140 | ナノ
セトシン

ふと気付くと、左腕が動かなくなっていた。持ち上げることが出来ないわけではない。ただ腕の骨が一本になってしまったかのように曲がらず、ある一定の位置から腕を上に伸ばせなくなってしまった。常に肌の上で痺れが走り、触覚や痛覚が著しく落ち、生きている上でお荷物へと成り果ててしまっているだけ。だけ、と言ったが、強がりだ。最初は焦った。バクバクと嫌な脈拍で、冷たい汗が寒気と共に駆け抜けていた。
だが医者に見せようとは終ぞ思わなかったのは、無意識にでも、家に帰ることができなくなるのだと思ったからだろう。そう、最初から治らないことなんて分かっていた。何人にも励まされ泣かれ、大丈夫だと言っておきながら、なんて不孝者だろうか。
腕の次は腹だった。なにかシコリみたいなものが横腹辺りに出てきて、日に日に固くなっていった。そして同じようなものが背中に出来て、眠る時に邪魔だった。暫くして同じものが何個も湿疹のように腹や背中に出来て一斉に変色し始めたのは、思い出すと今でも不気味で仕方ない。その時も半ばパニックではあったが、既に諦めが付き纏っていたように思う。茶色や緑になった体は、とても人に見せられるものではなかった。いよいよ医者を本格的に諦め、そして早々にこそこそと生き始めた。家族の目を忍び、仲間を避け、エネを徹底的に追い出した。違和感を感じられるのも当然で、だがとうとう引き摺り出された頃には、オレは酷い様だった。
シコリの次は髪だった。抜け毛が無くなり、どれだけ引っ張っても抜けなくなった。代わりに頭に触れば葉っぱが落ちた。朝起きれば枕にも緑。ゴミ箱や床はすぐに葉っぱだらけになった。
そして次は皮膚。やけに乾燥してヒビ割れた。顕著だったのは動かなくなった左腕だった。ヒビ割れがぱきりと欠け、その下から現れたのは肉の色ではなく、茶色くシワだらけのものだった。それを初めて見た時は吐きそうだったが、どれだけ吐いても水しかでなかった。いつの間にか内臓もやられていた。
そして体の半分くらい、ヒビ割れて欠けた頃、部屋から引き摺り出された。意識していなかったが、どうやら食事に何日も手をつけていなかったらしい。
そこで俺の変わりように、誰もが顔を歪めた。モモは泣いていた。腕が動かなくなっただけではなかったのかと言われたが、オレは答えなかった。結局どう言ってもあり様を見れば一目瞭然だったからだ。
医者には行かなかった。行った方がいいと何度も説得させられたが、やはり行かなかった。無理矢理連れて行かれそうになった時は、さすがに笑った。オレよりずっと往生際が悪く、なにも分かっていなかったから。分かれと言う方が酷なのだろうが、少しばかり、許して欲しい。
体が固くなった。今までは緩やかなものだったのだとここで気付いた。昨日は動いたものが、朝起きれば動かなくなっていた。怖かった。ゆっくりとしか動けなくなった。怖さに慣れると、暇になったが。
そして目がやられた。片目だけだったが、見えなくなった。鏡を見せられたが、見事に白濁色になっていた。
声が嗄れ、そして消えた。五時間かかった。そうなるとなにも伝えられなくなって、セトが通い詰めになった。そこまでしなくていいと伝えたが、セトは譲らなかった。記憶も感情も盗めるから、もしかしたらオレが気付いていなかっただけで本当は一人で何かに変わっていくのは怖いという感情があったのかもしれない。それをセトだけが気付いていたとしたら、これは結構恥ずかしい。
綺麗に掃除された部屋は、歩かなくなって散らかることは二度となかった。いつも片付けろと煩く言われていたのが懐かしい。
そして遂には完全に息が止まった。それでも生きていた。左腕が枝を作り、どんどん枝分かれして行くのを見ていた。背中から根が浮き出て、服もシーツも破ってベッドを貫いた。どんどん育ち、どんどん根を張り。
きっといづれ枯れるだろう。できればその前に燃やして欲しい。思考が薄れ、最近なにも考えられなくなってきた。だからきっと、ばらばらに切り刻まれて燃やされても、痛くも熱くも怖くもない。
最後の最期まで、迷惑をかけて生きてきた。

大きな木が、窮屈そうにベッドの上で伸びている。もうどこにも、彼だった面影などない。盗んで見てもなにも見えず、聞こえず。
彼の家族は、どうするのだろうか。沈んだアジトは、彼の姿に耐え切れず言葉にも出さない。必要とされていた記憶がどうにも忘れられずに、俺は毎日ここに来る。
役に立ちましたか、貴方を安心させることができましたか。
怖かったんでしょう、ずっと。

「人間として死にたかったんでしょう」

樹皮に触れた瞬間、とさりと後ろ髪をなにかが撫でた。振り返っても何もない。気のせいかと思って部屋を出れば、キサラギさんが泣いた跡を隠しながら部屋から出てきた。慌てて顔を隠そうとしたキサラギさんは、きょとんと俺を見て、随分久しぶりに少し笑って指を差す。フードに入ってますよ、と。え、とフードを引っ張り中に入っていたそれを取り出し、目を見開く。
先ほど出てきた部屋を見て、またそれに目を落とした。キサラギさんが階段を下りて見えなくなると、意を決して集中し。

「ああ」

まだ、居たんですね。
赤い花に、そっと笑いかけた。
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