133 | ナノ
セトシン

好意を向けられていることには気付いていた。チリッとうなじが痛くなってむず痒くなるような、ハッキリとは分からないまま、ただ曖昧にそういうことなのかもしれないと。だからふと触れ合った口の柔い肉に、特別驚くこともなかった。
真っ直ぐ向けられる視線には、ただ戸惑った。純粋な疑問と困惑に、答えてくれるだろう男は口を噤んだから。初めて見る顔だった。ふつんと黙った口は、少し引き攣った歪な弧で、琥珀の目は、いつもの柔らかさを捨てて、凍ったように固かった。
お前もそんな顔するんだな、なんて言えば、また口が引っ付いて。
付き合ってはいなかった。好意も行為もなかった。
「俺は」
呪いでも吐くように、不純物を込めたような重い声は、さすがにゾッとした。怖いな、と、ぼんやり思った。言霊なんてものを思い出して、もっと恐ろしくなった。
「セト」
手で言い掛けた口を塞いだ。
「また明日な」

コンビニに行くだけでも酷く寒い。痛いほどの寒気に顔を晒し、力をぐっと内側に込めた。マフラーに口を埋めると風からは逃れられたが、息でマフラーが湿気てすぐに気持ち悪くなる。ぷはっと外に出るとまた寒い。いっそマスクでもしようかと思うが、どうせ煩わしいとすぐに鬱陶しがるのだと思うと無駄遣いになる懸念で立ち止まる。
がさがさと静かな夜道で心地よく騒がしいビニール袋から先ほど購入したあんまんを出し、そのふっくらとした白い体にかぶりついた。既製品の甘さは、ある種の麻薬だろう。はっくと熱さに湯気を吐きながら早々とあんまんを食べ終われば、我が部屋に明かりが煌々と着いていた。消し忘れていたことに気付いてて思わず苦くなる。脳の苦さを口内の甘さで誤魔化してポストを覗くと、真っ白の封筒がぽつんと一つだけ入っていた。裏返すと几帳面な字で揃った大きさの文字がはたはたと住所を書いている。それを持って部屋に入り、がっちり糊付けされた口をなぞった。これで何通目になるのか、数えたことはないし数える気もない。
とんとんと封筒を立ててテーブルに叩き、電気の光に透かして便箋を傷付けないようにハサミで切り開いた。出てきた前略も拝啓もない便箋は用件だけが書いてあって、どこかぶっきらぼうに感じる。
最後の行まで読んで、自然と止めていた息を逃がす。それに気付くとつい情けなくなって、先ほどより濃い苦さを感じて笑った。
便箋を畳んで封筒に戻し、見えないように引き出しにしまう。そしてポケットからケータイを取り出して、メールを確認する。予想通り、メルマガに混じって差出人がアドレスになっているメールが一通。開けなくても何が書いてあるか分かる。手早くメルマガと一緒に消去してメールを閉じた。
途端に、タイミング良く着信が入る。
見慣れすぎて、誰からかすぐに察することができる番号。自分自身の番号よりすらすらと淀みなく言えてしまうんじゃないだろうか、なんて笑えない冗談だ。
「もしもし」
億劫が胸中をぐるぐる巡る。辛抱強く出るのを待っている着信音を止めるため、ボタンを押した。耳に当てればホッとしたような息が聞こえるのも、いつも通り。罪悪感のようなものが煽られ、すぐ後ろをとたりと立つ。
『メール、読んだっすか?』
「読まずに食べた」
『お味のほどは』
「薄味?」
ふ、と微かに笑った声がスピーカーから聞こえる。
『お口に合わなかったっすか』
「そりゃあな」
『じゃあ、もう一回?』
「満腹になるまで続ける気か」
『シンタローさんは少食だからすぐっすね』
今は違うと咄嗟に言い返すが、残念ながらまったくの嘘だ。間食が多いのが原因だろうとは分かっている。
先ほど買ってきた新商品の菓子やペットボトルがぐさりと腹に刺さった。
「てか、毎回毎回、メール読んだか確認する必要ってあるのか」
『電話する口実なんで、ないっすね!』
「通話料金返してくださーい」
さらっと言う声にイラっとする。このまま通話を切ってしまおうかと一度耳からケータイを離すが、ボタンは結局押せない。
『てかメール本当に読んでないんすね』
「なに、なんか代わり映えある内容だったのか」
『まあ、そこそこ』
そこそこか。そこそこっす。意味もなく繰り返す。そこそこ。
『やめようかと』
「なにを」
『捜すのを』
思わず黙り込み、暫しの沈黙。相手も何も言わない。
しんっと耳に染みる。
「……なるほど」
『シンタローさんの反応こそ薄味じゃないっすか』
「健康的で結構なことだろ」
『自分の食生活振り返って言ってください』
「聞こえない聞こえない」
今日の晩御飯はカップ麺で現在新製品菓子で夜食中とか知らない知らない。ペットボトルのキャップをかちちっと開ける。ばりり、と厚紙の点線を破った。
「お前は決断がおそすぎるから、驚くタイミングがだな」
『驚いたんすか』
「あ?……いや、驚いてないな……」
『そっすか、残念』
箱の中の袋を開き、チョコ菓子を一つ。なにが残念だよ。
「好きなやつでも出来たか」
『どうっすかねー』
「できたら言えよ、祝ってやる」
『呪詛の間違いじゃ』
「お望みならそっちでもオレはまったく構わないけどな」
人の真心をなんだと思ってやがる。
ノートパソコンを手繰り寄せ、電源をつけた。こうっ、と液晶が灯る。
「お前は幸せになる」
『なんすか、それ』
「予言」
オレを諦めたお前は、幸せになる。
テーブルに置いた手紙を持ち上げた。キドに頼んだ、近況報告の手紙。住所はキドしか知らない。全部投げ出して逃げてきた。
電話番号やメールアドレスがいつ漏れたのか分からないが、住所が漏れていないなら良しと甘受した。
全力で、逃げた。
『じゃあ幸せになってみるっす』
「結婚式には呼んでくれ」
『さあ、どうっすかね』
呆れたような声。さすがに気が早いかと思うが、あの三人ならこいつが一番早い気がする。
「まあ、頑張れ」
『尽力しますよ』
「……なんか、災難だな、相手」
『ええ?』
そんなことないっすよ、なんて笑う声に混じるクラクションの音。外なのか、バイトなのか、こんなくそ寒い中ご苦労なこって。
『頑張ったんすよ、俺』
「かれこれ五年だったか」
『シンタローさんがいなくなって、やっと連絡掴んで』
始めてかけて来た時、泣かれた。どこにいるのか、なにをしているのか。悪いことをしたと思ったが、帰ろうとは思わなかった。
『見付けたら付き合ってやるから泣くな、なんて』
「あー、言ったなー」
『告白もさせてくれなかったっす』
そうだったかなー、なんて誤魔化す。その頃には聞くものかと、恐れより意地が勝っていた。耳元でぐずぐず泣くものだから、イライラしたのもあるが。
『絶対この人見つけて、俺のものにしてやるとか、決意したっす』
「こえーな」
『それだけのことしたんすよ。むしろ監禁されちゃっても許されるっす』
「許されねえよ!」
あははと笑いながら恐ろしいことを宣う。
『それだけの存在なんだって、自覚したっすか』
「痛感した」
『うん、じゃあ、いいっす』
たぶん、とふと思う。たぶん、今、泣きそうなのだろうと。どれだけの距離があるのか分からないが、それだけ分かった。
まあそんな顔、とっくにボヤけてしまっているのだけれど。
「じゃあな」
『また明日』
「ああ」
嫌味かよ、とは言わないでおく。この明日は、破られるのだろう。
通話が終わった途端、通話履歴を全部消した。途端に、力がぐたりと抜ける。もう寝よう、寝てしまおう。充電もせずケータイをテーブルに残し、布団へふらふらと向かう。時計はもう真夜中を指している。

かつりと靴で階段を蹴った。先ほど切れたばかりのケータイを眺め、緩む口を隠すように当てる。
五年前、シンタローは綺麗に消えた。誰に聞いても分からない、けれど連絡だけは自分以外にはある。そんな状態で、逃げられたことを察するなと言う方が無理だ。好きだと、言えれば。これだけでいいからと。頼んで連絡先を教えてもらい、それだけを言おうとした。
だが、シンタローが餌をぶら下げた。目の前に。
見付けたら、付き合ってやる。
忘れたことは一度としてない。絶対見付ける。絶対手に入れる。

「今度は逃がさないように、尽力しますよ」

時計はもう真夜中を指している。
セトはインターホンに指をかけた。
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