35 | ナノ
遥貴

とりっくおあとりーと。
西洋の行事をお遊び程度に取り入れた、そんな下らない呪文。廊下の隅、窓の前。三人ほどの男子生徒。
ぱた、と廊下のひんやりした床を指先に引っ掻けただけの上履きで叩く。窓も雨で叩かれ、水でたらたらと透明に歪んだ線を作っている。
暇潰しの下らない言葉を聞こえないふり。脇を通って教室に入った。ぱたん、狭い世界の出来上がり。熱を食って雨に叩かれ冷えた空気が、雨で濡れたソックスをちりっと刺す。机の足の間に仕舞われた椅子をががっと引き、座った。誰も居ない寂しい狭い雑多な教室。気味の悪い薬液に浸かり死体の崩壊を伸ばす硝子が暗く光るのをぼうっと見る。
濡れて色を濃くしたソックスを脱いで二つを合わせて括った。鞄の中から替えの水を繊維に含んでいないソックスとタオルを机の上に出す。
電気を付けるのを忘れている。それには気付いているけれど、どうもこの薄暗さは落ち着く。濡れたソックスを持たされた袋に入れて口を縛った。空気が多く入ってパンパンに腹を含ませる袋。腹の真ん中をぺふっと押せば、しゅうしゅうと音を立てて空気は外に逃げた。
ぺしゃんこに潰れた袋を鞄に雑に入れて、タオルを伸ばした脚に置いた。立てた足の甲で、ずり落ちたタオルはぴたりと止まる。寒さも分からない位冷えていた脚に乾いた温もり。
鞄のチャックをじーっと閉じて、タオルを取った。片膝を立てて足の裏を椅子の縁に引っ付ける。濡れていると言うほどしっかり濡れている訳じゃないのに、水を吸って柔くなった皮膚は手を当てるとしっとりと冷えを運んだ。
タオルで脚を巻いて押さえる。拭いていると言うより吸わせている感じ。畳んだままのタオルを開いてぎゅっぎゅっと擦った。水を吸っている気配は全くしないが、気休めだ。これ以上冷やさないように替えのソックスに足を通した。ほっとする乾いた暖かさが脚を包む。
もう片足もと膝を立て椅子に乗っけた。途端、がら。ドアが開いて珍しく少し遅かった同級生が入ってきた。ぶっきらぼうにお早うと声を掛ける。
ズボンの裾が濃い色で染まり、セーターにも水が時々ちかりと光る。スケッチブックは袋でくるりと守られ小脇に抱えられている。
いつもならへなへなとだらしなくシャキッとしない、疑うことを知らなさそうな笑顔を浮かべて返される言葉が、今日は随分遅い。はて、と思いながら遥を見れば、ぎくりと体を震わせられた。そんな事を分かりやすくされれば、ついぎっと睨んでしまう。しかし私の力を込めた視線は顔を反らしている遥に届かなかった。

「あ、う......、お早う、貴音......」

時間を掛けて返された言葉は居心地悪そうに響いた。遥はこんなにハッキリしない性格じゃないはずだ。そう脳が繰り返すがそれより何より廊下からするすると蛇の様に入ってくる涼気を越えた冷気は頂けない物で。うん、と軽く頷いて脚を拭き、さっさとソックスに足を突っ込んだ。
不完全だった制服と言う装備は完全となり私を学校と言うダンジョンに馴染ませた。モンスターは勿論、騒音男子高校生と複数で固まり合体する化粧女子高校生だ。
足を下ろしてしっかり履いていなかった上履きを今度は踵まで入れて履く。そこでようやく遥がドアを閉めた体勢から動いていないのに気付いた。

「なにやってんの遥」
「ちょっと、先生来ないように、見張り......とか......?」
「いや益々分かんないんだけど」

ちろ、とこちらを見る遥はやはり居心地悪そうにしている。もごもごと言葉を口の中で慎重に選ぶ様が珍しくて、つい首を傾げた。
しかしそんな私に気にしないでと言って隣に座る遥。気にするなと言う方が、と言おうかと思ったけども、どうにも面倒で出かけた言葉の棒を真ん中でばきりと折った。
くあっと欠伸が喉を通る。通常が睡眠不足の私は、ソックスを履き替えると言う時間に貴重な睡眠を削られた訳だ。眠くないわけがない。
タオルを鞄に入れ、代わりに出した筆箱を机の中に入れて鞄を机の端に引っ掻けた。途端広くなった机にダイブする。体力回復タイム。私は不法侵入した他人の家のベッドに入り体力回復する勇者のように無防備かつ無遠慮に机に突っ伏して眠ると言う体勢を取る。少し寒いが許容範囲内。さあいざ脳の休息、無意識の願望へ足を突っ込もう。

「あ、貴音、そう言えばね」

世界は無情なりって誰の言葉だったっけ。
遥の声が私の草原を掻き分けて横たわる私の手を取って引っ張った。渋々力に引き起こされた不機嫌な私を、遥は嬉しそうに見るから仕方ない。
なに。と机を広くしながら私が言えば、遥は廊下を指差した。こんな人気の無い廊下に静けさを求め、そのくせ雑談で台無しにする男子生徒の声。

「ハロウィンだねー」

来た。へらんとした顔は如何にも楽しそうだね面白そうだねと言って私を見る。暖かい紅茶の水筒を鞄から出しながら、私はどんな顔をしていたんだろう。目の前の遥は徐々にしょんぼりと残念そうな顔に変えていく。

「ハロウィン特別イベントがあるから楽しみは楽しみだけど」
「そ、そういうんじゃなくて」
「外国のお盆に何をはしゃぐことがあるのよ」
「う、うう......」

勝った。金の英字が大文字でWINと叩き出される。わあわあと作られた歓声はどこからともなく私の脳を埋め尽くし、勝利の美酒は惜し気もなくリアルの雨音に混じって降る。
沈黙してしまった遥に口が緩みそうになるのを堪える為に水筒の蓋を開いた。もわんと冷たい空気に溶ける湯気が紅茶の熱さを物語る。これじゃあ流石に熱すぎるなと勝手に置かれている遥や先生の私物をあさった。ちょうど封を切ってもいない真新しい紙コップを見付ける。
かことん、と紙コップを二つ机に置いて紅茶を注ぐ。今だに残念そうに唸る遥の目の前に一個差し出した。

「ほら、紅茶」
「わあ、ありがとう」

大人しく受け取った遥にまあ勝者の余裕だねと頷く。一口飲んで熱かったのか机に置く遥を見て口を開いた。

「見返りはお菓子でよろしく」
「あ、交換制なんだ」
「当たり前でしょ」

私がなんの見返りも期待しない要求しないなんて有り得ないだろう。驚いたようでも非難する言葉も無く遥は苦く笑い、良いよと頷いてくれた。

「ハロウィンのお菓子とか売ってたし、帰り寄り道しよー」
「......雨酷いんですけど、遥さん」
「昼から晴れるって天気予報で言ってたから大丈夫だと思うよ」

外をちらりと見る。濃い灰色を切り取った鉄の額縁は、激しい水の投身自殺もハッキリと描き表す。確かにこれだけ激しいとずっとは続かないだろう。
ゲームのハロウィン特別イベントを楽しみにしている身として時間は惜しいが、まあいっかと呟いた。遥が嬉しそうに笑って何食べよっかと話し出した。

「ケーキ屋でハロウィン用の新作ケーキも合ったんだよねー」
「あんた、ホントそういう情報は女子の私より詳しいよね......」
「貴音は商店街も出ずに家に帰っちゃうから」
「うぐっ......!」

痛いところをナイフで突かれてつい怯む。こいつはたまに意図しているのしていないのかやたらと体力を削る。これ以上この話題は危険だと耳に刺さる警告音。少し冷めた紅茶を飲んであっちこっちに視線を飛び回らせる。そこで目に入ったのはかちんこちんとまあるい硝子の中を規則正しく回る黒い細い短長どっちもの針。数字をかつんと引っ掻くようなそれが指すのはとっくにホームルームも終わる頃。

「先生は?」
「え?あれ、遅いね」

がろろろ、とちょうど開いたドア。ぎょっと遥と二人でその隙間から見える白衣を見た。何て言うか、濡れ鼠。教育者としてどうなんだって性格の男のはずなのに、被害だって、私の可愛らしい仕返しではお釣りが来るほど受けてきたのに、どうしてか目の前の大人の心配をしてしまう効果があった。
首に引っ掻けただけのタオル。濡れたシャツから水を吸っているのか白衣の肩は濡れ、哀れにも髪からははたりと滴の投身自殺。
それと外の雨を比較すれば、自ずと可哀想な答えに辿り着く。これは想像でしかないけれども。

「先生、傘、......飛んだんですか」

素直に反応した肩。背中に背負う黒い空気。ああ出来れば入ってきて欲しくない。遥はホームレスさんでも見ているような顔で先生を見ている。

「最近のビニール傘は、止めとけよ......」
「先生やっと教師らしくなりましたね、身を持って示してくれてありがとうございます。あと出来れば着替えて来てください、私たちに近寄らないで」
「言われなくても着替えて来てやるよ!つめてえ生徒だな!」

わっと泣くフリをして教室の棚にずっと置いてある大きな鞄を引っ付かんで走っていく先生に、遥が暢気に手を振った。取り合えず先生から今日学んだことは、しっかり心に留めておこう。
先生の見送りに飽きたのか、遥はドアをしっかり閉めてスケッチブックを袋から出した。私も紅茶を飲み干し机に突っ伏す。放課後のために、体力でも蓄えておこうと。


欠片を見失っていたんだ、覚えていなかった訳じゃない。文化祭で遺憾なく発揮された遥ブラックホールを忘れるわけがなかった。目の前で胸焼けしそうなほどケーキを詰め込む遥に、私はそっと視線を外した。

あれから着替えた先生が帰ってきたのは一時間目後半で、しっかりまとわりつかせたタバコの灰の臭いの先生に私の魔法の最強呪文理事長が飛び交い、結局無駄話で一時間目は高らかに鳴り響いた学校の声に終了。そこからは何かと言うほど特に何もなく、平和平穏に授業は進み、昼になる頃にはすっかり外は雨で光が反射する素晴らしい天気となっていた。
すべての授業が終わり、私たちはいつもと違い駅に向かっていた。その途中でオレンジと黒に紫と決まった似たような色で飾り立てられた商店街に。放課後を満喫する生徒や奥さまやらでそこそこ賑やかな場に私たちは歩いていた。そして言っていたケーキ屋に入ったのだが。

「遥......、お腹いっぱいにならない?」
「......? ならないよ? 貴音はそれだけで足りるの?」
「足りるわよ......」

ジャックオーランタンがチョコで書かれた白い四角の皿の真ん中を誇らしげにてんっと乗っかる、チョコをとろっとかけたパンプキンチーズケーキとさっくり茶色の表面をバターで光らせるアップルパイ。そして横に添えられた四角に切られた林檎が入っているアイスはサービスだ。これでも結構頼んだ方なのに、遥は更に私の六つは注文。白いエプロンのウェイターのお姉さんが少し顔がひきつっていたのが、少し可愛らしかったのが救いか。
もっくもっくと口で砕かれる大量のケーキ。注文はすでに三回目。ほとんどが、いや一回目以降全てに私は関係していない。

「貴音食べないの?」
「食べるよ食べてるよ。遥が早いだけ」
「そうかな」
「じゃなかったら可笑しいから」

かとんさくっ、と一口フォークの横で切って口に入れる。カボチャが甘くて美味しい。かかったチョコが苦いのがまた更に美味しい。目の前は無視しよう、私は今、この小さな小さな甘くてほろほろする街に酔えば良い。美味しいと暴れたくなる、ぎゅうっと縮こまってしまいたくなる。この衝動は何だろう。それを我慢して、甘さが惜しいけれど飲み込む。ふに、と頬が緩む。私は今、情けない顔をしているんだろうなあ。

「おいしー......っ!」

声に出るのはそれだけで、つい肺辺りに力が入ってしまった。やっぱりケーキは美味しい。滅多に食べられないと言う特別さと微々たるお小遣いではこんな小さな存在にお金を掛けていられないのが最もな理由だろう。そうしてやっと与えられるこの至福。甘さに脳が支配される。舌が、心臓が、全部を持ってケーキを望む。

「貴音、嬉しい?」
「嬉しいよ、そりゃあ」
「そっか、良かった」

口の端に生クリームを付けて本当に嬉しそうに笑う遥に、私はきゅうっと心臓が鳴いた気がした。胃の上が、縮こまる。それを無視してケーキを一口。甘くてとろりと美味しいけど、どこかもやん。
心臓に溜まる、血液に?9
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