2 | ナノ
セトシン

くあ、と誰かの欠伸が聞こえてそっちに目をやる。誰か、とは言ったが、今は実際エネを入れて三人。
ちらりと見えたのは緑のつなぎ。腕を捲ったりはしているが、こんな気温の中だとひどく暑そうに見えてしまう。まあクーラーが効いた部屋の中で思うことでもないかと手の中の派手なエネが写るケータイに視線を戻した。

しばらくして一通り喋って満足したエネは、やたらスッキリした顔で唐突にぶつんと電源を切る。どうせメールに乗ってモモのケータイにでも行ったのだろう。聞こえないとは思うが「迷惑かけるなよ」と暗い画面に声をかけた。
イヤホンを耳から抜いてケータイをテーブルにことんと置く。
結露でテーブルを濡らすコップを見て立ち上がった。ついさっき全部飲んだんだったと思い出す。

「あ、おかわりっスか?俺するっスよ?」
「......良いですよ、もう立ったし。セトさんも、おかわりですか?」
「じゃあ、頼んで良いっスか?」

ほい、とコップを渡してくるセトさんは人懐っこい笑顔で俺を見る。それに少しギクリとしながらも無理矢理押し込んでコップを受け取った。
キッチンに入って冷蔵庫を開ける。そこで一瞬だけふうと息をついた。苦手だ、彼は。
麦茶を取ってコップに氷を入れ、注ぐ。ふわりと浮く氷がコップに当たってかろからと軽やかに鳴いた。家で聞く風鈴よりよっぽど夏だと実感してしまう。
ちりんと鈴のように鳴く風鈴は外すのが面倒なのか、家では年中吊りっぱなし。そりゃ実感も何もないだろう。

「どうぞ」
「どーもっス!」

犬が待てをしているような体制で待っていたセトさんに笑いそうになりながら渡せば、両手で受けとりながら首を傾げられた。なんでも、と誤魔化して麦茶を一口飲む。
ごくん、飲み込めば、喉から胸にジンワリと広がる冷たさにふうと息をついた。

「......あの、何ですか」
「え?......あー、なんか俺に対して敬語だなあって」

それだけっスと笑うセトさんが麦茶に口をつけた。
そんなこと気にしてたのかとさっきの視線の意味を知る。黒い目が俺を真っ直ぐに見るのはどこか居心地が悪い。

「普通じゃないですか?」
「え、でも俺の事苦手っスよね、シンタローくん」
「......」

確かに苦手だが、本人相手にそんなすっぱり言うか。
呆れて見ていると、セトさんはかとんとコップを置いてへらりと笑った。ああその笑顔。

「嫌われてんのかと思ってたんスけど、そういう訳でもないし、苦手なのかって判断したんスけど」
「コミュ障ですから、人間は等しく苦手ですよ」
「それで納得させたいんなら、もっと説得力有る態度したらどうっスか?」

がしゃん、とコップが倒れてテーブルに麦茶と氷が広がっていく。早く拭かないと床にも落ちていくだろう。だがそれが出来ない。

「っ、退いてくれま、せん、か......?」
「いやっスね」

ぎり、と痛いほど捕まれた両手首は顔の横でソファに縫い付けられ、足が動かないように太ももらへんに体重が掛けられている。そうやって俺の自由を奪ったセトさんは、俺の上でにっこりと俺の苦手な笑顔でハッキリ拒否を示した。

「のけ......!」
「シンタローくん」
「気に食わないなら敬語を止めれば良いのか......?」
「そうやって追い詰められないようにしてんのは気に食わないっス」

徐々に手首の痛みが増す。痛みで顔をしかめれば、セトは楽しそうに笑う。ああくそ、なんか嫌な予感だとドクドクと心臓が体内でやたら響く。耳の奥に心臓が有るんじゃないかと思うほどに、強く。

「良い顔......」

ぞわりと腰に響くような声が耳に直接流れ込む。いつもより低く掠れたってだけ、それだけだ。そう思えば何て事無いだろう、でも何か違う。
顔を覗き込まれそうになって顔を反らす。嫌な予感はばんばん肋に響くような激しさに変わった。
見たら終わる。

「ああ、そういう......」
「離せっ!」
「良いっスよ?」

最後にかなりの力で握られた後、ゆっくりと指が外される。あっさりと離されたが、多分跡が残っているんだろう。離された後も痛みと熱がまだ残る。
そう、痛かった、けど俺は紛れもなく油断した。
離されて、安堵に息を、ついてしまった。

「ーーーっ、?!」

息をついた、力を抜いた瞬間に、顎を掴まれ、顔が上に向けられる。
最初に視界に入ったのが笑う口。そこで目を閉じれば良かった。しかしそんな一瞬で思考通りに体が動くわけがない。

「やっぱ、良い顔っス」
「は、っ......、っ!」

息が詰まる。捕まったと脳が冷静に判断する。それが心に届くわけない。ぞわぞわと微熱みたいに肌を這うのは何だろう。

「油断大敵っスよ、ね?」

その目の奥にあった欲望が、見たくもないのに「見え」てしまった。息が詰まるほどのその目の奥。
ゆるりと近づく顔に抵抗することも出来ずに、俺はその目を至近距離で見ないために目をきつく閉じる。
くすくす笑う声が聞こえた。それがまるで彼女のようで、アヤノと似てて、それでも網膜に焼き付いたあの目がそれに真っ赤なばってんを付ける。
俺は俺が信じられなかった。俺は最低なのかもしれない。いや、最低だろう。勝手に重ねて、似ていない事に心底ホッとして、この状況を甘受している。
どろりと目の奥に見えた俺への肉欲が、俺を救うなんて、冗談でも笑えないだろう。
顎を掴んでいた手は頬に添えられるだけ。今なら顔を背けられる。そう思った瞬間にべろりと唇を舐められた。がちっと歯が強く噛み合わさる。
まるで遊ぶようにまた舐められ、首を振る。目だけは開けずに。
くすくすくすくす。もう堪えられないと言うように溢れる小さな笑い声。その笑い声に肩が震えた。

「構えなくても今日は何もしないっスよ。俺、待ては得意っスから」

いつも通りの声が、笑いを含んだまま告げる。不意に重さは無くなり、向かいのソファがぎしりと鳴くのが分かる。
あーあ、とコップを立てた音に、やっと目を開いた。
ちかちか眩しさで痛い目に腕を翳す。慣れさせるように何度か瞬きを繰り返して、腕を退けた。
そこでセトを見る。布巾をテーブルに乗せてコップを持っている。いつも通り、普段通り。俺の視線に気づいたのか、セトがこっちを見た。
視線が合う。

くす、と、笑まれた。

固まった俺にセトが近づく。
軽く触れただけの唇。だけど、本来なら閉じるはずの目はどちらとも開かれていて。
すぐに離れて何事もなかったかのようにコップを持っていくセト。俺は口に手を当てる。
そういえば、セトは「今日は」と言っていたと、俺はようやく思い出した。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -