148 | ナノ
カノマリ

 かち、と何も刺していないフォークを噛む。きちりと金属と歯が擦れ、舌が冷たい温度で痺れた。
 小さな丸テーブルは微かに青みがかった白のテーブルクロスがかけられ、表面をくねる木目を隠している。そこに腰掛け、ふらりと足を揺らす。隣に置かれたナイフが頭上の欠けた月を写し、かちりと煌めいた。
 目の前の椅子には、誰もいない。
 そっとフォークを置き、テーブルに崩れる。足を外に投げ出して、それでも頭は外に出た。テーブルクロスで出来た滝の始まりにうなじが当たり、首がくっと反る。息苦しく、頭に赤いスープが偏った。それほど小さなテーブルだが、傾いて倒れる気配はない。
 テーブルクロスの滝に、髪が混じった。前髪も何もかもが重力に落ちて、滝となる。
 手を上に掲げれば、伸びた爪先が月を透かして白と銀に変わった。天然のネイルアート、空の月に爪を立てる。届きそうなほど近く感じるのに、引っ掛いてもなんの傷跡も出来ない。
 反った首筋が痛くなり、スープが頭蓋骨の皿に溜まる。起き上がればどろりとなにかが落ちて、くらくらと視界が回った。前髪が乱れてはさりと戻り、目を覆う。
 素足は茂る草むらに降りない。いくら走るように歩くように足を交互に揺らそうと、その足は泥に汚れ傷だらけになることはない。
 溢れるほどの命のスープ、星となるポンプ。
 ふと緩む口、左手のナイフにそれを隠すようにキスをする。愚かであれと、何処かの心臓に願う。
 上った血色で、頬に紅をさした。

 それを見たのは偶然だった。面白おかしく目で追っていたけれど、その時のそれだけは、断じてそうでは無かったのだ。喉にしこりが出来てしまうような、そんな気分で見付けてしまう。ほとほと運がないと呆れ返るほど、自然と吸い寄せられていた。
 失恋の瞬間を、詰まるところ目撃してしまったのだ。

 月を見ると死にたくなる。そう言ったのは誰だったかと思い返す。
 絵本をめくれば、はらはらと終わっていく物語。時折ぱりぱりとページ同士が引っ付いて、離れ難そうに物語を封じ込めようとする。そんな柔い抵抗も、少し引っ張れば消えるけれど。
 買ってもらった絵本。まだ新しく、撫でると指に張り付く。インクの匂いがふわりと鼻をくすぐり、そのページに頬を寄せた。
 枕にするように絵本を下敷きにし、匂いを嗅ぐ。すると少し寄せてくる睡魔の波。まだ遠く、気配だけが聞こえる。けれどこれはあっという間に満潮になって足場を攫ってしまうものだ。
 攫われて夢に落ちる。分かってはいるけれど、起き上がり難い。この遠くを聞き浸るのを待つ瞬間が一番心地よいと思える。
 絵本の鼓動を探すみたいに耳を当て、ぺたりと横になった。しゃらしゃらと降り注ぎ、空気も土も潤していく雲。庇に当たってことんとこんと、おもちゃの太鼓のような音色が疎らに聞こえる。
「お腹空いたなあ」
 嘘、だけれど、呟いてみる。食事を必要としないのに、贅沢に。それでも食べたいものはある。
 身も心もほかほかと赤く色づくような暖かく野菜いっぱいのスープとか、チーズやハムのベーグルサンドとか、大きな桃を挟んださくさくのミルフィーユとか。身悶えするほど、魅惑的だ。
 幕を下ろせば、視界は暗くなる。取り止めのない空想が頭を過ぎり、第二幕が下ろせない。睡眠までは、第三幕まであると思う。
 劇場は砂浜だ。しゃりしゃりと歩く度に砂が擦れ、足の裏に張り付く。けれど徐々に満ちてくる潮に足が洗われ、客席もなにもかも飲み込まれてしまう。
 それを毎日繰り返し、私は少しずつ生き飽きていくのだ。

 好き、なんて言う気はない。声にしたところで虚しい。伝えるなんて出来はしない、何と言っても生きる時間が違う。置いていき、置いていかれの関係。
 それを耐えることなど出来ない。自覚した瞬間が失恋で、自覚してから失恋し続ける。絶望的に報われない。

 世界は終わると、誰が言ったんだっけ。
 よろしくと託されたのは、なんだっけ。
 人類最期の時にねがって、僕はこうしているらしい。

 目の前の椅子には一人がいる。真っ白な顔で、真っ白になって。
 ぼんやり座るそのたった一人の手を取った。冷たい手は少し握って、力なく開く。その中に、ナイフとフォークを握らせた。あげた白と銀の爪先を、一人は眺める。
 くっと持ち上がった顔は、ゆらゆらと瞳を揺らしていた。それが写った自身の目なのか、相手のものなのか、判断付かず。
 愚かしい、と、笑うのに。泣くの、だ。
 としゃんっと爪が落ちて、一人はテーブルに乗り上げた。ぐっと肩を押され、テーブルに背中を打つ。痛いと呻くのは簡単で、けれど難しい。
 首が反って、喉の柔い皮膚が露わになる。そこを引っ掻けばいい、そう思って、そうして欲しいとも思う。
 長い髪が広がって、うねることはない。頬を支配する固い鱗は体温をするすると逃がす。
「カノ」
 上で片目だけを赤くする一人に手を伸ばす。柔い頬を撫でて、悔いている顔を隠すように。

 徐々に人が消えていく。死んだことを理解する。ぼんやりと溶けて、輪郭がふやけて、水に落ちたパンのようにほろほろ消える。自覚することなく燃えてしまった人たち。
 彼女は消えない。蛇が戻って完全になった彼女は、自覚しても消えない。
 僕だけ。傍には僕だけ。
 自分すら騙して、往きている。

 笑って抱き締めた。人形みたいにされるがままで、人間みたいに息を飲む。燃えてしまった、なにもかも。だからカノ以外、誰もいない。
 死んでいないと精神を欺いてまで、ここにいるカノ以外。
 昨日も今日も、背中に爪を立てる。撫でれば消えるそれを繰り返す。
「みとってね」
 また明日も。
「見惚ってね」
 カノが枯れても、離さずに。
 置いていかれない、世界で。
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