137 | ナノ
シンコノシン

目の前には対する向こうが果てなく続いて闇に埋れている。長い長いどっしりと重厚感のあるテーブルには真っ白なテーブルクロスがかけられ、頭上には三つの金に輝くシャンデリアがぶらりとぶら下がって周りを照らす。テーブルには等間隔に漆でてろりと蕩けて光る滑らかな木の椅子がずらりと両脇に並んでいるが、一人として誰も座っていない。
コノハはチョコレート色のベルベッドを張った、大きな椅子に座っていた。両手にはナイフとフォークを持ち、側に口直し用の水がワイングラスの中でとっぷりと控えている。目の前の白い皿は、凝った模様がくたりと打つ。だが華やか、と称すにはあまりにシンプルで黒い。蔓のようにのたうち、蔦のように絡まり、真ん中へと収束する。
そこはあまりに静かで、人を不安にさせた。

「やあ、こんにちは」

コノハはくたりと首を上げ、声を辿る。そしてそれは思ったより近くで見つかった。コノハはいつの間にと驚いたが、それは微かに瞼が持ち上がっただけで、無表情は変わらずにコノハの顔を作る。
仮面を被った少年は、椅子に座るコノハの隣に立って、コノハを見下ろしていた。

「どんなメニューがお望み?」

仮面の少年はくつくつと愉快そうに笑い、カッと鋭く靴を鳴らしてメニューを差し出してきた。それは真っ赤な皮の表紙で、中の紙は分厚い。コノハはナイフとフォークを置き、それを受け取った。今更、コノハの中で仮面の少年がどこからメニューを出したのかという疑問が膨れたが、結局考えても思い出せるものではなかったので、ついにすっかり忘れた。

「……?」

メニューは可笑しなものだった。開いた途端に少年がつけているような仮面の無地のものが描かれ、そして次にはまた同じ仮面が今度は少しの模様をつけて描かれていた。
コノハが知る限りのメニューは、全くそこにはない。

「決められないなら、僕のオススメにしよう」

いつまで経っても決めることが出来ず、困惑するコノハに少年はぱきんっと指を鳴らす。楽しげな言葉とともに、コノハの目の前には綺麗な料理が並んだ。まるで本物ではないような、美しく盛り付けられた料理。
メニューはまたいつの間にか消えていたが、コノハは気にせずに目の前の料理に心踊らせた。置いていたナイフとフォークを取り、それに手を付ける。崩すのが惜しいような料理を一口大に切り、そして口に放り込んだ。
それは心踊る味、素晴らしい美味、だと思った。コノハは飲み込んでその料理を見つめる。
味がない。
飴だと思って透明なガラス玉を舐めたような、空虚感。見た目が美しいだけに、その落差は心に響く。

「ああ、ミスっちゃった」

仮面の少年は笑う。ひたすら笑う。なぜか仮面の下は笑っているとコノハには分かった。
そして仮面の少年はコノハの椅子の背に手を置き、思いっきり下へと押し込んだ。

ごとんっと椅子の大きな落下音に、その少年は怯えたように振り向いた。けれど瞬きの次には好青年へと変わり、コノハは見間違えかと目をこする。
そこは広く開けた場所だった。森の中のようで、けれど冬のように色褪せている木と夏のように活き活きと鮮やかな木とが一緒くたに生えている。さわさわと小さな音は、葉と葉の触れ合いと小雨。
テーブルは丸く小さく、白く塗られた重い鉄でできていた。触ると冷たく、薄っすらと濡れている。椅子もコノハが気付かない内にそのテーブルとセットのものになっていた。

「メニューどうぞっす!」

好青年はにかりと笑い、メニューを差し出してきた。それは分厚い一枚の髪を三つに折ったもので、表紙にはぽんっと犬の手形が押されている。そしてはこりとそれを開けば、またコノハは何も注文することができなくなった。
中はとにかくぐちゃぐちゃに赤で塗り潰されていた。油っぽいクレヨン、こってりとしたペンキ、微かに荒い色鉛筆、溶けそうな水彩とべったり張り付いたアクリル絵の具、細く跡を残すボールペン。

「俺のオススメでもいいっすか?」

まるでコノハの困惑を読み取ったかのように好青年はそう言ってきた。コノハが頷けば、好青年はぱさりと緑のフードを目深に被ってととんとテーブルを叩く。するとそれが合図だったかのように白い鳥が舞い降りた。鳥はこてりと小首を傾げ、コノハを不思議そうに見上げる。コノハも同じように小首を傾げ、無表情で鳥を見下ろす。

「どうぞ!」

好青年の声にコノハが鳥から顔を上げれば、知らぬ間にテーブルには溢れんばかりの料理の数々が乗っていた。
見た目に繊細さはない。けれど温かく湯気を吹き、ふわりと焼けた匂いが香る。そして色鮮やか。にこにことコノハが手をつけるのを待つ好青年に、コノハは置かれていたフォークを手に取った。
それは美味しかった。特別美味しいわけではないが、美味しいと確かに感じた。けれどコノハはまた手を止める。もう一度確認するように一口。
ひたすらに、甘い。
砂糖に蜂蜜、メープルシロップ、それらを掛け合わせて更に濃度を濃くして煮詰めたような、ありとあらゆる甘味を磨り潰して料理の形にこねたような。

「そっすか、残念っす」

やはり心を読んだようなタイミングで好青年は残念そうに肩を竦め、コノハの後ろへと回った。コノハが振り返ると好青年は居らず、白いフードがこちらを見上げていた。怯えたような赤い目。

「『心』が怖い?」

小さな手が椅子の脚を持って、横へと回した。

少年は道路に突っ立っていた。それはコノハも同じで、二人はお互いの反対車線にいる。二人を繋ぐ橋のような横断歩道、点滅する信号機。青と赤と白。赤い標識が何本も雑に立ち並び、暑い日差しを受けている。椅子はなく、テーブルもない。少年との間には二メートルほどの距離。
少年の後ろには緑が溢れる遊具の新しい公園があるが、人間は少年のただ一人。憎しみのようは諦めのような、少年の虚ろな目。その目がコノハを捉え、一歩たりとも動かせない。

「ああ、なんで僕が」

ふと少年は舌打ちをして横断歩道を渡る。一歩、一歩。それはゲームのように白線だけを踏んで。焦りと不安にコノハが少年をじっと見詰めれば、少年は不愉快だと言わんばかりに顔をしかめる。
なぜそんなに嫌悪を向けられるのか、などという疑問はふと掻き消された。当たり前だという思いが、それを上塗りして行く。
だというのに、言い訳ばかりがコノハの頭には何度も何度も考え付く。

「メニューなんて、ないから」

最後の白線が踏まれたが、二人の間にはやはり距離。告げる少年の声は冷たい。少年の後ろを大型トラックが通り過ぎる。少年を掠めそうなほどの近さで、クラクションを盛大に掻き鳴らす。ぶわん、と耳に痛く残るそれ。トラックが見えなくなって、コノハは初めて自分の手に料理の皿があることに気付いた。
皿に乗った凝った料理。見たことも食べたこともないそれに、味の予想がつかない。真っ白な綺麗な皿は空を反射して水色に見える。

「食べないの」

少年の苛立ちの声にコノハは首を振り、添えられていた箸を取る。いただきますと恐る恐る手を合わせるフリをすると、少年はふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
一口、それを口に入れた途端、コノハは口を押さえる。すべて焦がした炭、口に入れてしまった絵の具やボンド。そこに熱湯を注ぎ込まれたような。
酷く苦い。そして熱い。
食感まで不快に纏わり付き、飲み込めずに舌に居座る。吐き出しそうな苦味に、コノハは懸命に耐えた。少年はコノハの反応にどこか満足そうに笑いながら、泣き出しそうに顔を歪める。
そして少年は一歩白線から外へ踏み出す。コノハはその行動に一瞬にして苦さも熱さも忘れて手を伸ばした。手は届かず、少年は白線から落ちて行く。黒に、少年が飲み込まれる。

「でもまぁ夏は嫌いかな」

コノハは突然体に巻き付いたコードに、後ろへ引っ張られた。

コノハは座っていた。目の前には男が座っている。男が肘をついているのを見て、コノハはそこに透明のテーブルがあることにやっと気付いた。
明らかにどこかの教室。後ろに鉄のロッカー、前に黒板と教卓。ずらりと並んだ机にはなぜか花瓶が一つずつ乗っている。

「どうだった」

男はこれまでのようにメニューを差し出したりしなかった。男はコノハに尋ねてくる。コノハがどう答えるべきか考えあぐねてると、男は少し面倒臭そうにコノハを眺めて口を開いた。

「食べただろ」

コノハは今までの料理を思い出す。口にしていいものかとコノハが言い淀むと、男は促すように手をひらりとコノハに振った。

「美味しく、なかった」
「なるほど」

男はなるほど、とまた言ったが、納得した風ではなかった。

「お前に合わなかったんだな」
「……?」

合う合わないの問題なのかとコノハが首を傾げて男を見ると、男はコノハの視線に気付かないふりをしてくありと欠伸を一つした。
ぶわりとカーテンが風で膨らみ、萎む。窓からは夕日が入り込んで全てを茜色に染めていた。

「カノは味があるにはあるが、あまりにもボヤけすぎていて無いように感じる。セトはとにかく脳が溶けるほど甘ったるくて、ヒビヤはひたすら舌が焼けて焦げそうなほど暑くて苦い」

男がつらりと並べられたそれは、コノハが感じた味。味わった苦痛。

「それが美味しいと感じる奴もいれば、美味しくないと切り捨てる奴もいる。美味しいと感じなくても、食べ切れる奴もいる。元々嘘や食べることってのは女の方が上手いんだよ。だから美味しいと言ってもらうために、女に食べてもらう奴が多い」

よかったな、いい経験だと男は言うが、コノハは着いていけずにはてと口内を舐めた。あれだけ強烈だった味はもうない。苦さも甘さも無味も。
男の話などどうでもよかった、コノハはただぼんやりと空腹を感じるだけ。

「大抵は、一口食ったら満足するもんだけどな……」

呆れたような男の声。日はいつまで経っても沈まない。

「お前が食べているのは、心臓だ」

お腹空いた、と静かにコノハは呟く。
男は一層呆れたようにため息をつき、そしてコノハの前にハサミを置いた。赤と銀。

「生憎オレは料理ができない」

その言葉にコノハはいつも鈍い頭を働かせ、意味を汲み取る。そして徐にハサミを手に持ち、男を見た。

「シンタロー、いただきます」


コノハははたりと起き上がり、ソファから落ちていたことを知った。毛布を体に巻きつけていたせいでなかなか立ち上がれず、気付いたセトが毛布を剥がしてくれる。ふわりと漂うキドの朝食の匂い。ヒビヤはお喋りしているモモとマリーの横でテレビを見ながら朝食が出来上がるのを待っている。カノがコノハの寝癖を笑い、エネに頼んで写真を撮った。

「今日誕生日だったな」
「……うん、たぶん」
「好きなもの作ってやるけど、なにがいい」
「なんでも、いい……」

キドの言葉にコノハはぼんやり答える。

「僕、今、お腹いっぱいだから」
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