セトシン
半透明の緑の肉。その中を通る赤黒い血管。神経。どくどくと動く心臓。グロテスクな臓器。
鯨と呼ばれる形のそれは、俺の知っている鯨とかけ離れている。
巨大な鯨は俺を見る。じっと。そんなグロい物に見られているのに、俺は何も感じない。ただ、光に透ける緑の肉を見る。
そろ、と恐る恐る伸ばした手が鯨に触った途端、いきなり肉がほろと崩れ始めた。鱗でも剥がれるみたいに、ほろほろ崩れて浮かんでいく緑の肉。
尻尾から、どんどんどんどん、ほろほろほろほろと。勿体無いと、崩れた肉の欠片を掴む。
しかしそれは俺の指を避けるように手の中で崩れ、浮かんでいった。海底から沸き上がるように透明な肉を纏った骨だけの魚がぶわりと海面を目指す。
食べるのか。
自然と理解した。そうだ、あれらは肉を食うんだ。残らず平らげて、そして。
緑の肉の魚が、頬を掠めてぷかりと沈んだ。
ぼろ、と汗が背中を落ちた。ぱちりと目が開く。暑い。
クーラーはいつの間にか止まり、俺に不快な目覚めを与える。汗を吸って重くなったように感じるシャツを引っ張った。
はあ、と浅くため息をついて腕を伸ばせる範囲でリモコンを探す。かちっ、と爪がリモコンの体に当たった。
ぴ、とクーラーが叩き起こされた音がする。途端にふわ、と冷たい風が吹き込まれた。
「あち......」
じんわりと染み込むような体温。首に掛かる寝息がくすぐったい。
まるで囲うように俺の体に巻き付く腕。絡む脚。息苦しくないのに、絶対に外れない。
熱い。
俺を抱き込んで眠るセト。
実に熱い暑苦しいムサイ。
「美少女なら歓迎だったな......」
ラノベのような爆乳は要らないけどな。清潔感のある可愛い子が良いな。おしとやかな。間違ってもエネみたいな性格じゃない子。
うんうんと自分自身の想像に大きく頷きながら、想像とは全く別の、性別オス・体育会系口調・俺よりゴツいな要らない三拍子を見事きっちり揃えたセトを見る。
いつものフードは脱げ、幸せそうに睡眠を貪る顔。
「緑」
緑。
緑のツナギ。
緑の鯨。
透けていない頬をそろ、と触る。夢のように崩れることはなく、やっぱり寝顔はそのまま。そりゃ、そうだ。
どこかがっかりした気分をもやりと溜めながら、その口に自分の口を合わせた。
離れてみて、また顔を眺める。徐々に開いた蓋から、深い黒い目が覗く。
「おはよう」
早くないけど。
俺の言葉に眠そうに目を何度も瞬かせ、犬猫みたいにぎゅうと擦り寄ってきた。眠気を払うみたいに唸る声が聞こえる。
温かい体温が俺をぎゅうぎゅう包む。
「止めろ、眠くなる」
「寝たらいいっすよー......」
「おい、離せって」
更に抱き込まれて、涼しくなった部屋と体には効果抜群だ。ちょっと眠くなってきた。けど、これ以上寝たら頭が痛くなる。
とん、と肩を叩くが離れない。
「また食べるぞ」
きょとんとした顔が俺を見る。
俺をやっぱり離さないまま、うん?と考え込むセトに、少し可笑しくなった。少しだけ、ちょっとだけ笑うと、むすっとした目が俺を見る。
「夢でな」
答えを言ってやれば、なんだそりゃといった顔をする。不満そうに俺を強く抱き締めてきた。おい、苦しいと文句を言えば少しだけ緩む。それでも離してはくれない。
「お前に似たのを俺みたいなのが食べてた」
「似た?」
「魚だった」
俺のせいで崩れた緑。きっと俺が触らなければ。
せめて鳥が良かったと文句を言うセトに焼き鳥かと返しておく。しばらく黙った末にセトは俺の口に手を置いた。塞ぐように。
「美味しかったっスか?」
「俺は食ってない」
「残念っスね」
はい終わり終わりと言うように俺を抱き締めたままでまた寝ようと目を閉じるセトに、ついキスをしてみる。さっきみたいな触るだけの。
「お前を食ったら、俺は死んだよ」
ぷかりと沈んだあの魚。
きっと全部沈んで、海底で緑色の死骸を溜めるのだ。誰にも見付からず、骨まで緑が染みて、どろどろになるんだろう。
あれは俺だ。
「じゃあ食べるっスか?」
言葉と共に中に入ってきた指を出来るだけ強く噛む。硬い。アルバイトなどで硬くなった皮は俺の歯を通さず、血もでない。
あぐあぐとしばらく噛んでみる。
「こそばい」
「お前硬い」
「だからもっとこう」
後頭部を掴まれ、喉が反る。
セトのやることが分かって、少しイラッとした。嘘、大分。
歯と息が、首に当たる。
「い、あ......っ」
歯が皮膚を突き破って、じわっと血を滲ませる。カッとそこだけ熱くなった。こう簡単にされると結構ショックだ。
ざらっと、舌が血を舐める。
「いたい」
「手本」
「うるさいばか」
血を舐めて、やわく噛んで、抉って、また噛んで。いたい。ばか。
しばらくして満足したのか、セトは俺の首から離れた。にこりと笑いながら。くそ腹立つ。
「食べられる前に食べてあげるっスよ」
「性的に?」
「性的に」
腰を撫でる手を叩いておく。こんなの食えないな。食ったら食中りで死ぬ。呆れでため息を付きながら、俺を抱き締めてさあ寝ようと誘うセトを見る。
「一時間だけな......」
「良い夢見せてあげるっスよ」
「なんで一々......、いや、もう良い......」
にししと笑うセトに、遠回しに夢の仕返しをされた気がする。
もう良いかと、温かい体温に擦り寄った。