22 | ナノ
セトシン

手のひらをじっと見詰めていた青白い顔が不意にこちらを見た。死体のようだとは言わないが、病人のような白さだ。二年という年月は人からここまで色を奪うものなのか。
真っ黒な日本人特有の髪と目が一層それを強調させる。目なんて、てろりと光を取り込んでなければぽっかりと穴が開いたように見えるんだろう。

「なあ」

それは誰に呼び掛けた物か。なんの感情もない声がその場に居た全員に吸い込まれ視線を集める。

「腐りかけの物は、どう保存する?」

急になんだ、とキドが聞いた。カノも唐突だね、なんて少し笑ってる。釣られるように笑う彼は、それでも答えを待つように何も言わない。
腐りかけ。魚や果物だろうか。

「冷蔵庫に入れるっス」

そう言えば、彼は冷蔵庫とまるで初めて聞いた言葉のように驚き、繰り返した。その反応にはて、と彼を見た。しかし彼は何も答えず、そうかそうかとだけ納得したように言い、俺を見た。それはそれは楽しそうな顔で。

「ありがとう」

回答に対する礼にしては、随分違和感のある顔だった。

そんな意味も分からない問い掛けから、シンタローはアジトに来なくなった。
どろりと肉体が溶け、バタバタと汗と一緒に地面に落ちていきそうな気温。引きこもりのシンタローがあれだけ来ていたアジトもこの暑さには叶わなかったかと笑い話にするカノ。キドもそれに納得し、如月ちゃんは怒りながらもそれを認めた。
それほど暑い日々が続いた。クーラーが無ければ耐えられないほどに風は無い。実際にエコだ節約だと口煩かったキドも暑さに早々と折れてクーラーを率先して付けるほどだ。
バイトがあるのであまり意味は無いが。花屋のシフトは多いし、掛け持ちも何個かしている。夏バテや熱中症で倒れたバイト仲間の代わりに休みがほとんどない。いらっしゃいませお買い上げありがとうございますまたお越しください。何百回も繰り返す言葉。
が、さすがに未成年をそこまで使えば罪悪感やらの問題もあるようで。ようやくバイト無しの休みを与えられた。
別に構わないとは思ったが、思っていたより疲れていたらしく、一日ご飯時以外の記憶がざっくりと無かった。
やっと起きたのは自分のくしゃみ。寒い温度に慌てて起き上がった。ばたばたと何かを探す団員。マリーは半分泣きながら必死に探している。

「なんっスか、この寒さ......」
「あ、おはよう。もう八時だよ。マリーがちょっと前にリモコン蹴っ飛ばしてどっかやっちゃって。その時に温度設定がねー」
「今十八度だ......」

常が二十八度の部屋。寒く仕方無い。
マリーは泣きながらごめんと謝って探している。マリーもこの寒さはキツいのか、最近は着てなかった上着をしっかり着込んでいる。
がさごそと探す中についにあったと喜ぶ声が聞こえた。キドが早速リモコンを持ち温度を上げる。窓でも開ければ寒さも無くなるだろうが、その代わりに汗だくになるのは勘弁だ。

「なんかもう冷蔵庫並みじゃないこの寒さ」
「うっ、ご、ごめんなさ......」

カノの言葉にもごもごと謝罪するマリーを見ながら、そういえばとシンタローとの言葉を思い出した。結局シンタローは今でも来ていないらしい。
腐りかけとは、やはり何の事だったのだろうか。来たときに聞けば良いと思っていた言葉もこうなっては聞けないし気にもなる。
思い立ったが、とケータイを取り出して、最近の出来事も書いてメールを送る。これでアジトにまた来るようになれば嬉しい事だが。


メールの返事は返ってこず、シンタローもアジトには来ず。残念だとは思いながらも電話をするほどでは無く。少し寂しく感じながらケータイを仕舞った。
折角の休みだと何処かに行こうとしたいが、散歩程度で終わってしまう。目的地と言うものが欲しい気分だ。
適当に電車でも乗ってしまうか。そう思って駅にも行くが簡略化された色とりどりの線路を見て引き返す。さてどうするか。
フェンス越しにごうごうがとごとと動く電車を見る。窓から誰かが手を振ろうが見えないほど早く走る箱がざあっと風を強く残して通り過ぎた。
ぼうっと耳に残る騒がしい電車の足音を聞きながら歩き出す。あの箱の中身はどこへ行くのか。目的地に付いて、箱から出て。遠くの景色に思考を溶かして混ぜる。
目的地。

不意にポケットに入れたケータイが震えた。短い振動はメールを知らせる。ポケットからケータイを出してメールを開いた。

「俺」

声に出して、内容を読む。一言。一文字。飾りっ気も何もない白と黒の画面は、確かに返信を示す「Re:」の文字。
腐りかけって。
俺。
目的地に向かって歩き出す。どうしてかこれが嘘とは思えなかった。


「来ちゃったのか」

俺を迎えた言葉はまるで予想してたけどそれを選択したのは間違いだぞと言っているようだった。ごちゃっとした部屋はぴっちりとカーテンが日光を遮りクーラーが寒いほどの温度で掛けられていた。ゴミ箱や机の上にはペットボトルや菓子類。それのせいか甘い匂いがぶわりと香る。キドが見れば怒りそうな部屋だ。

「メールだろ」
「まあ......」

それだけでも無かったので曖昧に笑えば、シンタローは座れと座っていた椅子から立ち上がって椅子を叩いた。良いのかと思いながら座り、ベッドに座ったシンタローを見る。

「分かってるだろ、大体」
「分かんないっスよ」
「分かってなきゃお前は来ない」

何も言えずに口を閉じる。シンタローは俺をしばらく見ていたが、まあ良いかと呟いた。別に大して関係ないと。にこりと笑う。
徐に伸ばされた手。思わず掴めば、シンタローは予想外だと目を少し見開いた。そして小さく笑って、袖を捲った。
細い腕。

「ほら、驚かない」

シンタローは嬉しそうに言って俺の顔を指差す。どこかで分かっていたのか。それとも。ああそれにしても少し勝ち誇った顔をされるのは困る。頭痛でもしそうな甘い匂いが濃くなった気がした。

細い腕には茶色のアザがじわりと広がっていた。林檎とか果物が腐っているみたいに。触れば皮は裂けてどろりと床に落ちていくんだろう。暑い日に過る空想みたいに。


「元々そういう体質だったんだよ。母さんやモモは知らないけどな。腐りやすいって言う体質」

冷蔵庫みたいな冷たい部屋で俺たちは向かい合って途方もなく信じられない話をする。生きている人間が腐る。なんて。
それでもつらつら語るシンタローに口出しも出来ないし嘘だと言うことも出来ない。思い出される腐った腕。

「何度か腐った事はある。土に溶けて五時間ほどでまた戻る。つか生える。たぶん俺の中には種があってそれからまた俺が生えるんだ」

それじゃ本当に果物のようだ。
どろりと溶けてまた生えるシンタローを想像して顔を覆いたくなる。自分の思考が少し怖くなった。
そんな俺に気づかず話続けるシンタロー。

「最近は保存料とかで長く持ったんだけどな。やっぱ無理みたいで。そろそろこの体も腐ってんだよ。クーラーで冷蔵庫作ってみたんだけどなあ」
「あー、採用されてたんスね......」
「面白かったし」

それでこの寒さ。まあ長袖を着ている時点でもうアウトだと思うが、黙っておこう。
ゆらゆらと猫の尻尾のようにゆっくり足を動かす。黒髪も合わさって黒猫のようだ。自分に不幸を与える黒猫とは、また変な猫だ。

「で、セトに一個頼みが」
「ああ、なるほど、だから。あーもー......」
「察しが良くて何よりです」

だから来ちゃったのかと言ったんだろう。きっとこれで合ってる。嫌な役だ。後悔するように顔を覆って椅子に仰け反る。ぎし、と背凭れが軋んで、指の間から薄暗い天井が見えた。
目の前でにやにや笑うシンタローが声に笑いを含ませながら言う。わざと敬語を使うところも憎々しい。

「今から腐れば晩御飯には間に合うから。まあ頑張れ」
「うわムカつく他人事だと思って性根まで腐ってるんスか」
「生まれ変わった俺に期待しろ」
「なんでこんなのに......」

惚れたんだろう、って言葉は飲み込んだ。シンタローがなんだって顔で見ているけど見ないふりして立ち上がる。
俺の仕事は、掘り起こし作業と監視。まさかの人間を。五時間炎天下の中で。
なんで惚れたんだろう。


木陰とは言え暑さはある。ちらちら隙間から射す日がたまに顔に当たって眩しい。

「裸で出てくるなんて事は無いっスよね」
「そこら辺は服も一緒に。なんでかわかんねーけど」
「てか一人で出てこれないんスか......」
「生えるって言っても地中だからな。それで体力使うのか何なのか、しばらく体が使いもんにならねーの」

汗もかかずに涼しげに立っているシンタローがからからと笑いながら言う。ムカつくと思いながらもじわりと首に出てきた腐っている色に何も言わない。
その内全部染まってどろりと溶けるのかと分かって目を閉じたくなる。

「漫画である人が死ぬ綺麗な場面って夢だよな。俺のこれは綺麗なんてとても言えないのに。でも腐乱死体よりマシだろうな。緑のジェルみたいなのと蛆虫と気持ち悪くて吐きそうな臭いとコーヒーみたいな液体が無いんだ。マシだな」
「見たことあるんスか」
「ネットが喋ってくれたんだよ」

便利だなーと言いながら顔の右半分が腐っていくシンタロー。確かに綺麗とは言えない。どろりと今にも溶けてしまいそうな腐った色。もうそろそろ。
綺麗とは言えない。
シンタローはこんな死んでいると言っても良いような事を何度も経験しているのか。そう思うと、なぜかぞわっと首筋が粟立った。
シンタローが不思議そうに俺を見る。

「たのしそう」
「自己嫌悪に陥るから言わないで欲しいっス」
「なんだ、そりゃ」

舌が回らないのか、シンタローはゆっくり喋る。
綺麗じゃあない。
けど。

「これ、俺好きっスよ」

やっぱりこの役は嫌だけど。綺麗じゃあないけど。
シンタローが聞こえていないかのように目を閉じる。たぶん聞こえていない。結構告白紛いの言葉なんだけどなあと思いながら、目を閉じた。
ずるりと何か落ちた音。溶けて、無くなる音。これで悲鳴か呻き声でもあれば、きっと。

「跡形も無し......」

ぱちりと開いた視界にシンタローは居らず、俺はケータイを開けて時間を確認した。晩御飯三十分前ぐらいに終われるか。アジトからも近いから、シンタローも連れていこう。どうせそのつもりでこの場所だ。
ケータイを仕舞ってシンタローが居た場所を見る。何も残っていない。
悲鳴か呻き声でもあれば、きっと。きっと、シンタローの腐乱臭に眩まないのに。
腐っていく範囲が広がるほどに、眩むような甘い匂いを濃く撒き散らす。どろりと脳が溶けそうな、ぐらりと理性が傾きそうな。
全部飲み込んでしまいたくなるような。

「俺の思考イカれてる......」

それに興奮するんだから手に負えない。
わんわん泣きわめいて少ない余命を叫ぶ蝉の声に責められている。腐りそうな暑さにも責められている。
自己嫌悪。
自己嫌悪。
自分の好みも腐ってる。
どろりと溶けて生えるシンタローを想像して、それでも好きとか。性根まで腐ってるシンタローも好きとか。

いつかシンタローを飲み込んで飲み干して、死にたい、とか。

自己嫌悪。
最悪だ。


青の上に黄色や赤が塗られ、それを押しやるようにじわり広がった黒。見える小さな白は穴のようで、そこから誰かに覗かれている気がして昔は怖かった。
そんな天井に向かって息を吐く。大分マシだが暑い。すぐにアジトに帰ってシャワーに入りたい。
土だらけの服をぱしぱし叩く。隣でさっきまでパートナーだったスコップは横たわり、それにすら嫉妬しそうだ。
掘り起こされたシンタローは腐った色も無く、ただ名残のように甘い匂いだけじわりと薄く残っている。
ぐったりとしながらも目は開いているシンタローは俺を見て手を伸ばした。また思わず手を掴む。くすくす笑う声に居心地が悪い。

「よろしく」
「他人事だと」
「ごほうびやるから」
「俺は犬っスか」

自分で言って悔しいがそうにしか思えない。チョイスを間違った。健気に待てまでして穴も掘ってお手でもするかのように手を取り。笑えない。
深いため息を吐きながら起き上がってシンタローを引っ張る。どうにか起き上がろうとしたシンタローはふらりと立ち上がってぐらりと傾いた。それをまた引っ張って俺の方に倒した。寄り掛かって服を掴むシンタローを見る。

「なあ」
「なんスか。おんぶかお姫様抱っこ」
「おんぶに決まってんだろ馬鹿か」

無視してお姫様抱っこしてやろうか。
はいはいと適当に返事をしてシンタローに背中を向ける。がく、と倒れるように抱き付いてきて心臓に悪い。
掘った穴は悪いがそのままにしておく。暇が有れば埋めに来る。今日は疲れてくたくただ。

「なんで俺がお前にこんな事頼んだと思う」
「ちょうど良かったから」
「それだけであんな腐る瞬間人に見せれると思ってんのか」

後ろから甘い匂いがする。ぐらりと揺れる理性が怖い。シンタローの呆れた声に、もっと揺れる。首に回された腕。
少し歩けばアジトが見えてくる。

「分かんないか?」
「分かんないっス」

シンタローが下ろせと服を引っ張った。大丈夫かと思いながらも下ろす。やはりぐらぐらと揺れて不安定だ。強い風でも吹けば、あっさり転んでしまうんだろう。

「お前なら大丈夫って確信があったんだよ」
「そうっスか。シンタローすぐそこっスから、ほら」
「なあセト、今日はキドとマリーはモモの部屋に泊まりだってな」
「ああ、知ってるんスね。カノがやったって言って殴られたっスよ」

兄妹だから知っていても可笑しくない。それにしてもぐらぐら揺れるシンタローはやはり歩かない。中に入ってゆっくりすれば良いのに。

「カノか。そうだな。カノ」
「シンタローどうかしたんスか?」
「カノもいないって知ってるか?」

知らない。
くすくす笑う声に、何も言えなくなった。何かを言おうとした声が、意味もなく地面に落ちて消えてしまう。

「任務でいないんだよ。急ぎで入ったらしくてな。なあ今日なんでエネがいないと思う。俺メール送ったよな。あ、言ってなかったかもな、エネってメールで他の所に行けるんだよ。ちょっとエネにも頼んだんだ。なあセト、なんでその連絡がカノから無いんだと思う」

ぐらりと何かが揺れた。
シンタローが歩こうとしてふらりと倒れかける。それを抱き止めて、俺はシンタローを抱き締めた。細い。くすくすと声が耳元で聞こえる。
甘い、匂い。

「確かに出るのは大変だけど出れない訳じゃないんだよ。今の俺ならアジトに泊まったで言い訳できる。なんで今日まで伸ばしたと思う?」

頬を撫でる手を掴む。折れてしまっても良いからと、強く掴む。息が詰まって、今ちゃんと呼吸をしているのか分からない。

「なあセト、ご褒美ってなんだと思う」

合わさった唇が、どろどろと脳から思考まで溶かしていく。腐乱臭がする。理性が腐っていく。
今すぐに飲み込んで飲み干して死んでしまいたい。
触れるだけで終わったキスにくらくら目眩がする。目を閉じて目眩を止めたいのに、それすら惜しくて。

「腐りかけが一番甘いって、よく言うだろ?」

さっき腐って新しくなったのに。よくもまあ。
だけど甘い匂いは確かで、止める気になんてなれる訳もなかった。
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