26 | ナノ
セトシン

その日はどこが可笑しいと言うわけでもなく、ただ喉が渇いて仕方なかった。いつもなら湿気で鬱陶しいと嫌うはずの雨が降らないかと期待して空を見上げ、雲ひとつ無いその青く高い天井に嫌悪したほど。
ペットボトル五本くらいに水を入れて部屋で飲み続けた。エネが液晶の向こうで青い髪をちかりちかりと光らせるように揺らして呆れていたのが見えた。飲みすぎると死んじゃいますよと注意されるほどには、俺は水を飲み続けていた。
飲んでも飲んでもからからな体に流石に可笑しいかと思い始めたとき、エネが詰まらないと溢し始めた。こく、と一口飲み込んで嫌な予感を水で塞ぐ。
エネはそんな俺に気付いているんだろう、詰まらないと声を大きくし始めた。

「ご主人、アジト、行きましょうよ!」

にやりとチェシャ猫みたいに笑ったエネに、ついに俺に吐き出された言葉。じわ、と汗が滲む。ごく、と飲み込む。
本能的な恐怖がじりっと心臓の下と胃の上らへんを焦がして、体液が片寄って顔が冷たくなった。今の俺は常より青い顔だろうに、薄くなった人の色はそれを気付かせにくくしたらしい。わんわんサイレンが泣いている、肌を焦がして熱をありったけ吐き出す槍が降り注ぐ黒くどろりと溶けそうな地面。それの中を、歩けと。
無理だとエネに言う。いつもみたいに嫌だとは言わず不可能を答えた俺にエネは不思議そうにしたが、そんな事構わないんだろうコイツはいつものように俺を脅し始めた。秘蔵フォルダを送られるか、恥ずかしい歌詞を電線伝って町に流すか。それともそれとも。楽しそうな顔で。
ぎり、と自然と歯を食い縛っていた。さっさと行ってエネを満足させたら良いとは分かっている。それでも俺は外が怖くて仕方なかった。がんがん脳に語り掛けてくる危険を報せる警報。ダメだと体が震えた。
いつもよりも手強いとエネは感じたようで、脅しは追加されていく。どんどんどんどん積み上げられていくそれに、俺ははあと震える息を吐いた。分かったと答えた声は自分でも分かるくらいいつもよりずっと震えていたが、勝ったと喜んでいるエネは俺を見ていない。言葉を聞いただけで声は聞いていないんだろう。
いつものようにエネをスマホに移動させ、着替え、玄関へと向かう。ばんばん肋を叩くほどの心臓に、俺はもう一回息を吐いた。
がちゃんと開けたドア。途端に体を張り付いた熱気にぞわりと鳥肌が立った。意を決して歩き出し、すぐに持ってきたペットボトルを開ける。もうエネは何も言ってこないが、恐らく呆れた顔なんだろう。アジトまでの距離はそこそこ。
ぞわぞわ背筋が震え、涙すら出そうだ。過剰なほど日影に入る。
しばらく歩いて、自分の体の異変に気付く。歩きにくい。体がどんどん渇く。声が思うように出ない。荒い息は尋常じゃなく、冷や汗で気持ち悪い。
吐くなんてもんじゃない、死にそうだと理解する。
エネが異変に気付いたようで俺にどうしたのかと聞き続けてきた。ペットボトルの水はすでに空っぽ。邪魔だったから途中で自販機のゴミ箱に捨ててきた。
耳鳴りがぐわんと鳴り、エネの声が聞こえにくくなってきた。視界は黒と白と普通の景色とでちかちかぐらぐら、出来の悪いフィルムの映画。
ぐうらり揺れるブランコみたいに。砂漠に置いていかれたみたいに。
いつの間にか視界に景色は無くなりあるのは自分の手と暑さを目にもぶつけてくる地面。

「か、は......」

息も上手く出来ない。どろりと内臓が溶けている気がした。肺も胃も腸もなんやらかんやらも。全部全部溶けて俺に息すらさせない。
暑い、熱い、暑い熱い暑い熱い暑いあついあついあついあつい。

水。

怖い。痛い。苦しい。あつい。恐ろしい。水、水。

ぼろっと涙が一個流れた。
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