすい山を作る。自身の仲間であるそれの落花にすら耐えれない、色彩の山。

「可笑しいなあとは、思ってたんすけど」

口元はゆるりと穏やかに笑みを浮かべ、オレに安心させるような声は、存外甘い。その笑みでも、尚止まらない、花の涙。
噂ばかりを聞いてきた。誰それがと言った個人を指すものは流石に無かったが、発症者がと、噂されるような、気配も分からないような、小さく聞き取れないほどの微かな声。ひっそりと濃いグレーを落とす日陰で、耳を貸し合い、交わされる。
現実味は無く、まるで妄想のような光景。

「まあ、シンタローさんは、心配してないんすよ」

かつりこちりとガラスの玉がぶつかり合ったような、笑い声。オレの喉は確かに震えて、名前を呼んでいるのに、聞こえないかのように、返事は無い。もしやこれはオレの夢なんじゃないか、起きてしまえる事件なのではないか。それをどれほど望んでも、もう無理だと、手遅れだと。

「もう触れないのは、残念っすねえ」

いつも通りに微笑まれた。手が伸ばされたが、それはオレに向けられた物じゃなく、まるで見えているように空中でのオレの輪郭を、セトから見えていただろうセトからの視界のオレの姿の輪郭を、確かになぞって、落ちただけだった。
夢のような、しかし言葉ほどふわりとした感情も幻想さも無く、それは確かに味の無い現在。

「......もう来ちゃ、ダメっすよ」

思い出せば、喉元をせり上がってくる感情。
まるで諭すように、子供を家に帰すような声。そんなことを言うべきなのか、そんなことを。
何をすれば良いのかは、ずっとずっと、知っていた。
伸びをし過ぎてぐうらありと傾いた椅子が落ちる。ガツンと打ち付けた椅子越しとは言え背中は、衝撃に耐えきれずに痛み、肺はそれが伝わって空気をげほんと吐き出させた。しかしそれより酷い後頭部への激しい痛みにオレの視界はぼろぼろと微かに滲んだ。
結局はオレの視界なんてこんな程度だと思うと、どうしてか笑えて仕方なかった。

アジトの四つの部屋。その内一つはもう滅多に内側からは開かなくなっている。それは遠慮だったり事故への恐れだったり。仕方ないなんて言いながら、徐々に落ち込んで暗くなっていく内部。幾つもの灯りは役には立たず、それは重苦しい雰囲気の影を濃くするだけだった。
開けた途端に香ったのはそんな空気。まるで雨の前みたいに水分を含んでいるかのような、仲間の顔。そういう顔をさせたくなかったんだろうセトも、それでもこうなるしか無かったんだろう。
解決策を知ってはいても、セトを無視できないこいつらは、もう何にも頼れない。

「どうした、シンタロー。久し振りだな」

歓迎するように向かってきたキドに途中で買ってきた茶菓子とエネの居るスマホを差し出す。それを受け取ったキドを見て、見舞いと言えば、キドはそうかと少し苦そうに笑って頷いた。
キドが台所に入っていくのを見て、オレはさっさと用事を済ませようとソファを通り過ぎようとして、裾を掴まれた。振り返ればマリーが何かを言いたげに見上げてきていた。勿論オレはエスパーじゃないしセトみたいに能力もなければ察したりなんてで出来ない。数分悩んだ末、そのふわふわと白い頭を一度撫でてみる。マリーはやはり何かを言いたげにしていたが、ほんの少しだけ笑って、オレから離れた。さてととまた歩こうとして、カノの視線がジッと刺さっているのに気付いた。それに居心地悪く何だよと聞けばカノはにやりと笑ってそうだねえと返してきた。

「マリーは、セトに触っちゃあダメだよって、言いたかったんだよ」

少し眉をしかめた気がしたが、瞬きの間にそれは幻だったかのように消える。にこにこと飽きそうなほど笑う顔には呆れのため息を返してやり、そしてオレは今度こそ、セトの部屋のドアを抜けた。

「来ちゃったんすねえ」

まるで予想していたと言わんばかりの声が、オレを迎えた。なんだその言い種はと苛立つのは簡単だが、しかしそんな無駄なことをしに来てはいない。嗚呼来たなと即答すれば、セトはベッドの上で、少し意外そうにしてみせた。
見えないはずのセトは、見えている。正確には、見えてしまう。目が無くなっても「目」は健在で、むしろ無い今はどうやっても制御が利かない。しかし代わりに能力は弱まって、相手の微かな思考を盗むぐらいしか出来ないらしい。

「お見舞いなんて、柄じゃないくせに」

棘のある言い方だが、事実だ。しかしそれでもそんな風に言う奴じゃなかった。追い出したいと言うセトの大きな気配が、オレを出口に押そうとする。
床に散った花がある。色彩は薄れず、むしろもっともっと濃くなっている気さえしてくる。こんなに黄色は、山吹の色に近かったか。

「シンタローさん、今すぐ」

声は最後まで続かなかった。セトは口に手を当てていた。
末期症状。体の水が枯れてきているんだろう、セトのベッドの近くには、前は無かったサイドテーブルが置かれ、その上にはペットボトルが幾つもあった。中に大量に溜めているのは一目で分かる。
セトの目は、相変わらず無かった。あの日からずっと。
げほっと一つの大きな咳の後、それは次々と溢れてきた。
空気を揺らし、ぴりぴりと緊張感を走らせるセトの咳。その後の色彩。鮮やかな花はベッドに落ちる。
オレは真っ直ぐセトへ向かった。
面倒だなと言う心境と、仕方無いかと思う感情。
そもそもの発端はオレだ。オレがぶつかりそうになった盲目の通行人との間に、セトはオレを庇うように立った。その時は気付かなかったが、しかし後からよく思い返してみれば、セトの目は赤く光っていた。恐らくはその通行人が発症者だったんだろう。通行人の過剰な土下座せんばかりの謝罪と、お金は払うとまで言い連絡手段まで渡してきたくらいだ、気付かないハズがない。
セトは結局その通行人の背中を見届け、オレにいつも通りに接してきた。いやあ吃驚したっすねえなんて笑いながら。
だから仕方無い、なんて、オレだけは絶対に言えない。
セトの手を退けて口から溢れるそれに噛み付いた。噛み砕いてみても美味くはない、むしろ不味い。直ぐに花が口内に溢れ、口の端から落ちていく。落花。
ごくりとようやく口内に残っていた不味い花を唾液と飲み込めば、視界がぐるりと反転した。ベッドに落とされ、あまりの急さにオレの心臓はばくばくと驚愕で脈打っていた。

「なに、を」

何。うん、何してんだろうな。
視覚の共有という方法がある。それによって擬似的視覚が与えられ、胞子と花の放出は無くなると言う。論理は今だ解明出来てはいないが、しかし解決策は解決策だ。
セトがはくはくと口を動かし、声を出そうとしている。あまりに滑稽なその様子に、オレは一つ笑って見せた。
生産されたばかりの花を体内に取り込むことによってその視覚の共有は完成する。

「仕方無いだろ」

くはっと息を大きく、やっと吐いた。
視覚の共有ということはセトも自分の顔がどれほど滑稽か見えているのだろう。苦い顔は結構見たことがなくて面白い。

「責任だ」

まずはその不気味な目でも隠して、外に出るか。引きこもり。目になってやるから。
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