57 | ナノ
カノヒビ

ごうっと耳を撫でたのは風の音なんかじゃない。眩しくて堪らない揺らめく天井、吐いた息は柔らかい水晶になって昇っていく。歪な景色はそれでも美しさを称え、はっきりしない視界を覆い尽くした。ごばっと苦しさと背中を打った衝撃に僕の口から零れていく肺を漂う空気。
ゆらっと微かに浮かんだ体、腕。眩しすぎる光景。ふわっと目の前を漂った僕の髪。ひんやりとした温度に起き上がることを忘れてみた。ぼうっと苦しい中の浮游に、ごぽんと何かが天井を突き抜けて僕の腕を思いっきり引いた。天井に顔をぶつけそうになるが、僕はそれを柔く突き抜ける。ばしゃんと天井の砕けた音がして、僕は更に眩しい場所へと帰ってきてしまった。ぜえっと酸素窒素二酸化炭素を取り込んで頬や額に張り付く髪を掻き分けた。

「死んじゃうよ、ヒビヤくん。溺死ごっこ、愉しい?」

にこりと胡散臭げな笑顔が僕にからからと問いを投げた。何が愉しいものか。かちんと歯を一回だけ噛み合わせてその笑顔に対抗するが如く睨んでみる。
水が耳の中に入り気持ち悪い。こうこうと響く音と聞こえにくい外の音。

「突き落とした癖に、何言ってんの?」

毒蛇みたいな笑顔だと思う。イメージだ。狐とか猫とか言う人も居るが、そんな生易しいもんじゃないと常々思っている。と、いうよりも、僕が所属するそこは明らかに可笑しく、気持ち悪かった。その癖居心地が良いのは、僕の性質も少なからずそこに似ているんだろう。
なにが気持ち悪いって、全員が化け物の癖にどこもかしこも正常に平坦であるという一点だ。歪まない人間のように振る舞う歪んでる人間。その中でもこの人は一番マシで一番正常に歪んでいる。

「早く拭かないと風邪引くよー」

いつも通りの顔でバスタオルを渡してくるカノさんに舌打ちひとつしたい気分を飲んで思いっきり爪先を踏む。びしっと固まった年上の男を通り過ぎて、窓を開けた。夏の気温が体を撫でて行くのを黙って受け入れる。この暑さだ、適当に拭いてほっておけば乾く。キドさんが居なくて良かった、居たら絶対着替えさせられただろう。

「酷いなあ」
「自業自得」

復活した可笑しな人は可笑しそうに笑いながら僕を見た。僕はそれに簡潔に答えて視線を返さない。

「ヒビヤくん」

僕よりでかい手が、首を掴む。絞めるつもりも何かするつもりもないその手は僕の顔を上に上げさせた。ああ面倒だなあなんて。
真上を向いた瞬間、猫みたいな目と目が合った。折角最近は上手く避けれていたのに、この男はどうやら随分僕に構いたいみたいだ。
にこりと笑う顔。
近付いてきたその顔。
べろりと瞼が抉じ開けられ、弱い眼球の表面を濡れた肉が走る。ぞわりと生理的な嫌悪感にがちりと歯を食い縛った。

「警戒心が強いのも考え物だね」

自身の体液じゃない唾液によって霞む視界は不快感を存分に僕に与えた。気持ち悪いと掠れて呟けば、満足そうに景色の端で笑われる。
一ヶ月前に唇に触れた舌は今度は、瞼をなぞった。
その日からこの男を上手く避け続け、ここまで来たって言うのに。公園で見付かって逃げる前に噴水に落とされた。
どぼん。
正常に歪んでる人間。

「捕まったとき、もっと大変だから」

気持ち悪い笑顔が僕の口を食べた。
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