130 | ナノ
セトシン、十二国記パロ

もう王は探したくなかった。
シンタローは失道した訳じゃなかった。けれど前王はそうは思わなかった。優しすぎるほど優しく、政には疎く、だが小学の教師の娘であったため期待されてしまった。それが重く、前王には乗しかかった。前王の前王は麒麟とともに弑逆された。長い治世ではなかった。前王はどうにか政を学んで治水し、地をならした。
心を入れ換えるほどの障害が前王にあったとすれば、それは恐れだ。国が傾ぐ恐れ、民が不幸になる恐れ、麒麟が倒れる恐れ。
前王は麒麟ほどに慈悲深く、血が避けた。戦災を嫌い、官の争いを嫌った。麒麟を大事にした。
三十年、前王の在位だ。もっと短い者もいる。民に心を砕いた前王は賢君ではなくとも良い王だった。
しかし前王は、自ら王位を天帝に返上した。
シンタローは前王の王気が消えたときを覚えている。少し疲れやすくなった体を休めていたとき、急に王気が消えたのだ。暗殺による弑逆ではない。白雉が末声を鳴いたと宮内は騒然となった。禅譲であったため、遺言が残された。シンタローは呆然としてそれを聞いていなかったが、確かに前王は自ら選び取ったのだと、それだけが分かった。
シンタローは具合が悪くなったことを黙っていた。けれど前王は気付いていたのだ。そして追い詰められたのかもしれない。ふらふらと迷う政に、官は不満に思う。税を軽くすればそれだけ国庫が困窮し、必要な設備はまともに民に与えることができない。蓄えがなく、いざというときに民に施せない。
官が前王に顔をしかめる、前王が官に萎縮する。政がうまく進まなくなり、そして極めつけに麒麟の不調。
新王を望む声にシンタローは最初は耳を塞ぎ、後宮に閉じ籠った。不甲斐なく、情けなく。
けれど黄海側の里に妖魔が出た、災害が起こったとバタバタし出す官や、生活が細っていく民の声。麒麟は慈悲深い、故に民の悲痛な声となると無視ができない。
シンタローが引きこもった二年、神籍に入っているものなら短い時間。けれど民はそうじゃない。二年も不作が続けば、それは甚大な貧困だ。すでに飢えに喘いでいる者も少なくない。
そうなればシンタローにはもう前王を惜しむことはできず、ただ王を探す使命に突き動かされるだけしか許されない。

眼下の田圃には前王が居たときより実りが少ない。もう王を探して三年、シンタローが引き込もっていたのを合わせて五年。前王の行いが今までの中でマシだったため傾ぐ速度は常より遅い。けれど確実に傾いでいっている。
妖魔もぽつぽつと出ている。黄海側の盧に行っただけで、シンタローは真っ青になった。血の臭いがうっすらと空気中に漂っていたせいだ。
シンタローは絹ではなく、今では胞を来て、青い獣に乗っている。空を掻く脚に合わせてぐんぐん眼下の世界が移り変わっていく。
エネ、とシンタローは使令を呼んだ。

「まだいくらと来ていないのに、もうばてたんですか、ご主人」
「ばててない」
「ま、エネちゃんはもうちょっと走りたいので我慢してください」

エネは女怪ではないが、一番長くいる使令だ。だからか妙に気さくな上、主であるはずのシンタローによく歯向かう。言い返したシンタローをけとけとと笑う声は可愛らしい女の声だ。
妖魔には雌がいないはずだが、なにかの天変地異か、エネは雌だ。こぞって狩ろうとした猟尸師は多かったが、すばしっこく気性が荒い、そして玉で酔わないときた大物だから誰もが諦めてついには噂だけになっていた。

「どこへでも走りますよ」

エネは明るく言ってみせた。シンタローが呼び掛けたのはエネを気遣ってだと気付いている。
もうかれこれ太陽が昇ってからどんどん地の果てに沈んでいくまで、ずっとエネは走り続けていた。ごう、ごう、と獣特有の荒い息はシンタローの耳に届いている。けれど否定されればもう引くしかない。
シンタローもエネは焦っていた。国が傾ぐのは徐々に早くなっていっている。まだマシな方だと言う者もいるが、早々に見切りをつけて他の国へ流れていっている民は確かにいるのだ。
シンタローは前王を忘れられない。けれどそれが麒麟の慈悲が示すことなのか、それとも達することはできなかった責任感からなのか、もう朧気だ。豊かになってほしいと願った声はまだ耳に焼き付いているはずなのに。
シンタローは沈んでいく太陽を見送る。今日も恐らく無理なのだろうと。
エネはまだ走る、朝より落ちた速度で。そしてなにも言わなかった。シンタローが自分の背で我も知れずに悲痛に顔を歪めたことなど。

セトの親は隣の国へと移り住んだ。けれど移り住んだ瞬間その国の王が倒れ、妖魔に襲われて死んだ。両親はほとほと運がなかった。セトだけは国へ戻り、孤児として里家へと置かれた。里家には他に同じ歳の二人の孤児、キドとカノが居たため、慣れないことはなかった。
田圃を貰うには歳が足りない。家のことはキドがするため、里家の田圃や畑はほとんどセトが預かっていた。呼ばれればカノに預けて、他に雇われに行くこともある。
幼少期のセトは病弱で気が弱く、周りや親から疎まれていたために、朱氏に売られなかっただけまだ運が良い。今じゃそんな気配を見せないが、昔は色々と特殊なことで苦労した。
人の記憶思考、それを瞬時に読み解く目は妖魔の目だと言われ、親は冷遇されていた。セトには大丈夫だと言って笑ってみせたが、日に日にセトに辟易していったのは目に見えて明らかだった。
親が嫌いか、憎いかと言われると、そうではない。だが、良い親ではなかっただろうとセトは思う。
今日はどこにも声をかけられなかったため、セトは畑の世話をしていた。たまにカノに預けることはあれど、世話はほとんどセトがしている。セトが世話をした方がよく育ち、よく売れた。それも一重に目のお陰だ。鳥にはあまり降りないように言い、他の動物にも伝えて貰う。これで苦労を強いられてきたが、今ではないと困るのだから、人とは結構な生き物だ。
日照りが続いたり妖魔が出たり、この国も傾いでいっているが、まあまあの出来だと思う。うん、と頷いて離れ、切った枝は持って帰る。
セトが望んでいた普通の暮らし。それが実現できていることに、満足感はある。けれどたまに、そんな満足感にすかっとすきま風が入るのだ。
夢とは言えないが、セトにはやってみたいことがあった。けれどそんな余裕はない。ましてや里家にいる身でそんなことを言い出すことはできない。
周りは優しい、仕事もある、田圃はもうすぐ貰える。なにが不満なのかと自分に問うが、なにも不満はないという答えに嘘はない。なにも不満はない、不満ではない、ただ知らないのだ。
セトは世界を知らない。十二国を歩きたい、なにかを見て、なにかを得たい。それはやはり、いけないことだろうか。
セトはひっそりとため息をついて、空を見上げた。夕暮れに、なにか青いものを見た気がした。

一瞬感じた細いそれに、シンタローは半ば飛び付くように進路を変えた。エネを無理矢理引っ張り、後にどんな仕打ちが待っているのかを心配することも頭になかった。見付けたと心が騒ぐ。蝕に拐われた胎果でなければと祈っていたが、蓬莱にまで続いていない。
不安と期待と歓喜が同時に頭をもたげ、シンタローを急かす。
エネに全速力で急がせて辿り着いたのは一つの里だった。他の里の田圃や畑より実りが良いのが頭上から分かる。王気はそこからシンタローの元まで感じられる。待っていられずエネに下降を命じかけたが、エネが慌てて少し浮き上がった。

「ちょ、ちょっとご主人!私が妖魔だってこと忘れてませんか?!」
「......あ」
「もう、あんな平和な里を一時とはいえ掻き乱さないでください!少し離れて降りますから、そこからは歩いて行ってくださいね!」

失念していたことを指摘され、シンタローはエネの言う通りにした。近くに降りてもらい、旅人として見られるように軽くはない荷物を背負った。影にエネが入ったのを見届けて、シンタローは里に歩き出す。近いと、漠然と感じる。転変して駆けて迎えに行こうかと一瞬思うが、前王が頭を過ってそれができない。また、女王だったら。また、優しすぎる王だったら。不安は尽きずに浮かび、シンタローは黙々と歩く。
黒く長い髪が鬱陶しく風に揺れる。鬣だから伸ばさなければいけないが、そもそもあまり転変しないのだからいっそバッサリ切ってしまいたいとも思う。黒麒だから、とやけに持て囃されるが、結局ただの色だ。
もう少しで里に入るといったとき、なにか胸騒ぎがつく。立ち止まって盧を見れば、血の臭いが漂ってきた。ぞわっと鳥肌が立ち、恐ろしくて地に足をつく。汗が浮かび、吐き気が込み上げた。

「台輔!」
「王、が」
「ダメです!ご主人は特に血に弱いんですよ、濃い臭いだけでも障ります!」

けれど、と続けようとしたシンタローに、エネはダメだとまた繰り返す。そこまで濃くはない、恐らくまだ遠い妖魔。けれどここに時期ここへ辿り着く、そうなれば民が死ぬ、目の前で。そして王がいる。

「っ、エネ、走れ!時期来る奴を仕留めろ、使令をどれだけ連れていっても良い!」
「今から走ったとしても人目があります!私やコノハが出る方が、ずっと混乱を招くっ」
「じゃあオレが!」
「台輔は血に弱いんですよ!しかも来る妖魔はきっともう他を襲って血だらけのはずです、怨詛の血が一番障る!」

ならばどうしろと、とシンタローは影を睨む。けれどエネはこうなれば動かない。雌だからか、指令であるはずのエネは簡単には命令で動かないのだ。いっそコノハを飛ばそうかと思うが、コノハはエネがいなければ力加減が難しい。下手をしたら逆に被害が甚大になる。
王気は近い。王がいれば被害は少ないだろうが、けれど王がいるからといって誰も死なない訳じゃない。なぜ妖魔がと思わずにはいられないが、ここは黄海寄りだ。逆に今まで出ていなかっただけマシだろう。

「なんでこう、無力なんだ......っ」

前王を追い詰めて殺し、あまつさえ目の前で誰か死ぬかもしれないのに動けない。血が恐ろしい。十二国の中で、一番血に弱いと女仙に心配されたほどに。玉座は血とは無縁でいられない。けれど兵の剣を見ただけで崩れ落ちるほど、シンタローは弱い。

「アヤノ」

ならば血とは無縁で居よう、と、そう努力してくれた前王の名を呼ぼうが、それが加護になるわけではない。無力さが悲鳴を上げる。
血の臭いは、もう近い。

妖魔、と誰かが叫んだ。外へ飛び出し、その姿を見る。窮奇、と声を震わせて呟いたのは同じように飛び出していたカノだった。人を一人、すでにくわえている。

「里詞に!」

振り返って叫べば、カノとキドはすぐに我に帰って走り出した。セトもそれに続こうとするが、悲鳴が耳について立ち止まる。キドが気付いてこちらを振り返り、鋭くセトを呼んだ。が、それが合図だったようにセトは身を翻した。二人の呼ぶ声が響く。
別にセトは戦いたい訳じゃない。いくら獰猛であるとはいえ知っている動物の姿が混じる妖魔でさえ、殺したくないと思う。けれど歩けない老人が、里家の隣に住んでいる。子供が一緒だったはずだとセトは思い出す。親がいなくなって老人が引き取ったのだ、悲しいが嬉しそうにしていた老人と、セトは何度も話し込んだ。まだ距離はあるとその家を覗き込めば、老人に説得されている子供がいた。早く逃げろと懸命に急かすのを、子供は首を振って泣きじゃくる。は、とまた窮奇へ目を向ければ、とても二人を連れて逃げることはできない。
ここは運が良いと黄海側から逃げてきた人間が言った。まだ妖魔が出ていないのだからと。いつかは来るはずだったのだ、王が倒れたのだから、いつかは来る定めだった。
逃げればよかったのかもしれないとセトは思う。この国から出ればよかったのかもしれない。けれどセトは結局この国へ戻ってきたのだ。諦めのような、安堵のようなものが、確かにそこにはあったのだ。帰る場所はここ以外ないのだと、本気で。
セトは窮奇が自身を捉えたことを悟った。次はセトなのだと、目が語る。目を使ってみるが、ただ食うという本能しか見当たらない。逃げ切れる気はしないが、里木に行くわけにもいかない。そうなれば獲物を失った窮奇はまたここへ戻るだろう。
手近にあった棒を掴むが、棒術ができるわけじゃない。だがないよりマシだろうと、セトは走り出した。窮奇も飛び掛かってくる。向こうは虎の跳躍に加えて羽根を持つ。逃げるにも応戦するにも不利だ。だが走る。窮奇が前へと降り立とうとするのを目を使って先読みした。横をすり抜け、蹴ろうと上げられた後ろ足を辛うじて避けれる。ぐる、と苛立った唸り声。
けれどそれだけでセトは息が荒くなっていた。窮奇の虐殺の記憶にとうに芽生えていた恐怖心が伸びていく。がた、と震えた手に一瞬意識を取られたのが、隙となった。
しまったと後悔しようと遅く、立ち上がろうとした脚は準備がなくがくりと折れた。窮奇は飛び上がり、真っ直ぐにセトへと向かう。
死ぬ、と直感した。

窮奇は目の前でもんどりうって倒れ、すぐに立ち上がった。セトがは、と目を見開く。そこにいたのは妖魔か妖獣か分からないが、ひらすら青い獣だった。その獣に向かって咆哮を上げる妖魔。だが、明らかにさっきより殺気が減っていることに気付く。

「去れ」

女の声がしたが、それが目の前の獣からとは一瞬気付けない。しばらくうろうろとしていたが、窮奇はついに口惜しそうに羽根を広げ、黄海の方へと去っていった。セトはぽかりとその様子を眺めているしかない。青い獣はセトを一瞬見て、なにやら呆れたようだったがすぐに興味を無くしたようにどこかへと走り去る。
それが見えなくなった頃、セトはようやく我に帰った。え、と困惑の声を上げて、動く手を見詰める。

「どういう、ことっすか、ね」

呟いてもなにも分からず、セトは次に握ったままだった棒を見る。兎に角命の危機が去ったのだと思うと、どっと体の重みが戻ってきた。どさ、と地面に座り込んで痛む肩を見た。青い獣に吹き飛ばされる前に、窮奇が引っ掻けたのだろう。血が滲んでしばらくは支障がありそうだった。

「運が良い......」

呟いて、つくづくセトはそう思った。
青い獣のことは話す気になれず、戻ってきた二人にこんこんと怒られてその日は終えた。老人には大層感謝され、涙ながらに手を握られ平伏さんばかりにお礼を言われた。

シンタローは里に妖魔が入ったすぐに打開案を打ち立てた。民は里木に行くはずだから、そうすれば見られないだろうと、折伏はできないが、エネが行くだけでそれは変わるはずだろうと。
もはや命令ではなく懇願に近かったそれに、エネは渋々折れて里に走った。ちょうど人間が窮奇を避けているのを見て、無謀だと目を疑い、それに飛び掛かる窮奇にすぐさま体当たりを食らわせた。人目に晒されたくはなかったが、一人ならば良いだろうと。実際こうして話していてもシンタローはエネを責めていない。
体当たりをしただけでも、血の臭いが移ったかもしれなかったことに気が立っていた。無駄に殺してシンタローを苦しめるのはエネの本意ではないのだ。わざと殺さないのだと態度に出せば、窮奇はすぐに逃げ帰ることは実力差を考えれば当然の結果だった。

「無謀、だな」
「びっくりですよ、窮奇に立ち向かうなんて」

エネが呆れて言えば、シンタローも難しい顔をした。幸いにも血の臭いは移らなかったようで、シンタローを乗せて帰るのに支障はない。
シンタローは血の臭いを纏った妖魔が近くにいたせいか、今も真っ青な顔だ。今回は妖魔襲撃を目の当たりにしたせいか、そんな体調でも王がいるのだと突っ込んでいきそうだったシンタローを宥めて連れ帰っている。
王が見付かってもしばらく様子を見たいと言ったのはシンタローだ。王を変えることはできないとはいえ、無理矢理連れていくものでもないというのがシンタローの持論だ。アヤノの時もそうだったなとエネは思い出す。
アヤノの親に教えを乞うという体で近付いて様子を見、王であると話をしたのだ。無理強いはしない、寿命まで待つとまで、シンタローは言ってみせた。それがどれほどの無理と苦労か。幸いアヤノはすぐに王として立った。
けれど、とエネは思う。誰もが受け入れられるわけではないのだと、エネは知っている。
新王がもしこれを拒んだら、しばらくは大丈夫でも恐らくシンタローは弑られる。王を選ばない麒麟に、意味はない。
エネがシンタローの使令になったのは、麒麟の力が欲しいわけではなかった。安全が欲しかったのだ。雌の妖魔はいない、だからエネは狙われる。力はあったがそれだっていつ上が現れるか分からない。使令でいれば狙われない。だがエネほどになると普通の麒麟では折伏できない。だから黒麒のシンタローでなければいけないのだ。
それをシンタローが分かっているのかいないのか分からないが、エネはシンタローを失うわけにはいかない。利用していると言われるとそうだが、そうであってもエネはシンタローに感謝している。大事に思っている。
こんなに弱くも恐ろしく強い存在を、容易く役立たずとは言わせない。ましてやシンタローを弑らせるなど、断じてさせない。

後日になっても里には血の臭いが残っていた。数日経ってやっと入れるようになったと分かると、シンタローはすぐに手配をして里家に新しい孤児として里に入った。旅人より、その方が違和感がない。

「ご主人が孤児って、なんかほんっと似合いませんね」
「うるせえ」
「言葉遣いは大丈夫でも立ち振舞いに気品がありすぎですって!ご主人に気品っていうのもまた似合わないんですがねっ」
「だからうるせえ!」

女仙によって育てられたのだから気品や礼儀は骨身に染み込んでいる。今さら取っ払えと言われてすぐできるほど簡単にはできない。仕方なくそこそこの家だったが災害によって家を無くし、家族も妖魔によって亡くしたという設定がエネによって作り出された。この設定ができるまでに五回ほど余計な設定を削る削らないで口喧嘩が起こったが。
そしてようやく里家に迎え入れられる日には、妖魔襲撃から一月経っていた。
エネの足によってそこそこ離れた場所で降ろして貰う。さすがにそんな設定の子供が慣れているはずのない旅で疲れていないわけがない。そこからはシンタローが自分で歩き、里へと向かう。

「ご主人、まだ里についてません」
「知ってる......」
「もー、いっつも私に乗ってるからそんなにダメダメなんですよ!」
「もういい、疲れた。エネ乗せろ」
「ご主人が立てた予定なんだから自分で歩く!ほらほら!」

日頃の運動不足が祟った。シンタローは三分の二といったところでばてにばてていた。シンタローが立てた予定とはいうが、距離設定はエネだ。もう疲れきっているシンタローはううと呻きながら立ち上がった。これでは昼につくはずが日が暮れる。頭上の日はもう昼前になっていた。
エネに叱咤激励されながら歩くことしばらく、昼を越えて日の暮れかけ、やっとシンタローはその里を目に入れることができた。

「しぬ」
「神に近いくせにだらしないですね......」
「オレは特別製なんだよ」
「それ暗に不良品って言ってますか」

聞こえないと耳を塞ぎ、シンタローは里に辿り着く。王気が確かにあり、疲れも忘れてホッとするそれに浸る。里家に行かなくてはと思うのだが、足は動かずにシンタローはそれを堪能した。
途方もない安堵感、安心感、歓喜。不安は確かにあり、前王のことは頭から離れない。けれど今だけはとシンタローはその里を眺めた。良い里だと目を細める。
エネは不自然にむっつりと黙り、影の中でむっと口を結んでいた。

夕日がその長い髪に当たる。セトはしばらくその姿に見惚れた。平凡な顔立ちだが、うっすらと浮かんだ笑みが柔らかく、なぜか引き込まれる。さっきまで疲れきっていた旅人の様子はなく、不思議な雰囲気を漂わせている人間。昼頃につくと言っていた新しい子が来ないと心配そうだったキドを思い出す。聞くに家も家族もなく、里家へと来たらしい。切なそうに目を細めたその横顔に、セトは自然と近付いていた。

「あの」
「っ......?!」

びくっと怯えたように肩を震わせたその人がセトをぎょっと見てはくりと口を動かした。よほど驚かしたのかと申し訳なくなり、つい口を閉ざしてしまった。気まずい雰囲気が二人を包む。しかし足音によってその雰囲気は消えた。

「セト、なにをやっているんだ?」
「キド」
「ああ、里家の新しい人か?」
「えっと、たぶん」

頷けばキドはそうかと新入りと向き合った。まだセトをじっと見ていた新入りはようやくキドと向き合う。強張っている横顔に緊張しているのだと分かった。

「如月伸太郎だよな」
「ああ......」
「俺は木戸、こっちは瀬戸。あと鹿野って奴がいる」
「よろしく」

無愛想でぶっきらぼうだが、よくあることだとキドは慣れたように返した。実際キドもカノも、セトだって、初対面はこうだった。
セトはシンタローに手を差し出す。シンタローがびくりと怯えたようにその手を見て、恐る恐る握るのを見る。さっきは普通に声をかけたつもりだったが、驚かしすぎてしまったようだった。

「確か俺の二個上っすよね、よろしくシンタローさん」

握って笑えば、シンタローはセトの顔をじっと見詰めて少し笑う。それがさっきの顔と一緒で、しかもそれが真正面から。セトは思わず顔に血が上るのを感じて困惑する。

「よろしく、セト」

その言葉の後、すぐにするりと手は離された。キドについて歩くシンタローの背中を見詰める。なんとなくセトは、シンタローは大事にされてきたのだろうと思った。


シンタローが血に弱いことはすぐに知れた。というのも到着したその日、キドが浅くだが手を切ったのだ。それを見た時のシンタローといえば、真っ青な顔で今にも倒れそうだったと後にカノに面白おかしく語られた。血に無縁とは言いがたいがまだマシだろうとシンタローはキドの手伝いとして仕事を貰った。カノとセトで力仕事は事足りていると言われ、甘えてシンタローはその役目に就いた。

「ご主人もそろそろ体力つくんじゃないですか?」
「筋肉とかつかねえかな......」
「あ、いや、それは......すいません」
「親の死にでも触れたような声を出すな......っ」

筋肉質ではないことはとっくに分かっている。水を汲んできている途中であるため人はいない。だからこそシンタローはエネと会話ができていた。
だがそんないつも通りの会話の中でも、シンタローには不安があった。里家に来て早くも一月だが、シンタローはセトにあまり近付けない。王気のせいではない、それならば逆に麒麟にとっては近付きやすい。
そうではなく、最初に会ったときからセトには血の臭いがあったのだ。セトに声をかけられるだけでも磨耗するようなそれは一月経っても薄まらない。それは常にセトの肩から漂い、シンタローの精神と体調を削る。

「窮奇には毒はないはずなんですが」

エネがシンタローの不安を察したように襲撃してきた窮奇について話す。

「そういうのを相手にしたとかは」
「有り得ますが、すぐに死に至ってないところを見ると違うかと。まあ随分民を襲っていたみたいですから血で薄まったのかもしれませんし、一概には否定はできません」
「そうか」

難しい顔で黙ったシンタローに、エネは影から見詰める。

「やはり、あの人が王なんですね」
「ああ、間違いない」

確認するように聞けば、シンタローは強く頷いた。立つべき新王は、セトだと。
良いのだろうかとエネはセトとの初対面を思い出した。あんなに無謀で自己犠牲が高い王とは。前王の二の舞となれば、シンタローは立ち直れない。

窮奇に襲われてからセトの肩の傷は治らなかった。むしろ日毎に深くなっていくような気がしていく。包帯を解くと傷の周辺がおぞましい色に変色していて、いくら洗おうと薬を塗ろうと傷は良くならない。
その傷のせいか、最近はすぐに疲れるようになってきた。今も少し働いただけでくらくらと視界が眩む。血を恐ろしがるシンタローがセトに萎縮しているのも、これのせいだろう。それは酷く、寂しい。
肩を押さえて木の根本に座り込む。けほっと軽く咳き込むと口の中で血が広がった気がしたが、気のせいだと飲み込んだ。
大丈夫だと言い聞かせ、立ち上がる。兎に角帰らねばと荷物を背負おうとしたが、力が入らない。手が痺れてひどく目眩がする。セトはまた座り込んで目を閉じる。
死ぬのだろうかとぼんやり思う。たかが爪が引っ掛かったくらいで死ぬのだろうか。やはり自分は運が悪かったんだなと、確認した気分だった。
この分であれば死ぬにしてもまだ日があるだろう。そう納得してもう一回立ち上がった。今度は力が入り、荷物はなんなく持ち上げる。
すぐ側の里家に歩けば、足取りもしっかりとしていた。大丈夫、まだ誤魔化せる。そう思いながら家屋に入るとシンタローが桶を持って立っていた。長い髪を結ってセトを迎える。それだけなのに、やけにホッとした。帰る度に、彼はいた。
しかしその安堵もすぐにシンタローの表情によって一変した。真っ青になった顔がこちらに近付いて、セトを引っ張る。

「え、シンタローさん?!」
「血の臭いがする」

ぎくりと震えたのをシンタローは感じ取ったのだろう、責めるような目にセトは慌てて言い繕った。

「いえ、口の中を切っただけで」
「もっと濃い」
「えっと」

セトは嘘が得意ではない。そのため、もう言い訳は尽きてしまった。シンタローの表情は真っ青な顔でも鬼気迫るものがあり、セトは目を逸らす。

「大丈夫っすよ」
「大丈夫じゃないだろ」
「大丈夫」

強く言い返せば、シンタローはぐっと言葉を詰まらせた。自分に言い聞かせたようなものだったが、シンタローはまるで叱られた子供のように眉を下げる。ダメだ、と呟くように言われた言葉に、セトは笑ってみせた。純粋に心配されたことは嬉しかった。けれど、と首を振る。

「まだ、大丈夫」

シンタローはうなだれ、口を結んだ。引かれた腕を逃がし、シンタローから離れる。臭いだけでも真っ青なシンタローの方がセトには心配だった。

シンタローは荒れていた。行動が、ではなく、心が。影を通してエネには分かる。コノハがそわそわと落ち着かない。エネも具合が悪く、落ち着かない。
シンタローが一人になったのを見計らい、エネは影から飛び出た。突然のエネの登場にシンタローは目を向けただけでなにも言わない。まだ出れることにまだ平気かとホッとした。

「セトが弱っていっている」
「侮りました、結構演技がお上手で」

冗談めかして言ってみるが、エネは内心悔しくて堪らない。元々騙す騙されるは自分が関係している場合、気に食わないのだ。
けれどそれは気が立っているせいもある。シンタローは現在病んでいる、使令であるエネが苦しいほどに。

「なんでだ、王だぞ」

呆然と呟いたシンタローが自分の言葉に気付いて歯を食い縛る。原因がよく分からない上にどんどん手遅れになっていっているセトの状態に、シンタローは焦って困惑していた。
王は天帝の加護があり、滅多なことでは死なない。だがセトは麒麟であるシンタローが側にいようと関係なく死に落ちていっている。
セトは今朝ついに体調を崩し、キドとカノに休まされていた。

「妖魔のものを治せすのは、そこらじゃ無理ですよ。宮に連れていっても治療の手があるとも......」
「分かってる......っ」

忌々しげに吐き捨てるシンタローにエネは頭を下げた。さすがにまだとはいえ王のこと、気迫がじわりと滲み出ている。けれどその感情すらシンタローの体力を容赦なく削っていた。連日血の臭いを嗅いでいるのだ、例え一月の半分程度とはいえ十分にシンタローを苦しめている。

「やはり神籍しかないかと」

シンタローの顔が歪んだ。神籍に入れば、まず怪我はしにくく病気で亡くなることはない。すでにある怪我も、仙水を使えばすぐに治るだろう。

「これが天帝の思し召しか?」

吐き捨てるように、シンタローは言った。まるで王にするために、シンタローの退路を絶つように。シンタローが顔を覆い、表情が隠れた。

「オレは引きずり込むしかないのかよ」

エネはシンタローの小さい声に、大人しく影に戻った。
麒麟は王を選ぶ。そして王は、それに抗えない。

体調を崩してからは落っこちるように悪くなっていった。血が滲み、貧血が毎日起こる。なんの毒なのか分からず、解毒の仕様がないと匙を投げられた。
肩の痛みで毎晩魘されて起き、その痛みに疲れて眠り、また魘されて起きるを繰り返す。お陰で常に睡眠不足が付きまとい、精神も体も疲弊していく。
もう体調不良などという言い訳はとっくに通用せず、セトはベッドに押し込められた。
天井を見上げて思うことは、ひたすら両親の死に際だった。両親の前に大勢襲った後だったらしく、満腹な上にそこまで肉もないセトに、妖魔は興味を払わなかった。今回ばかりは、どうやら妖魔には十分な肉に見えたようだが。
泡と血を口から吐き出して、妖魔に首に噛みつかれてぶんぶんと横に振られていた恐ろしい死に顔。ああやって死なないだけマシかもしれないとも思うし、どうせなら食われたかったとも、セトは思った。こうやって迷惑をかけて死んでいくのかと思うと、申し訳ない。
未来に死は視野に入って、もう逸らすことはできなかった。
たかが爪、されど毒。ふ、と苦笑すれば静かに誰かが入ってくるのが分かった。

「......珍しいっすね」
「色々と、あるんだよ」
「みたいっすねぇ」

苦労して起き上がり、セトはシンタローを見た。手伝おうと手を伸ばしたのか、けれど触れられなかった手が下に降りていた。可哀想なくらい真っ青な顔に、我慢していることが知れる。

「治るのか」
「無理だって、言ってたっす」

分かりきっていたことだ。そんな落胆よりお金は要らないと言ってくれたことの方が申し訳ない。
シンタローが重々しくそうかと頷く。吸って吐いている息すら重そうな声だった。
血の臭いが充満しているのに、よく耐えている。会って一月ほどだが、それなりに分かっていた。向こうが分かっているかは分からないが。

「シンタローさん、もういいっすよ」
「なにが」
「血、臭いだけでもうダメでしょう」
「ダメじゃない」

シンタローに対して、子供のようだと思うときがある。こうやってやけに頑固で、言い返す言葉が短い。
キドやカノには言えることやすることは言った。シンタローに言うことは、特にはない。ないのだが、無理にでも居座るシンタローに負の感情は起きない。

「このままじゃ死ぬのか」
「これ以上なにもできないんすよ」
「死ぬのか」

死という言葉にすら震えているようだった。震える体は今にも手をついて支えきれずに落ちていきそうで、ハラハラする。
死ぬのか、と言われれば、死ぬのだと答えるしかない。死というものからは逃れられない。平気だろうかとセトはシンタローの頬に触った。払われることはなく、シンタローは甘受する。

「死ぬ時は死にます」

言い聞かせるような響きになってしまったが、シンタローは不快そうにはしなかった。

「それが来るんです」

それだけだ。いやそれだけではないが、それだけだと思い込む。生まれ変わりなど一個も信じてはいない。だからこれで終わりなのだろうと分かる。

「したいことはないのか」
「うーん、旅とか、一回はしてみたかったっすね」

黒い目がひたりとセトを見るのが、好きだと思った。そんなことは滅多になかったが、最初に見た笑顔はたった一回だけだったので、それに比べれば多い。

「死にたくないって、言え」

シンタローはやっと口を開いた。懇願の響きが、広くない部屋に落ちる。懇願にしては随分な命令口調だとセトは思わずきょとりとした。

「神籍に入れば助かる」
「無茶を」
「入れる」

断言され、セトはシンタローを見た。真剣な顔に、冗談の色はない。本気なのだとセトはぼんやりと思った。驚くことができなかったのは、血が足りず朦朧としていたからかもしれない。
シンタローが立ち上がって紐を解き、髪をほどく。瞬きの前には確かにあった人間の姿が、次には黒い獣に変わったことさえセトを驚かせるには足りなかった。足元で黒いすらりとした獣が膝をついて頭を下げる。

「ーー天命をもって主上にお迎えする。これより後、詔命に背かず、御前を離れず、忠誠を誓うと誓約申しあげる」

その言葉を知らないわけではなかった。まさかという思いがあり、けれどそれは激しくなってきた痛みの濁流に揉まれて消える。
どういうことかは分からないが王は麒麟が選ぶ。見たことはなかったが、これが麒麟だとセトは確信した。痛みの波に、その先になにがあるのかを考える暇はない。

「なんて、言えば」
「一言許すと言えば良い」

獣の姿だが、シンタローがとても複雑な表情なのだろうと分かった。王になれと言われている、そうなれば助かると。助けたいと、慈悲の生き物が言う。
けれど生命の繋ぎより、セトには酷く喉の乾くような渇望があった。

「ゆるす」

その言葉のあと、セトの意識は掻き消えた。なにかに運ばれたような気もするが、定かではない。
ただ自分の体のどこかが切り替わって壊れてしまったと感じた。もう戻れないのだという確信だけが、意識をなくしたセトに宿っていた。

シンタローはそのままセトを運んだが、宮に着いた途端倒れた。使令が出せないほど病んでいたシンタローは、セトの血に完全に当てられたのだ。シンタローが目覚めたのは、セトが完治してからだった。
そこからは大変だった。台輔が王を連れて帰ってきて、宮内はやっとかと安堵に包まれた。だが肝心の王は怪我、台輔も病んでいる。宮は混乱し、混乱に乗じて不穏な噂が行き交った。シンタローが起きてからはその噂は一つ残らず潰し、もはや引くことのできないセトは天帝に誓いを立て、白雉が一声鳴号後、宮へと移り住んだ。州から行方不明の連絡が入り、セトは慌ててキドとカノは宮へと招いて相談し、仙籍へ入ってもらった。

「帰せと言われるかと思った」
「へ?」

四苦八苦して書かれていることを理解しようとしているセトに、ずっと思っていたことを言ってみる。なんのことかと見てくるセトに、シンタローは言い淀む。
セトが登極して早くも半年が経った。また政ごとに疎い王かと官ががっかりしている空気はまだ強く香っている。

「半ば無理矢理王にしたようなもんだったろ」
「そうでもないっすよ、俺だってなにも死にたかった訳じゃなかったんすから」

ああ、と頷いて明瞭に答えるセトに、シンタローは顔を伏せた。だがそれは、言ってしまえば死なないためにはそれしかなかったのだ。それを目先に掲げれば、誰だって飛び付くだろう。
シンタローの表情が沈んだままで、セトは眉尻を下げる。

「俺こそがっかりされると思ったっすけど」
「......ああ」
「いや周りからじゃなくて、シンタローさんから」

政務中に名前で呼ぶなと訂正を今まで何度入れたか。それが聞き届けられたことはないが、一応訂正してからシンタローは答える。

「前王はお前以上だった」
「それは酷いっすね」
「ああ、酷かった」

自分の能力くらい分かっているのか、セトは真顔で頷いた。あまりに真剣な顔に、シンタローは可笑しくなる。小さく笑い、何度説明しても理解しない少女を思い出す。
それに比べてセトはマシだ。一度説明すればどうにか頭に叩き込む。

「オレは特別優秀だそうだから、そういうことなのかもな」
「天意っすか」
「そう、天帝の意のままに」

不自由じゃないかと言われれば、そういうものだと答えるしかない。麒麟は国に縛られている、だから王を国に縛り、それを分ける。
麒麟は道を踏み外すことができない、失道はあくまで王からもたらされる。王は道を踏み外す、だから失道をもたらすことができる。だが麒麟が死ねば王は死ぬ。生は常にどちらの手にもある。

「じゃあシンタローさんが俺を連れてきたのも、天意っすね。俺が死にかけたのも天意、俺が許したのも天意」
「まあそうだろうけど」
「人間っていうのはね、操り人形でいたくないと言いつつ、都合の悪いことは天の操り人形だからと責任を擦り付けているものなんすよ」

セトはもう理解することを止めたのか、卓から窓の下に目を移している。よく見えないのか、立ち上がって下を見出す。雲海の下には関弓があった。
シンタローは見下ろすセトの背中を眺める。

「責任転嫁をするなと人は言う。けれどそうしないと立ち上がれない人がいるのも、また事実なんだと思うっす」
「オレがそれだって言ってようだな」
「そうっすよ。俺は運が悪かったと思っているから、天意なんて信じてないっす」

ぎょっとしてシンタローはセトの言葉を諌めようと口を開いたが、声が出ない。官に聞かれれば、罰当たりなと騒がれるかもしれない。また噂を立てられたのでは堪らないと辺りを見回すが、彷徨く人間はいなかった。

「主上」
「そう怖い声出されても、シンタローさんが選んだのはそういう王っすよ。罰当たりと言うなら罰を当てて、存分に天は狭量であると示せばいい」

シンタローだって天意など、感じていなければ信じていない。けれどそんなことを言えば目くじらを立てる人間がいる。それだけでシンタローは口を結べる。
けれど振り向いたセトは堂々と、いっそ呆れてしまうくらい笑って言って見せた。

「自分のことくらい自分の選択である、そう言って構えていなきゃ頼りにならないじゃないっすか。天意があるから豊かになるとは限らない、じゃあ俺はいっそいない方がいいのかもしれない」
「そういうことを軽く言うな」
「けど政に疎い俺には王であることしか意味はないんすよ。麒麟に選ばれたから王で、でも周りは心から俺が王とは思っていない。いない方がいいなら、せめて俺は頼りになると思われることが必要なんだと、そう思うんです」

シンタローはなにも言えない。そこまでセトが考えていたことに驚いたのだ。もっとのほほんとしているとばかり思っていたため、その言葉に圧される。

「民の豊かになりたい気持ちは分かる。豊かにしてくれと俺に願っているのだから、豊かにしてやりたいとも思う。それが出来るだけの能力は、残念ながらないんすけどね」
「けど、......」
「王を作るのは責任を上へ押し上げることっす。この場合、責任と信頼は直結している。俺は願いっていう責任を請け負った、だから勉強する、出来る人に仕事を任せる、命令する。そうして責任の消化を行う。だけど頼りにならないと責任すら託されないことになれば、俺は王ではない」

にこりと笑った顔に、シンタローは肌が粟立った。ぎくりと芯が冷えるような、高揚するような。不味い酒を飲んだときと似ている。ふわふわと興奮していながら、口が苦い。

「俺は王になりたい」

セトの声は強く、シンタローは一瞬頭を下げるべきか迷ったが、琥珀の眼光を見返すことで耐えた。

エネはなにかが可笑しいと思った。セトが王になって半年を越えたが、シンタローの具合が芳しくないのだ。失道ではない、こんなに早くになるほど、セトは酷い王では断じてない上に、有り得ない早さだ。けれどシンタローは顔を青くしている。
今も誰もいないことを確認してふらりと壁にもたれかかった。

「ご主人」
「平気だ。兎に角数日、モモに会いに行くからできる仕事は処理していく」

可笑しいとエネは危ぶむ。
アヤノ、前王のときもそうだった。シンタローは急に具合が悪くなっていったのだ。それにアヤノの政は確かに上手く進んでいなかったが要領はやっと掴めてきていたはずである。慕う官だって少なからずいた。
けれど失道の予兆のように、シンタローは具合を悪くしていった。国は傾いでいなかったはずだ。なにより政に奔走していたアヤノが、いくらなんでも気付くのが早すぎる。人のことにはよく気付いていたが、あれほどの勉強と政の中で、しかもシンタローはバレないようにと極力前王に会っていなかったというのにだ。

「お前は置いていくから」
「むう、しっかたないですねぇ!」

今さらになって違和感を感じるのは遅すぎるほど遅いが、今であっても気付かなければいけなかったのだ。
シンタローの言葉に影から飛び出した。

「おい、なにも今じゃなくても」
「ご主人政務ばっかで詰まんないので、散歩がてらにぶらぶらしてから王の四苦八苦の姿でも見ていた方が良いです」

じゃあ、と飛び出すと、シンタローの呆れているため息が感じられた。それがまるでえ病人の呼吸のようだとエネはぼんやり思う。

「どうしたんすか」

散歩などせずにまっすぐ向かったのはセトのところだった。もうとっくに顔を合わせているので、セトは驚くことなくエネを迎え入れる。

「いえね、ちょっとした緊急事態ですよ」

台輔には内緒の、と付け加え、エネは気付いたことを全部話す。話している間にシンタローが来ないか気を張っていたが、幸いにも話し終わった後もシンタローは来なかった。
なるほど、と頷いたセトを見て、随分な男だとエネは思う。随分な、執着だと。
麒麟は王の半身だ。だが目の前の王は、麒麟を半身というよりほぼ自分と同一のものと考えている節がある。
恐らく、と、エネはあまり当たってほしくない想像をした。この男は倒れるとき、シンタローを連れていくのだろう。次代の王などにやる気は、毛頭ないのだ。
ならばとエネは決意する。
セトの代が少しでも長く続くようにするまでだ。

それは夜だった。満月は欠け、三日月がにたりと笑う。そろそろと歩く人物は、慣れていないのか衣擦れの音を隠しきれてはいない。微かにだが気配もあり、足音もある。だがそれで良かった。この宮には人間はいない、ただ麒麟だけがいる。
逸る気持ちを抑え、やっと台輔の部屋へと辿り着く。持っていた短刀を抜き、そろりと入る。寝ている台輔を見て、やはりと頷いた。それは毎晩、台輔を見ていた。起きないかと思いながらも、何度も何度も。けれど起きたことは一度としてない。
短刀を指先に押し当て、皮膚を破いた。血が伝うのを感じ、血が床に落ちないように手で指を包む。そうして台輔に血を嗅がせた。すぐに具合が悪くなっていく台輔をずっと見ていた、そろそろ今日辺り病む頃かと検討をつけた瞬間、ぐる、となにかが唸る声がした。まさか起きて使令を出したのかと青ざめる。だが台輔が目覚めている様子はない。
なぜ、と思った瞬間、誰かの感心したような声が聞こえた。

「なるほど、それだったら国が傾いでいなくとも具合が悪くなるわけっすか」
「?!」
「少量だから具合を悪くさせたあとは窓を開けて換気すれば良い。それで前王には進言した、台輔の具合が悪そうだと」

赤い目が暗闇でうっすらと開かれていた。ぎゃあ、と叫び声を上げかけたが、すぐに誰かに猿轡を噛まされる。誰だと視線を巡らせた瞬間、空の牀榻が目に入った。
そして灯りが点る。

「台輔の世話役なら、そりゃ信用されたんでしょうね」

剣を持って卓に座っている王に、側仕えの女は目を見開いた。近くに台輔の使令である青い獣が毛を逆立てて女を見据えている。台輔の牀榻には色素の薄い髪をした猫のような目をした少年がくありとアクビをし、獣のすぐ後ろでは長髪の中性的な少女が立っていた。

「台輔に害を成したのだ、死刑でも温いほど」

王の言葉に女は膝をついて懸命に首を振る。涙を浮かべて短刀を放り、猿轡を自分で解いた。

「申し訳ございません!ですがこれも訳があり、私は家族を盾に取られて......っ」
「ほう?」
「弑逆など考えておりませんでした!ただ具合を悪くさせればいいと言われ、仕方なく!」

王が聞いているのを好機と取った。嘘などいくらでも並べられる。それに登極して一年、信じられる臣など少ないだろう。それに漬け込めば、と思うのだがなにか手応えが足りない。すかりと、王の反応は暖簾に腕押しをしているようだった。冷えている目が、赤い。

「玉座が欲しいのにまさか麒麟を弑るわけにはいかないっすもんねえ」

女は固まる。口を開き、嘘を探す。なぜか嘘がすべて空ぶる予感が、いや確信が膨れ上がる。

「側仕えが王になるには悪辣な王を弑逆することっすか。最初に出てきた噂は、シンタローさんは辿り着けなかったが全部お前から出ていた。それが潰され、しかも王は善良。では次に前王を追い詰めた方法であればと思った。今度は時間をかけて病ませ、いよいよ周りから隠し通せなくなれば、官は王を弑ることを考えるか王が退くだろうと」

牀榻に座っていた少年が良い脚本だと褒めるが、その顔はどこか不気味に写った。王は鞘を持って剣を引き抜く。抜き身の刃がしゅらんと音を立て、青い獣がいよいよ大きく吠える。

「そして台輔の角を封印し、偽王として立とうと」
「そんな、あの」

剣がまっすぐに女の喉元を捉えた。仙は滅多に死なないようにできている。病から傷まで、すぐに治る。
だから弑るには、一思いに首を跳ねることだ。

「我が国の麒麟に害を成し、王を追い詰めようとした罪は重い。幸い台輔は現在私用で数日は他国、血に怯えることもないだろうな」

いつもの優しげな表情はない。口調も変わり、別人のように視線で女を射す。恐ろしいと純粋な恐怖に女は震え出す。飲まれて温情を乞うことが出来ない。
切っ先が弧を描き、振り下ろされる。

首が胴と離れ、ごろりと転がっている。酷い死に顔だとセトはぼんやり思った。

「でもさ、怨詛ある血だらけの部屋にするのもどうなの。それに死臭とか」
「部屋は別に用意させてるっす、ここは閉め切るんで。仕事をある程度貯めて籠らせ、暫くはシンタローさんに近付かないことで乗り切ります」
「早いことで......」

死体を運び出していくのを見送り、カノの言葉に答えた。こういう輩がいるのだと分かってはいても、まさかこんなに早いとは。セトは顔にかかった返り血を拭き、酷い惨状になった部屋を見た。
色々と運び出したが、血だらけになったのを見ると、やはり罪悪感が出てくる。

「シンタローさんにバレたら怒られるっすね」
「愛想つかされて妹の国に引きこもられたりな」
「......絶対にバレないようにっ」

キドの言葉にセトは決意を新たにする。
エネはふんふんと嗅いでくしゅんっとくしゃみをした。シンタローが血を嗅いでいなければ、エネが血で障ることはない。汚れはするが、血がかかっていない分すぐに落ちるだろう。

「随分人を斬るのに慣れてますね」
「こんな能力を持っているとね、色々あるんすよ」
「目を盗むですか、正に正に」
「納得しないでほしいんすけどねえ」

エネに素直な感想を言われ、セトは少し複雑そうな顔で答えた。赤い目は琥珀に戻り、不気味な気迫はもはや欠片もない。

「こんなことを考える人は、まだいるんすよね」
「いるだろうな。玉座はさぞ魅力的だろう」

セトは笑い、目を伏せる。剣を払って血糊を落とし、鞘に納めた。随分前に持ったきりだったが、まだ手に馴染む。それをシンタローに語る気は、セトは一切ない。

「シンタローさんが選んだんすから、間違いなんて言わせないっす。玉座も民も土地も権も、誰にもやらない」

セトは静かに言う。政に疎く、苦手なのも本当だ。けれど腹を盗むことは、セトには容易い。それがいくら嫌っていることであれ、シンタローのためならば飲み込むことはできる。

「答麒」

国は悼国、名を盗王。
後に麒麟に惑い迷った王として、悼国に迷盗麒との言葉を残す。
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