149 | ナノ
シンアヤ

 銀の輪の真ん中に赤いライン。手にとって透かすと、そのラインが透明な赤いガラスだと分かった。シンプルな作りにいいなあと、アヤノは輪を覗き込む。
 そわ、と小さくくすぐられた気持ちに指輪に緩く巻きついた糸の先を見た。しかし結構今のお財布では厳しい数字。買えないこともないが、躊躇う数字。
 いやいや貯金があるけどねと、とりあえず所持金と比べて見ることにする。だがアヤノがカバンの中をいくら叩こうとごったり混ぜこもうと、覚えのある感触がない。
「あちゃあ……」
 失態への落胆は口に出た。
 完璧に忘れている。本物ではないが少しくったりしている赤い革の財布。厳しいどころではない、買える余裕がないどころではない。そもそも買えない無一文状態。
 未練がましく手の中の指輪を見るが、しかしあまりオシャレに力を入れる方でもない。それにシンプルで少し大人っぽいそれは、いざ買ったとしてもつけていく当てもないのだ。そもそも似合うかと言われると、正直微妙。
 そう考えると、勢い込んでいた購買欲が消えていく。母は自分より似合いそうだと考えて、更に。
 しゅん、と落ち込んでしまった気持ち。それでも一度欲しいと思ったせいか、アヤノはなかなかその場を離れられない。ちょっと横のアクセサリーを見ても、視線はすぐにそちらへ戻るのだ。
 ううう、と物欲しげに眺めてしまう。しつこく手にとり、転がし。
 一回だけっ、と指に通す。右でカバンを持っていたので左手に。少し大きいかと思っていたが、意外とそれはアヤノの指にぴったり入った。
 指に光る、赤ガラスが一等魅力的だ。
「だめ、だ」
 これで入らないとかぶかぶかであれば諦められた、結構ぴったりなのが一番困る。そもそもこれを発見した自分自身が困りものだが。
 アヤノは敗北宣言を情けなく溢し、明日までこれを取っておけないか店員に聞く決意を固めてしまう。もはや買う意思しかない。
「よっし、そうと決まればっ」
 そうと決まれば、店員を。指輪を外しながら店内に目を走らせ、そしてアヤノは固まった。決意ではなく、アヤノ自身が物理的に。
 慌てて視線を戻し、ぐっと指輪を引っ張る。引っ張り、抜けないことを確認する。入れすぎたらしい。
 一気に血が冷え、さあっと下に落ちた。アヤノは店員を呼ぼうかと思うが気が引けて声をかけられない上に、全然見当たらない。在庫でも取りに行っているのか。
 うそぉ、と情けない声を塞ぐように、赤いマフラーを口元まで引き上げた。というか、正直このままでは泥棒にならないか。それは困る、それを弟や妹に知られるのが果てしなく困る。
 どんどん真っ白になっていく顔に、アヤノは気付かない。どうしようと焦る気持ちで正常な思考がだめになっている。店員に言えば洗面台や石鹸を貸してくれたり、連絡先を教えれば明日持ってきてくれればいいと言ってもらえるだろう。
 だがそんな経験がないことと混乱しているせいでそこまで思い至らない。もはや絶望感に涙すら滲んできたアヤノだったが、前の台が翳ったことではたと打開策を思い出す。
「なにやってんだ、お前」
「……し、シンタロー!」
「うわっ、なんで泣いてっ」
 固まっていたアヤノを不審に思ったのだろう。シンタローはどうしたなんだとアヤノの勢いに後ずさる。いつもならそれで少しは自重するところだが、今日のアヤノはそこまで気が回らなかった。
 シンタローがいることへの安心感、打開の手立て。マイヒーローよといっそ抱きつきたいほどで。
「お願いこれ買ってっ」
「は」
「一生のお願いっ、明日、明日返すから!ねえ、お願い……っ」
 ぱんっと顔の前で手を叩く。いつもはもっと落ち着いて対するが、こればかりはアヤノは必死で頼み込んだ。
 急なお願いにシンタローは状況がいまいち掴めないままほかっと口を開けている。
「試しにつけたら、ぬ、抜けなくなっちゃって」
「……バカ?」
「うええ、重々承知してるよおっ」
 シンタローにかかれば大概の人間はバカではなかろうか、とは考えない。とりわけバカでなければシンタローはそんなことは言わない。
 悲しい事に、アヤノは言われ慣れてしまうほど言われているが。
 アヤノの手をとり値段を見たシンタローは、ぴくりと片眉を上げた。その反応にアヤノはぎくりとする。
 じっとしばらく見ていたシンタローはちろりと目だけでアヤノに刺々しい視線を寄越した。ため息を吐き、ぺっと値札を投げる。
「ほんっとーに、バカだな」
「あう、おっしゃる通り」
「モモ並みにバカ」
「それは親近感わいて……こないです」
 わいてくるねと言い切って場合、恐らくはチョップが頭頂部に振り下ろされる。できれば避けたい暴力反対。
 ちろ、とアヤノはシンタローを伺った。気難しい顔でアヤノの左手を見ている。手には、安くない指輪。
 この反応を見るに、シンタローも手持ちで買えないでもないのだろう。けれど迷う値段、そういうわけだ。
 明日返すとはいえ、本当に返せるかというと頑張ればといったところ。貯金はあれど、あまり派手に崩すわけにもいかない。
 これじゃ買ってくれないだろうと、アヤノは手を下ろす。頑張って抜くか、店員に頼み込むか、それしかない。
 シンタローの登場に落ち着きを取り戻したお陰で段々解決策はいくつもあると気付く。一時的に買ってもらえるならそれはそれで一番いい。明日まであるという保証はないわけで。
 けれど、迷惑をかけてはいけない
「えっと、ごめんね急に」
「本当にな」
「あはは」
 呆れた声に頭を掻く。ああやはり。
 シンタローはケータイを見て六時かと呟いた。
「はめたまま買えんのか、これ」
「え?えっと、たぶん。値札切ればいいから……」
「レジどこ」
「あ、あっち」
 すたすたと台と台の間を通ってレジに向かう背中を、アヤノはぼけっと見つめる。予想外の反応に、頭が追いつかない。レジに辿り着いて遠目でもぶっきらぼうに店員に話しかけたシンタローは、こっちを見て目を釣り上げた。
 肩を怒らせ、こっちに大股で帰ってくる。
「お前が買えって言ったのになに突っ立って……っ」
「……え、買ってくれるのっ?」
「買わなくていいらしいから帰るっ」
「わーっ、嘘うそっ買ってください!シンタローお願い!」
 さっさと出口に向かいそうなシンタローの腕を掴んで突っ張る。しばらくの攻防の末、振り返ったシンタローはアヤノの頬を思う存分引っ張った。みょわーと引っ張られた頬、もひゃもは言葉が不明瞭。
「うひぇひぇ」
「なーに笑ってんだ、アヤノさんよぉ」
「ひひゃひっ、ほめんっへ、しんひゃよーっ」
「聞こえねえぞ、おら」
 ごめんなさいーっと何度も謝らされては聞こえないとはぐらかされ、やっと離されたのはシンタローの気が済んだ後。ひりひりと痛む頬を揉み、アヤノは涙目で今度はちゃんとシンタローの後ろについてレジに向かった。
 やり取りを見ていたらしい店員さんがなにも聞かずに値札を切り、会計を済ませる。支払ってくれているシンタローの顔を覗き込み、ごめんねとアヤノは謝った。
「明日返すね」
「いい、面倒」
「それは悪いよー」
「いいって言ってんだろ。しつこいな」
「だって」
 切られた値札の数字を覚えている。アヤノはしつこいほどその前に留まって見間違えじゃないか確認したのだ。そのしつこさは多少なりとも勉学に向いてもらいたいものだが、今はそうじゃなく。
 鬱陶しそうに顔をしかめるシンタローに、しょんぼりと肩を落とした。誕生日でもなければなにかある日でもない、そこまでしてもらうわけにはいかない。
 レシートを断ってシンタローは店を出た。急いでついていくが、いつもより早い歩調に軽く走る。家に帰るまでにバテないだろうかと本人に知れれば怒られることを考えながら、その裾を握った。
「これ以上しつこいとお前ごと返品しに行く」
「ご、ごめんなさい」
 なにがなんでも実行するからなと睨んでくるシンタローは、萎縮しきったアヤノにやっと歩調を緩めた。なんだかんだ言いながらアヤノの歩幅に合わせて歩き、馬鹿にしながら見捨てず、脅しながら絶対実行しない。
「シンタロー」
「なに」
「ありがとう、嬉しい」
 手を握ってアヤノは笑う。指輪のせいで違和感があるが、赤い夕日で光る赤色にじわっと心が満ちた。
「あっそ」
 ぶっきらぼうだなあと思いながら、いつも通り手を振り払われた。それがいつもより弱かったなぁとか、やけにこっち見ないなあとか、疑問は浮かぶけど思考を占領することはない。
 まだ抜けない指輪がひたすら嬉しかった。


 あら、と母の声で我に返る。ぼんやりと今日の帰路を思い出していたアヤノは、自身の箸が止まっていることに気付いた。慌ててまた箸を動かし、食器の上を片付けていく。
 ちょうど対面の席でアヤカが食べ終わった食器を重ねながらにやにやとこちらを見て、やけに楽しげにしている。
「アヤノもやるわねえ」
「なにを?」
「それ」
 左手を指されて納得する。
「あ、これね。シンタローに買ってもらって」
「あら、彼氏はシンタローくんって言うのね」
「違うよ!?」
 ごと、とアヤノは茶碗をテーブルに落としたが、幸い白米をぶち撒けることにはならなかった。早々に食事を片付けてテレビに夢中になっている三人がぎょっとこちらを向いたが、アヤカはなんでもないのよと手を振って答える。
 アヤノはなんでもなくないが。
「指輪買ってもらっといて、彼氏じゃないの?」
「違いますっ。そもそもそういうんじゃ、ない……」
 ことも、ない。
 アヤカは疑り深そうにアヤノを見ては指輪を見る。その探りを入れてくる目は、そういう気分にさせてくるから嫌だ。かあっと断言しておきながら顔が赤くなり、晩御飯を大口で食べてしまう。
 早くここから脱出しなければ、取り返しのつかないことに。
「それにこれは買ってもらったって言っても、指輪をはめてみたら抜けなくなって、そしたら財布もなくて……」
「間抜けね、お姉ちゃん」
「うっぐ……!だ、だから別に、彼氏とかそういうんじゃないのっ」
 まくし立てるように理由を話し、空っぽになった食器を積み重ねた。ぱちんっと手を合わせ、ごちそうさまっと口早に告げる。やっとこの変な空気から脱出できるとアヤノはすっと立ち上がり。
「でもそれ、貴方達のお小遣いじゃちょっと高いんじゃない?」
「まあ……」
「それに、お金を貸してくれたって意味でもないみたいだし」
 んきゅっとアヤノの口内で空気が変な音を立てた。
 アヤノなら失敗談とともにそこも話す。だが敢えて黙っていたことをついてくるとは、この母親そうとう性格が悪い。
「そういえば、シンタローくんって言えばアヤノの話によく出てくるすごく賢い子よね」
 もはや声も出ない、音も立たない。ぴしっと固まったアヤノに、アヤカは追い打ちに手を抜かなかった。
「本当はすごく優しくていい子で、ほっとけない子なんだっけ。いつかもっと笑ってくれたらいいなとか、なんとか?あら、この話を思い出すと私には貴女がその子にずいぶん好意があるように思えるわねぇ」
「そ、それっ、ずっと気付いてたでしょ!」
「まあね〜」
 ついに進展かしらねと綺麗に笑う母に、アヤノはついその場に座り込む。今左手を見ると死んでしまう気がして、テーブルの淵を掴んでもらった。
「アヤノったら分かりやすいのよ。あの子たちに話さない辺りとか特に」
「だって、だってえぇ」
「あら、情けなーい声」
 可愛いわねーとアヤカはアヤノを置いて席を立った。遅くなっているケンジロウの分を温め始める。
「少しは自身を持ちなさい。貸すならともかく、なんとも思ってない子に指輪を買ってあげるなんてないわよ」
 アヤノはやっと立ち上がって食器をアヤカに渡した。もうなにかを考える余裕が脳にない。
「それとも、シンタローくんはそういう子?」
「……ちが、う」
「よしっ、じゃあそんな顔しないの」
 むい、と両頬を濡れた手で挟まれ、アヤノはアヤカと無理矢理顔を合わせることになる。
「真っ赤になるなら、シンタローくんの前でなさい」
 ね、とアヤカに首を傾げられ、頷くこともできない。そもそもシンタローの前に出れるかどうかすら、今のアヤノにはかなり怪しいのだ。左手に軽い重さ。
 休んじゃだめかな、など一つ上の先輩のようなことを思いながら、アヤノは途方に暮れた。
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