146 | ナノ
遥キド
許嫁。

 取引先との軽い口約束。そういうつもりだったんだろう。
 キドは柔らかい雰囲気の困り顔の男性を申し訳なく見上げた。いかにも流されやすそうな人柄が見て取れる。妾の子の厄介払いをいち早くしたい父は、男性に歳近い息子がいることと許嫁になってくれることを昨夜突然告げた。もちろん本気にしているとは到底思えなかったが、上手く行けばさっさと厄介払いができる。もっとも、一番はキドにさっさと出て行って欲しいとの意思を伝えるためだろう。
 家の中で常に痛いほど空気から感じていることだが、いざこうやって言動で示されるとつい怯んでしまうのが子供。柔い精神が滅多刺しにされていく。
 とりあえず紹介だけでもと父は男性にキドを預けて何処かへ行ってしまった。男性が悩む姿に萎縮する。迷惑をかけていることがキドには辛く、このままいっそ空気に溶けてしまいたいと切実に願った。
「さて、どうしようかなぁ……」
 そんな声にびくりと怯えてしまう。
 男性だって仕事中だろう。あまり大人の仕事内容に詳しくは無いが、キドの相手をしている暇などないということは理解している。そんな忙しい相手に自分の方が忙しいからと勝手にキドを預けた父が恥ずかしく、とても嫌になった。
「ご、ごめんなさい……っ、あの、父が帰ってきたら帰りますから」
 いい顔はされないだろうが、さすがにずっと待っていれば帰ってくるはず。なら邪魔だと車を出してくれるだろう。
 すいません、と男性に頭を下げ、キドは硬いソファに座った。黒い皮が照明を返して光っている。
「……えっと」
 男性はキドの勢いに押されたのか、きょとりと首を傾げた。しかし押し付けられたキドを邪険に扱わないでいてくれたことにはホッとしているが、仕事に戻らなければいけないだろう。のんびりしているけれど、いいのだろうかとキドは時計を見上げた。
「父には私から説明しておきますから、えっと、お仕事に戻っても大丈夫、ですよ……?」
「え……ああ、そういうことかあ。初対面で嫌われちゃったのかと思った」
 今度はキドがきょとりとする。男性はああよかったと胸を撫で下ろしているが、流れが読めない。
「大丈夫ですよ、僕の仕事は多少融通が効きますから。子供は心配しなくていいんですよ」
「え、そ、そうなんですか……」
 父はやけに忙しそうだが、そうでもないところもあるらしい。
 男性はそうですよと丁寧に話し、キドに笑いかけた。にこにこと嬉しげな笑みは滅多に向けられるものではなくて、ついそわそわしてしまう。
「ところでつぼみお嬢さん」
 その呼び方はやめて欲しいと思ったが、初対面で主張できるわけもなくキドははいと返事をする。笑みが消えた真剣な顔に、居住まいを正した。
「遊園地と映画館どちらがいいですか。あ、最近の子供ならゲーセンですか?それとも先にご飯かな。でも水族館も捨て難いと!ああ、最近できた公園もありますよ、僕とキャッチボールとかどうでしょうっ」
「は、はひ?」
 どうでしょうと言われても、どうしようもないでしょう。奇妙な声でつい返事をしたキドだが、それに気付かないほどの衝撃を受けていた。
 先ほどまでのゆったりとした喋り方はどこへやら、男性は興奮気味に怒涛の勢いで候補を上げていく。どんどん挙げられる遊び場はどこまで行くのだろうとマイナーからメジャーまで幅広く積み上がった。けれど男性は止まらない。
「ずっとどこに行こうか悩んでいたんですが、ここは本人に聞いた方がいいかなって思って。どれでもいいですよ、服屋もいいですね。僕はセンスがあまりないから妻とになりますが、まあ女性同士の方が話も弾むよねっ」
 キドの存在に悩んでいたわけではないと分かって一安心はするが、それさえも吹っ飛ばす勢いで男性ははしゃぐ。どんどん口調から敬語が剥がれていくため、さらなる困惑でこくこくととりあえず頷くしかできなかった。
 というより、正直子供のように無邪気に楽しそうな男性に水をさせない。しかし候補が無くなっていくにつれて落ち着いてきた男性ははたと口を止めて恥ずかしそうに頭を掻いた。いつの間にかキドの方へと乗り出していた体をソファに座らせ、仄かに赤い頬をこする。
「すいません。僕らの息子は病気がちで、僕も仕事で三人ではあまり遊べないから、つい……」
「あ、いえ」
 しまったなあとまた前の困り顔で男性は反省している。面食らったことは確かだが、悪い印象はない。純粋にいい人だとキドは思った。
「とにかく、今日は息子も調子がいいらしくて。だから帰ったら遊ぶ予定だったんですけど、そしたらつぼみお嬢さんが来てくれて」
「はい」
「遥とつぼみお嬢さん、子供二人と遊べるぞとなったら、つい興奮してしまい……」
 申し訳ないと男性は顔を覆う。消え入りそうな声は恥ずかしさかららしく、隠れていない耳が真っ赤だった。
 周りにいる大人たちとは似てもにつかない男性に、ふと笑いがこみ上げる。小さく笑ったつもりが音となり、それは男性の耳の届いた。
 指の間から覗く黒目がちの目がキドを見る。男性はそろりと顔から手を離し、キドに釣られたように照れながら笑った。

 結局その後男性に急な仕事が入り、絶対次にと何度も約束してから悔しそうに名残惜しそうにキドを家まで送ってくれた。その顔が拗ねた子供のようでまた笑えたが、残念だったのはキドも同じで何度も何度も男性と約束をして帰った。
「あ、そうだ。なにかあったらどうぞ」
 帰り際に渡されたのは一枚の写真で、そこには男性とその妻と子供らしき人が写っていた。裏には電話番号があり、ぎょっとして返す前に男性は去って行った。
 その後、今度こそ遊ぶという約束は果されなかった。父の事業が上手くいかなくなり、あとは坂を転がるように。
 そして写真は、火事で跡形もなく燃えた。

 その名前を聞いたのは、ケンジロウからだった。久しく口にも出していない懐かしい名前はありふれたもので、それが知っている『遥』だという確証はなかった。だから随分と気にはなっていたものの、それをはっきりと確かめようとキドはしなかった。
 今更また遊ぼうという約束が果されるとは思っていなかったし、たった一度会っただけの少女を男性が息子に話しているとは思えなかったこともある。
 だからキドは、確かめる気など一つもなかったのだ。
「セト、来れなくて残念だね〜」
「人混み嫌いだし、しょうがない」
 隣で笑うカノは、意外と賑わいでいるね興味深そうに見回す。キドはそうだなとわざとぶっきらぼうに返した。
 家で叩き込まれた礼儀作法が自分は周りとは違うと示されているようで、わざと乱暴な口調で上書きしようとしている最中。そっちの方が秘密組織の団員っぽくてかっこいいということからだが、周りはあまりいい感触ではない。
「ケンジロウさんに挨拶しないとだよね、確か射的ブースをやってるはず」
「出店ばっかりだけど」
「うーん、中かなあ」
 断じて、遥を見に来たわけではない。そうキドは自分に言い聞かせ、カノの後ろについていく。ケンジロウが誘ってくれたから見に来て、ただ遊びに来ただけ。
 同じように誘われたアヤノは友達と一緒に行くらしく、一緒ではない。
「にしても射的ゲームなんて、すごいこと考えるね」
「楽しそう」
「じゃあキドやる?」
 興味はあるけど別にやりたいわけじゃ、と言いかけて止める。見てから決めると言い、校舎の玄関に入った。簡素な地図が掲示板に貼り付けてあり、カノはえっとと射的ブースを探す。
 落ち着かずに周りを見回し、キドはフードを被った。もはや写真もなく、許嫁だったなどという約束もない。向こうはキドのことなど知らないだろうし、キドも幼い面影程度しか向こうを知らない。
 緊張する必要など、まるでないというのに。
 カノがあっちみたいとひと気の少ない廊下を指す。それに向かって歩くが、徐々に歩みが遅くなった。早く行こうよと急かす声に引っ張られているだけ。角を曲がる瞬間は、もはや覗くと言った方がいいだろうほどひっそりと顔だけ先に出した。
 ぽつん、と遠目でも分かる寂しいブース。けれど、外に座る少年にキドは思わず能力を使った。
「ここって射的ゲームのところですかー?」
「あ、お客さん?射的ゲームならここだよ。中にいる人とゲームで点数を競って、勝てば豪華賞品をもらえます。今はお客さんいないから、すぐ出来るよ」
「へー」
 敬語が所々崩れている。黒目がちの目がそっくりで笑顔も似ている。けれど少し男性より頼りなさが増し、線が細かった。
 まぎれもなく、遥、だった。
「じゃあ、一回!」
「うん、どうぞ。えっと、後で感想貰ってもいい?」
「はーい」
 不安げな声でそっとカノに頼む遥。その目はこちらには向かず、けれどキドは能力を解く気にはなれなかった。今能力を解けば驚かせてしまう、そうなれば化け物みたいに思われてしまう。ぎゅっとフードを目深に被り、カノの後を追ってさっさと入った。

 目の前でだらしなく眠るコノハをキドは見下ろす。確かにソファで寝ていたはずなのに、一体どうやって一度も起きずにキッチンまで転がって来たのか。キッチンの入り口を大きな体で塞ぐコノハは正直とても邪魔で仕方ない。コノハに躓いて昼食をぶち撒けるなどとなれば、目も当てられないだろう。
「おいコノハ、起きろ」
「……」
「起きないと昼食なしに」
「はっ……キド、どうかした?」
「ぶれないなと感心しただけだ。ほら起きろ」
 呆れながら手を差し出して起き上がらせれば、ぼんやりしたコノハはちょこちょこキドの後についてくる。なぜついてくると前にキドが聞いた時、起きたはいいがなにをすればいいのか分からないと語っていた。常になにもしていないような気がするが、本人はそうでもないらしい。
「……今日はやけにくっついてくるな」
 後ろを見ればすぐそこにアジト一大きな体。いつもならそろそろテレビを見たり読めないけれど本の挿絵を眺めたりと勝手にすることを見つけている頃だが、今日はキドから離れる様子がない。
 懐かれていると思えば悪い気はしないが、邪魔だとはっきり邪険にできないのは少し困った。恐らく落ち込む、そしてしばらくひっつかないようにする。素直すぎる子供かと言いたい。
「……キド、他に名前ある?」
「は?」
 突拍子のない質問に偽名かネットの名前かと色々考えるが、しばらくして下の名前のことかと行き着いた。まぎらわしいとキドは睨むが、コノハはきょとりとなにを考えているか分からない顔で首を傾げる。
「つぼみ、だ。あんまりこの名前は好きじゃないから呼ぶなよ」
「つぼみ……」
「聞いてたか?」
 悪気はないんだろうから、キツくも言えない。とりあえず睨んでおき、キドは昼食作るかと冷蔵庫を開けた。
「つぼみ……お嬢、さん」
 コノハは昼食作りの邪魔にならないようにキッチンから離れ、頭に浮かんだ言葉を声で並べた。

『本当に遥のお嫁さんになったらいいのにな』

 それは誰の声だっただろうか。
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