158 | ナノ
シンタロー

目の前に水槽があった。円柱状のそれはカーペットを敷かれた床からかっぽりと生え、照明のない天井を突き破っている。中には水が満ちていて、時々こぽこぽと泡を上へ上へと昇らせる。周りは暗く、その水槽から漏れている水色の崩れた光が明かりになっている。暗すぎて、どこになにがあるのか、どこに人がいるのか分からない。ただ人の気配は濃厚に背中や腕に感じて、居心地悪く体を揺らした。
 水槽にはなにもいない。水だけの空っぽの水槽は光をこぼすだけ。何が通るのだろうと期待することもせず、ただそこが明るいからそこに立っている。安心はない、あるのはさざめく人の気配への不安だけ。まるで見えない闇が人間のふりをしているようにすら感じる。
 どこにもいけないのだろうという漠然とした確信。迷子ではない、待っていろと言われたわけでもない。ただ暗闇へ体を浸すことは出来ない。
 不意にごぽりと水槽の中が顔くらいの大きさの空気の玉で揺らいだ。それがぐにょぐにょと登っていく。それに目を奪われて天井に吸い込まれて消えるまで見ていれば、目の前にいつの間にかなにか白いものがふよふよと浮かんでいた。虚を突かれてぎょっとするが、どうにか声も上げず冷静にその物体を観察した。
 白く丸い体。その横には四角いヒレがつき、尾びれがある。魚というには大きな体に、割かし首の境界がはっきりしていた。横に穴が開いたみたいな小さな黒い目と、緩やかなWの形になっている口。口の上にはシワがあり、無理矢理唇を作っているように感じてしまう。
 テレビで観たことのある、シロイルカ。存外大きいものだなとその巨体を見上げる。
 愛嬌のある顔だが、どこか不気味だ。白い生物というものは時折特別視されたりするものだが、それはどこか弱く見えるからではないかと思う。同じ枠で他とは違うということは、特別秀でているか特別弱いということではないだろうか。
 だが、目の前の生物にそんな思いは欠片も抱けない。作られた愛嬌にぞっとする。
 首を傾げるそれに思わず後退れば、それはそのまま口の端を微かに吊り上げたように思えた。天使だとか言われているクリオネが、共食いをしているような。うっかり猫がタイヤに巻き込まれて悲痛な声を上げることもなく途切れたような。
 ぶわりと浮いた冷や汗を拭うことも出来ず、ただもう一歩後退った。今すぐにでも分厚いガラスを破って水のない場所へ、こちらへ来てしまうのではという不安。暗闇より途方もなく恐ろしく、まるで自分は光に誘われて日に焼かれた蛾のような滑稽な存在になった気分へ落ちる。
 それは様子を見るように、じっとこちらを観察していた。それだけで首が絞まり、息が難しくなっていく。めちゃくちゃなリズムを作る心臓、強張って錆びついたように動かない体。脳だけが恐ろしいという感情を高速で刻んでいく。
 なにかが切れる、と不意に感じた瞬間、それは視線を外した。たったそれだけで強張っていた体が弛緩する。ふっはっと、乱れていた息が大きく正常を開始した。
 それは下を向いていた。いや、向いているというよりただそれが楽だから下を見ているという感じだった。
 こぽり、となにかが泡を立てる。なんだと水槽を上から下まで見るが、こぽこぽと連続で鳴っている水中の揺れを見つけられない。
 こぽこぽ。ごぽ、どぽ。ごぼ、。
 それが大きくなる。どんどんどんどん。
 白い巨体が膨らんでいた。音とともにどんどんどんどん、膨らんで、隆起して、湧き上がって、まるで沸騰しているような。
 引きつった喉から声は出なかった。ただ目の前の現象に立ちすくんで目を見張っているしかない。
 いよいよそれは元の形が分からないほど円柱状の水槽いっぱいに醜く膨らみ、大きくなった穴のような、いや、実際穴の目でこちらをぎょとりと見た。笑うように口が開き、どんどんそれが裂けて大きくなる。
 そして、ぼごんっと最後に大きすぎるほど大きな音を立てて弾けた。
 びくっと反射的に顔をかばった腕。水槽が壊れたのでは、と思うほどの破裂音だったにも関わらず、その水槽は平気でそこにあった。けれど最初と違うことは、白い体液のようなものがべったりと水槽に貼り付いていることだ。そのべったりと貼り付いている隙間から見える水は死体で白く濁り、どろどろと広がっている。
 光が濁り、先程よりも周りは暗くなった。照明はない、この水槽を掃除する者もいない。まるで光が減ったことに気付かない人の気配は今だにそこかしこで生きづいている。
 誰もそんな異常には、気付かない。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -