46 | ナノ
人魚続編

ぱしゃんと水を叩けば雫が数個跳ねる。浅く広い水にオレは縁に頭を乗っけて寝そべった。下に引かれた濃い水色。そしてオレが入っているのが小さい子供用のビニールプール。久しぶりに入ったと思い出す。最後は確か小学校に上がる前だった気がするが、モモは全く使わなくて見るのも久しいはずだ。
浅くともオレの鳩尾辺りまである水は快適で、さっきまでの真っ黒な中で生死をさ迷っていたのが嘘のように生き返った。じわりと体に沁みてくる命の水。まあ服も滲みてびっしょびしょな訳だけど。黒のTシャツはさらに色を濃くして墨につけたと思われるほど真っ黒になっている。さすがにジャージは着ていないが、帰るときどうすれば良いのか、むしろ帰れるのか。
ふはあと息でも付いて寝てしまいたくなるくらいの落ち着きと安堵に少しだけ目を閉じた。が、まあそんな事許してくれる連中じゃない。さっきからジッとこっちを見てこの有り得ない現状の詳細を聞きたがる居心地悪い多くの視線に気付かないわけがない。

「オレは知らないぞ、なんにも」

質問が投げられる前に先手を打っておく。こればっかりは仕方ないと思う、オレだってなんでこんなことになったか全く分かっていないのだ。ぱち、と目を開けて逆さまの四人を見る。セトだけは聞くのを諦めているのかソファで四人と俺を見ていた。オレも出来ればそっちに行きたいとか思いながら仕方なく起き上がってやった。ざばっと水をかき上げて巻き込んで、五人を視界に正しく納める。

「しかしこれは幾らなんでも......」
「だから知らねえって......。そんなん知ってたらオレだって外に出ねえよ」

キドがオレに食い下がったが、やはり分からないオレはそれを無情と言われても叩き落とすしかない。キドはオレの言葉に一瞬で詰まった。
人魚とは厄介な物だったらしい。水分が無いと生きていけない。足は作れるし歩けもするが、どうやら水を飲み続けているのが条件と言う結構過酷な試練だ。その条件が満たせていない場合身体中の水分が徐々に蒸発していき死に至ると。たぶん干からびるなんて物じゃなく文字通り全部蒸発するんだろうな。まったく不便だことで。
ちか、と水面を反射した光が尾びれの鱗に当たってぴかりと光る。淡い赤色と言った感じでかなり薄い。水中に入れていれば足と言ってもまあ通じるような色だ。色だけ。
キドがもごもごと口ごもり、諦めたようにため息を吐いた。もうどうにでもなれと言った自棄も感じる。
モモは今だ受け入れられないのかオレを見て尾びれを見て、更にまたオレを見てと忙しない。マリーはきらきらとオレを見てうずうずしている。こういう所は可愛いが、いつ触らしてくれと爛々と言うか分からないため安心出来ない。カノは嬉々として写メっては保存して今か今かとオレを弄るか質問攻めにするかと機会を狙っている。そのケータイ水に浸けるぞ。
しかしここでオレが気になったのはエネだ。さっきから一言も口を聞いていない。まるで居ないかのような振る舞いだ。こんな格好の状況でエネが一言も話さないのは違和感なんて物じゃない、ハッキリ言って可笑しい。
ふむ、と唸ってモモを手招いた。何かと思いながらも近付いたモモはやはり視線は忙しない。酔わないのかと兄として心配になる。

「オレのケータイ」
「エネちゃんさっきから出ないけど」
「良いから。貸してくれ」

躊躇いながらもモモはオレが手を差し出すとポケットからオレのケータイを取り出して乗せてくれた。モモも一緒になって画面を覗き込んでくるのは、さっきからエネから反応がなくて心配しているんだろう。不安そうにふらふら揺れるモモの目を見ながら、一度ボタンを押した。いつもならぱっと明るくなるはずの画面は沈黙したままだ。

「エネ」

仕方なく呼び掛ける。
しばらく暗い黒の鏡が、すうっと色を染めて起動した。その画面の奥で小さくなっている青いエネが見える。下を向いて頑としてこっちを見ないエネにモモが少し悲しそうに顔をしかめた。
とん、と指で画面を一回叩く。

「こっち来い」
「......会わせる顔が、無いです」
「良いから」

固く拒否した声に強く言う。オレの命令に渋々と近寄ったエネは、しかしいつもより遠い。モモも心配そうに小さく呼び掛けるが、エネは肩を一度震わせただけで反応しなかった。
もう一度と口を開いて恐らくエネを呼び掛けようとしたモモの肩が二回ほど後ろから叩かれた。オレもモモと振り返れば、セトが代わって欲しいと声無しにモモの場所を指で示していた。モモは心配そうな顔を止めず、しかしセトに大人しく場所を譲る。セトはモモと交代してそこにしゃがみ、液晶の中のエネを見てにこりと笑った。

「エネちゃん、さっきは道案内ありがとうっす」
「......いえ」

固い声に固い返事。いつもと調子が明らかに違う。まるで取り返しの着かないことをしてしまった子供みたいだ。
ふるふると小さく震える青の肩を見て浅く息を吐いた。なんて面倒なAIだと頭を押さえたくなる。

「......お前自分のせいだと思ってんの?」

オレの言葉にエネの肩が大きく揺れた。図星らしい。居心地悪そうに、気まずそうに、罪悪感で自分に責め立てられているエネに、オレがこれだと言えることは何もない。
自分が悪かったと理解して反省するのは大いに結構なことだ。むしろ常からその姿勢を心掛けて欲しい。そうすればオレの喉が痛くなったりすることは無いのだが、まあこれは望めないだろう。

「死にかけたしな。苦しかったし。お前が脅すから来たし」
「はい......」
「もうちょっと気に掛けて貰いたいもんだな」

ぐっと歯を食い縛ったエネを見る。じわっと画面の奥でいっぱいの涙を溜める目は一向にこっちに向かない。下を見詰めたまま、。
後ろでモモかマリーが口を挟もうとしてきたがセトが留めた声が聞こえた。何も、誰も、オレたちに声をかけない。下手な慰めも、甘やかしも、エネには掛けられない。

「ひ、う......、私のせっ、で......!」

とうとうぼろっとエネの青い目から溢れた涙に空気は一気に重苦しくなる。女子からの睨みが痛いほどちくちくザクザクオレのヒットポイントを抉るのを感じられるが、セトもカノも、オレのことを分かって女子を止めているようだ。助かる。これで誰も彼もがこぞってオレを責めてきた日にはオレは一生ここのドアを開けないつもりだったからな。

「......で?」
「も、もう我が儘言いませ、......おどしたり、とか......も......」
「違う、顔を上げろ。オレを見て、なんて言うんだ」

エネがおろおろと言葉を紡ぐが、こればっかりは逃さない。エネが恐る恐る顔を上げてオレをゆらゆらと見る。たまに視線を反らそうとするのを堪えているのが震える手を見て分かった。オレもエネを見て、これを言えとは言わない。察しろ。自分で。
エネとオレの沈黙は暫くきりきりと痛むように長く糸を張って続き、ついにはエネの声で、はっきりと絶たれた。

「ごめ、んなさ、いっ......」

またエネの目からぼろっと涙が落ちる。オレはため息をついた。ようやく。また下を向いてはたはらと涙を落として震え、罪悪感で顔を真っ青にするエネに何か言おうかと思ったが、しかし止めた。もう良い、な。
セトにとんっと指で背中を一回叩かれる。分かってるよと小さく返しておいた。

「良いよ、許す」
「ーーっ......へ、......え?」
「だから、良いって」

びくんとオレの言葉に大きく震えたエネは、ようやく咀嚼して意味を掴んだようだった。ぽかんと呆気に取られている青い少女にもう一回繰り返せば、困惑しながらなんでなんでと何度も聞いてきた。ゆるゆるとほっと空気が緩まった。刺さる視線は急激に先を鈍くしてオレから引いていってくれた。

「お前の無理強いが原因だろ。流石にそれで生死までさ迷ったのを、謝りひとつも無く許せるか」

むす、とした顔をしている自信がある。カノが視界の端でケータイを構えてにやにやしているのが見えて、苛立ち混じりに近くのセトにオレのケータイを押し付けた。ご主人ごめんなさい、ごめんなさい、と何度か繰り返すエネに、その度にしつこいと返してやる。徐々に明るさを孕んでいく声に、柄にもなくホッとした。
下手な慰めは罪悪感を煽る。甘やかしも、謝らなくても許してもらえると思い間違った甘さを生む。それの芽を易々と芽吹かせるほど、オレは甘くない。

「良かったっすね、調子戻って」

セトがオレのケータイ、エネを、モモに渡してプールの横に帰ってきた。セトは濃い水色の現在オレを囲う危険色代わりビニールシートの上にがさりと音を立て座った。からっと笑う声に居心地悪くなる。

「濡れるぞ」
「良いっすよ」
「......セト」
「なんすか?」

のんびりとした声は甘くオレにゆんわりと向かってきた。髪がするっと一回撫でられ、顎を伝った水滴を指で拭われる。にこりと笑うセトにぐうと息を一回飲み込んで、甘えたくなるのを抑え込んで口を開いた。

「助けてくれて、......ありがとな」
「どういたしまして」

慣れない言葉で歯痒くなる。言い終わって直ぐに顔を反らせばくすくすと笑いを含んだ声が俺に注がれる。かち、と歯を噛む。増した居心地の悪さにオレは水に少し沈んだ。気恥ずかしさで肺がじりじりする。
色々と意味を込めたが、恐らくしっかり全部理解されているんだろう。それもオレにとっては有り難いだか複雑だか。

「ご主人!」

いつも通りの声が俺を呼んでくれるのも、こいつのお陰もあるのだから。そう思うと少し悔しさがオレの奥でくるくる笑った。
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