125 | ナノ


夏休みを越えて秋になった。九月になると途端に気温が下がり、最近は秋がなくなっているなどと言われていたのが嘘のように涼しかった。
二年にもなると大体勝手が分かり、文化祭準備も捗る。担任になった楯山先生は数年前担当していた養護学級のMVPを取った出し物を披露し、これぐらい頑張れと生徒を励ました。けれどその裏には「理事長への出来る先生アピール」という魂胆が見え見えで、教室中から一身に冷えた視線を浴びさせられていたものだ。
けれどそれがゲームということで男子は大いに盛り上がった。そのゲームを対戦プレイしていた女子が今でも有名なゲーマーだったこともあり、憧れからかその案を拝借しようなどという輩が多数いた。しかし腕の立つゲーマーなどちょうどよくいるわけもなく、男子女子入り乱れに揉めに揉めた末、結局出し物は無難なカフェに決まった。
楯山先生は大層残念そうだったが、文化祭とはいえ製菓を目指す女子三人がケーキやらを担当し、素人とは思えぬ出来になっただけ素晴らしいものだろう。
ペンキ臭い美術室でベニヤ板を押さえ、トンカチの振動に耐える。とんからとんかん、校舎の至るところで聞こえるその音が最近は部屋に帰っても耳から離れない。しかしうんざりしている僕とは対象に、差し入れにとさっき女子が持ってきたオニギリをかじった男子はやる気に満ち溢れていた。
「女子が握ったってだけで旨いな......」
「あーはいはいよかったね。釘曲がってるよ」
「早く言えよ!おーい、バール貸してくれ!」
「雨宮は食わないのか、食うぞ?本当に全部食うぞ?」
「具入りより塩派」
「モテる男はこだわり派ってか!くそ!」
「いや意味分かんないよ」
成長痛に顔をしかめながらベニヤ板から手を離す。僕の発言にいっそうがっつき始めた男子に呆れながら、ペンキを取りに行った。
夏になってまた身長は伸びた。ブレザーもキツく、今じゃブレザーと言われなければもっぱら大きめに買ったカーディガンだ。しかし最近それもピッタリになってきた。小学生時代なかなか思うように伸びなかった身長は、今になってにょきにょきと真価を発揮している。そんな身長にそろそろ大体を越えたと満足になることが最近増えた。しかしその大体を指すのが同級生でないのが、目下の悩みである。
「そういえば今年もゲストを招いてるんだと」
「またどっかの政治家とかじゃないよな」
「わかんねえけど、まあ期待はできねえよなぁ」
ペンキを持って戻ると、クラスメイトがゲストの話をしていた。去年招かれたOBのゲストは政治家で、延々と日本のあり方について語っていたらしい。ビックゲストとだけ伝えられ、釣られた生徒は数知れず。クラスで僕とヒヨリだけは難を逃れ、二人で模擬店をぱたぱた回ったのは男子から裏切りと罵られたものだ。理不尽極まりない。
「どうせならモモちゃん呼べばいいのにな」
如月モモの話題に、ぎくりと体が強張る。うっかりペンキを溢しかけ、慌てて床に置いた。
「いや無理だろ、高望みしすぎ」
「でも文化祭前のコンサート、ここの近くだろ?可能性はあるんじゃ......!」
「ないない」
「ペンキ塗るぞ夢見すぎくん」
「できすぎくんみたいなノリやめて!」
げらげら笑いながら刷毛を取る男子に混じって僕も塗り出す。
最近気付いたが、僕はどうやら如月モモが苦手らしい。出演ドラマがやる時間帯にテレビをつけない、他の番組もことごとく避けている。如月モモが出ると知らずに録画した番組は必ず録画失敗になるほど。どうやら如月モモへの運はひたすら僕には向いておらず、それがまた苦手を上昇させているようだった。
一時間ほど経つと安っぽい看板は出来上がり、僕らはそれを持って教室に上がる。さっきまで如月モモの話をしていた男子たちは、今は有志発表は誰かの話題で盛り上がっていた。廊下を歩くと様々な飾り付けが目に飛び込んだ。僕らの教室は窓が外され、女子特有の飾り付けが施されている。中も机を引っ付けて白いテーブルクロスがかけられていた。
「ヒビヤ、次買い出し」
「は、また?!」
「あんたが一番ここら辺のスーパー事情に詳しいでしょ。お義兄さんが私物の冷蔵庫使わせてくれるって」
ヒヨリは楯山先生の義妹に当たること知ったのは最近だ。たまに呼び方が「先生」と「お義兄さん」でバラバラになっている。
ヒヨリが予算を分けて僕に持ってきた。一人で買い出しはこれで二回目になる。一人暮らしで更に自炊、そうなると主婦並みに安売りやタイムセールに強くなっていて、自覚しているがなんだか微妙な気分になった。
鞄を持って女子特有の丸い字のメモを受け取り、それを眺めながら教室を出た。後ろからいってらっしゃぁいとだらけた見送りが複数、僕の耳に追い付いた。
人使いが荒いと文句を言いながら男子から勝手に借りた自転車のダイヤルキーを回した。かちっと音がしてチェーンが外れる。
カゴに鞄を放り込み、自転車に跨がったところで校門の側に止まる白いバンを見付けた。ガラッとドアがスライドで開き、黒いスーツのぴしっとした女性が降りてくる。事務員さんが恐縮したように対応しているのを見て、ゲストの関係者だろうかと辺りをつけてみる。
ぎしっと錆びた音が漕いだペダルから響く。校門を通ろうとした瞬間、バンのドアの中に視線がなんとなく吸い込まれた。
バンの中にピンクのフードを被った、黒スーツの女性より若い女の人が座っている。その女の人がこちらを見ているのに気付き、声をかけようと口を開く。
しかし余所見をしていたせいで、歩道と道路の段差に情けない悲鳴が代わりに口から出た。がしょんっとカゴの中の鞄が跳び跳ねる。その鞄のチャックが空いているのを見て慌てて片手で押さえた。ブレーキをかけ、チャックを閉める。少し気になりバンを振り返ったが、それは校門から去って学校関係者用の駐車場に移動していた。
ピンクと赤の服を思い出し、頬をぽそぽそ掻く。胸に凹凸と書かれていたのは気のせいだろうか。
それに見覚えがある方を気のせいにしたいところだが。

準備期間はばたばたと慌ただしく過ぎ去った。夜遅くまで残ってわいわいと作業をしたため、凝った飾り付けになったものだ。感慨深く、後に大量のゴミと変わるだろう飾り付けを眺める。
ぎりぎり残った予算は売り上げと一緒に打ち上げに使われる予定らしい。
「ギャルソンの格好、してほしかったわね」
「まだ言ってんの、ヒヨリ」
黒い腰エプロンを後ろで結ぶ。予算を飾り付けと材料費にかけすぎ、買えたのは黒い布だけ。それで制服が作れるわけもなく、出るウェイターとキッチンの数だけのエプロンを作っただけで終わった。
「見たいじゃない、あたふたするヒビヤのギャルソン」
「そういうこと言わないでくれない」
「ただの希望よ、希望」
詰まらなさそうにヒヨリはエプロンをつける。やけにギャルソンを推してくるのは何なのだろうか、ヒヨリの中のブームか。
始まると集合をかける責任者、かちこちに話し始めたくせに耐えられずハイテンションになる委員長、放送がふつりと文化祭の始まりを告げる。
ぱちぱちと拍手で迎えられた開始合図に、窓を見た。飛行機雲がシュッと空に延びている。

「涼しいわね」

ヒヨリの言葉にバッと振り返れば、ヒヨリもそんな僕にぎょっとして何よと尋ねてきた。しかし答えられずに首を振ると、変なのと隠しもせずに言い放たれた。
涼しいねと誰かが泣きながら言ったのを、小さく思い出していたせいだった。

注文良いですかと他校の女子が手を挙げた。両手にコップと紙皿を持つ僕に、すかさず男子がそのテーブルに滑り込む。それを見て奥に引っ込み、コップをキッチンに渡した。
お昼時ともなると多忙の渦中。もう一時間半も前に上がれているはずが、人手が足りないのでずっと出突っ張りだ。キッチンのエプロンはもう全部フロアに回され、家庭科室から借りてきている。
「一時になったら生徒会の方に流れるはずだから、あと十分お願い!これ三番!」
「ああもう、どうにでもなれ」
「雨宮くん笑顔!客寄せ要員は文句垂れない!」
「客寄せ要員?!」
ばしんっと背中を思いっきり叩いた責任者がとんでもないことを宣った。そんな要員なんて聞いちゃいない。しかしそんな要員が決められているのならヒヨリが上がれていないのも納得だ。しかしこれはあとで見返りが高く付くぞと心中だけで警告しておく。
「やっと客が捌けてきたわ!」
「お疲れ」
「ええお疲れよ!もっと労ってちょうだい!」
ばさっとカーテンをひっぱたくようにしてキッチンに入ってきたヒヨリは、僕を見るなり噛みついてきた。それを苦笑で責任者の方へ視線で流し、ヒヨリと入れ替わりでフロアに入る。
見るとやっとテーブルには空きが出てきていた。ひっきりなしにあった注文はぱらぱらと目に見えるほど減っている。さっき注意されたことを思い出して無理矢理笑顔を作れば、頬がつりそうになった。三番のテーブルに飲み物とケーキを置く。
廊下のざわめきも静かになっていた。やっともう今の人手で回せるだろうという客数になり、僕は奥に引っ込んで誰かに引き止められる前にさっさとエプロンを脱いで畳んだ。ヒヨリが制服で僕に近付く。
「昼食が先ね」
「生徒会はいいの?」
「今期の会長に見に来てくれって言われただけだもの、別に行かないのも私の勝手よ」
去年と同様、いつの間にか自然と二人で回る流れになっている。財布を取り出してチェックしていると、ヒヨリがとんとんと肩を叩いた。顔を上げれば、にやりと悪どい笑みを見せたヒヨリが三枚のお札をぴらりと開いて見せる。
「奢ってあげるわ」
「......どうしたの、それ」
「ちょっとね、人使いが荒すぎるんじゃないかと思って」
やっぱり高くついたらしい。責任者に合掌し、るんろんと楽しげに廊下に出るヒヨリを追う。外の模擬店の方が興味を引いたようで、まっすぐ玄関に向かうヒヨリの後ろ姿。二つに括られた髪がたんたんと揺れる。
「焼きそば、お好み焼き、かき氷、たこ焼き......無難ね」
「カレーとナンっていうのもあるけど」
「ずいぶんな変化球投げるクラスだこと」
手作り感溢れるポスターが玄関のドアを鮮やかにしている。購買意欲を煽ろうとしているのか、世界一だの宇宙一だのと派手な色ペンで喧しい。溢したのか、一年の下駄箱がペンキで真っ青になっている。
「焼き鳥、なんてあるのね」
「焼き鳥といえばねぎまかな」
あるかな、と誰に聞く気もないが声に出した。

「あ、ねぎまさっき売り切れたよ」

玄関から校庭に歩き出した僕らに、突然声がかかった。あまりに自然な声にそのまま返事をしそうになったが、ヒヨリが僕の隣を凝視していることに気付いて、どうにか返事を飲み込む。
隣を見ると同じくらいの身長の男の人が一緒に歩いていた。灰色の髪に黒い目、優しげな雰囲気を垂れ流している。彼は両手にいっぱいの袋を抱え、凝視する僕らに首を傾げた。
「えっと、迷子、ですか?」
「ううん、迷子じゃないよ」
「じゃあ、どうした......んですか」
驚きにか、敬語が外れる。普通に会話をする男の人はにこにこと穏やかに微笑むばかりできちんと答えようとしない。なぜか苛立ちよりそういう人間だと呆れる。
「人を待ってて」
「移動してるけど......してますけど」
「敬語、いらないよ」
「はあ、どうも。......移動してるけど、いいの」
「うん、見付けてくれると思ってるから」
それは相手が大変そうだ。
にこりと笑った彼はじゃあねと気さくに笑い、手を振る。その背中はそのまま空いているテーブルに座り込み、大量の食べ物を袋から外に出してもぐもぐとどんどん食べ始めた。見ているこっちが胃もたれしそうな食べっぷり。
「変な奴」
「そうね、ちょっとかっこよかったわね......」
「......そ、そう?」
さっきから喋ってなかったヒヨリが堪能したといわんばかりのため息をついた。まったく会話が噛み合ってない。複雑な気持ちが渦巻き、激しいデジャヴを覚える。あいつだけは止めといた方がいいと忠告しそうになり、口をつぐんだ。
「ヒビヤ、イベントってあんなステージ使ってた?」
「いや。そういえば、去年より大分大きいね」
奥の幕の下がったステージの前でふと二人で立ち止まった。去年より倍は大きくなったステージがどんっと置かれ、横に長い椅子が何個も並んでいる。ヒヨリが少し考え込むように口元に指を置いて、ふと僕に三千円を渡してきた。
「始まる前に座っててもいいわよね、この椅子で食べましょ。なにかやるなら見たいし」
「使いきるよ」
「ええどうぞ。あそこに座っとくから持ってきて」
なにか起こるというものでは、ヒヨリの勘は当たる。何年かの付き合いですぐに理解したため、抗うなんて無駄なことはしない。すたすたとど真ん中の前を陣取ったヒヨリの姿を見て、模擬店を回る。
焼き鳥は本当にねぎまがなかった。適当に買い、飲み物二本で使いきる。さっきの男の人ほどではないが、それなりに膨らんだ袋をすぐにヒヨリの元へ持っていった。
「食べきれるの?」
「成長期だからね」
「いっそ横にでかくなりなさいよ」
べーっと子供っぽく舌を出したヒヨリはたこ焼きのパックと飲み物を取る。空っぽのステージを見て昼食を食べる二人組、端から見るとなかなかシュールだろう。なんの宣伝もされていないステージ、今の時間では生徒会に客を取られているためイベントではないのは確かだ。
「え」
しかし突然ステージの奥の幕がばさりと落ちる。
そして視線が、集まった。嘘、と呟くヒヨリの声が隣から聞こえ、空いてはいたがそれなりに騒がしかった模擬店が静まり返る。
その奥に、堂々と立っていた。
マイクを持ち、ステージの真ん中に歩んでくる。どんどんステージの周りの熱気が増していく。
目は閉じられていたが、すぅっとゆっくり開かれた。

「如月アテンション」

静かに声が響き、広がった。いつの間に設置されていたのか、スピーカーが音をかき鳴らす。片腕をまっすぐ前に延ばし、直線を指した。バッとその爪先が上を向き、弧を描いて空を突き刺す。
如月モモがにこりと笑い、歌い出した。
「モモちゃん!」
隣でヒヨリが感極まった声で叫んだ。それに呼応するかのように様々なところから歓声が広がり出す。ステップを踏んだオレンジのスカートを広げり、かつんと靴底がステージを打った。数秒もしない内に客席の揃った手拍子が音楽に加わる。
呆気に取られる僕だけが座っていた。
すぐ目の前に紙面でしか見たことがなかった存在が歌って踊っている。鎖をからんと鳴らし、笑顔で客席を見ている。激しい違和感は感動でも喜色でもない。

「奪っちゃうよ?」

観客全体を指差し、ぱちんっとウインク。その歌詞を繰り返す観客たちに、如月モモが嬉しそうに笑った。
僕はなにを口走るか分からなくて、歯を食い縛って、立ち上がるだけに留めた。急に立ち上がったせいで後ろから不満げな視線が突き刺さるが、知ったことではない。

「スキップで進もう!」

前向きに変わった歌詞を最後に如月アテンションが終わり、モモが高々とお礼を告げた。それにワッと観客が沸く。ぺこりと深くお辞儀をしたモモに呼び掛けがあっちこっちから叫ばれている。それに照れ臭そうにモモは笑い、拳を突き上げた。
「次、行こっか!」
わあああっと生徒も一般客も混じった観客が歓声と拍手を流す。僕はその歓声にも拍手にも混じれず、中途半端に立っているだけ。アイドルらしい恋愛ごり押し曲やら色々と似合わない曲が続き、軽く息が上がったモモがパッと顔を変えてみせる。
「これが最後!」
名残惜しさに不満の声を上げた観客にモモは手を合わせて謝り、でも、と続ける。

「私の好きな曲!......オツキミリサイタル!」

少し深呼吸したあと告げた曲名に色めいた声がそこかしこから聞こえた。如月アテンションの前奏がオルゴールで小さく鳴り出し、オルゴールの音から突然音が変わって大きくなる。モモはステージ外からスタッフに投げられた白い服を衣装の上に着た。明るい曲調に反して後ろ向きな歌詞が歌い出しに、そして前向きにと励ます歌詞が続く。
ばちっと瞼の裏で風景が浮かぶ。水族館、ゲームセンター、ファミレス。思い浮かぶ様々な場所に、目の前が白く眩む。

「独りぼっちを壊しちゃおう、ほら!」

激しい目眩に耐えながら、一瞬でも逸らすまいと懸命にモモの姿を追う。夏でもないのに太陽が暑さを増し、汗が吹き出た。
こっちを見ろとステージ上の存在に念じる。
そして願い通り、ふと視線が合った。モモが如月アテンションのように指を上げ、僕を指す。イタズラっぽく笑って魅せる。

「......すこぉし、かっこいいかな」

まぁ。
ひらりと手を振り、モモはステージの奥に引っ込んだ。慌てて皆がアンコールと叫ぶが、出てくる様子は一つもない。そして観客は名残惜しそうステージの周りをうろうろする人や、去っていく人に分かれていた。
「っはー、モモちゃんが来るなんて思わなかったっ、よかったー!私の勘も、全然捨てたもんじゃないわ!」
ヒヨリが感動したと拳を作ってぶんぶん振っている。ステージの上にはもうなにもない。
虚を突かれたせいで落とした焼きそばのパックを拾う。砂だらけでとても食べれたものじゃないと設置されているゴミ箱に放り込んだ。
そのとき、かた、と手が震えているのが分かった。その手を強く握るが、両手ともが細かく震えている。息を深く吸うと、なぜか肺が焼けるような気分になって軽く咳き込む。
「なにしてんだよ......」
ぼそりと呟いて、僕はしゃがみこんだ。ヒヨリがちょっとと話し掛けてくるが、とても返事をできる気分じゃなかった。目が合ったくらいで、なにを動揺しているのだろう。テレビも観ず、紙面の写真を見るくらいの相手に。

なにを、懐かしいなどーー。

懐かしい、など。いや実際、あの笑顔は僕にとって「懐かしい」のだ。
自覚すると、胸が詰まった。
頭が痛くなるような追い付かない記憶が甦る。空白の影に、まだ幼かった顔が当てはまった。記憶として甦っただけで、まるでそれは映画のようで。にわかには信じられない赤い目と情報がせり上がる。
何十、何百と繰り返した夏の日。立ち揺らめく陽炎。生まれた感情に戸惑って、それでも認めるしかなくて、僕は今の「僕」に託した。
もう一度、と。
「バカみたいだ」
思い出した。やっとだ、やっと。
もう僕はあの日を笑えるじゃないか。
立ち上がると同時に駆け出した。どこでもいい、どこかにいる。あっちは思い出しているのだろうか。
呼ぶ声が背中に聞こえたが、そのまま走った。脈打つような地面に足の裏を叩きつける。早く早く。
校舎に入って理科準備室のドアを開いた。心当たりが微かにあったのと、もう一人に会うために。
「僕はやっぱり、許さない」
その人が僕に話し出す前に、僕が話し出す。きょとんとした顔に思い出していないことを知ったが、どうでもいい。許さない、あの凄惨な光景を。

「それでも僕は感謝はしているよ、癪だけどね」

楯山先生が口を開きかけたのを無視して、ドアも閉めずにまた走り出した。校舎にいることは見当がついている。人気アイドルさまを外に出しておくほど、学校も気遣いがないわけじゃないだろう。
階段を上がり、廊下を走る。どこにもいない、その相手を探す。どこにいるんだよと悪態をつきたくなる。

ついには屋上まで辿り着いた。
開錠禁止と書かれた貼り紙がドアのど真ん中に貼られている。生徒が自殺したとかで、立入禁止になったらしい。
ここまで走り通しで、僕はぜえぜえ煩い息を急いで大きく整えた。
鉄のドアノブがひたりと手につく。107をふと思い出した。ぎし、と軋む音を立てながら、違うドアが開く。
何度も見た後ろ姿。
「モモ」
呼ぶとその人はパッと振り返った。僕の姿を見てぎょっとし、あたふたと慌てふためく。急いでフードを被ろうとしているが、もうとっくに手遅れだ。
さっきのライブでもしやと思っていただけ、それに落胆する気持ちがある。あ、とか、えっと、とか。なにが違うのか違うんです!とまで言ってくる。

「なにやってんの、おばさん!」

モモの醜態に耐えきれず、昔嫌がられた呼び方をしてみた。同じなのだから嫌がるだろうと思っただけ。
目を見開いて驚いた顔が、次第にじりじりと顔を真っ赤にして怒り出す。ふるふると肩を震わせ、僕に負けじとモモが思いっきり叫んだ。

「お、おばさんって呼ばない約束でしょ!?」

ぎりっと睨んでくるモモが、ふと驚いたように口に手を当てる。ああ、この人バカだったなと今さら、本当に今さら思い出した。
あれ、と自分の発言に首を傾げるモモに近付く。無警戒に不思議そうに、あの頃と逆転した視線で見上げてくる目。今甦っている記憶は本物だとじわりと染みた。こんなバカな人が二人も居ては堪らない。
間抜け面のモモの鼻先にでこぴんをしてやると、あぐっとアイドルとしてどうなのかという呻き声を上げる。そんなモモにふはっと遠慮なく笑ってやる。
僕は逃げてしまった。ヒヨリを亡くして見失って、励ましてくれたモモを好きになった。だというのに好きじゃないと意地になって、忘れたはずなのに逢いたいと願って、皆が見てしまうテレビや雑誌のモモに苛立って。
僕も大概、バカだと思う。
「モモ」
鼻を押さえて睨んでいたモモが、今度は身構えた。すぐにガードできるようにか、手を中途半端に浮かしている。その手を握って、下に下ろさせた。ちょうど握手をしているような格好。初めましてにしては遅すぎて、また逢ったねにしてはちょっと変だ。
逢いたくて呼んでほしくて、笑いかけて話をして僕を見て、また手を取って街に行こう。
僕は少しでも、あんたにとってかっこいいんだろう?

「好きだよ」

ファンの一人の戯れ言と捉えられるのはかなり不本意だが、届くならそれでもいい。
モモは目を溢し落としそうなほど大きく見開いて、僕を見る。はく、と開いて閉じた口。大人っぽくなったけど、中身や動作は全然変わっていない。

「......ヒビヤ、くん?」

震える声が僕の名前を呼ぶ。
ああ、この人本当に、勘弁してほしい。
「最悪なのか凶悪なのか、決めかねるよ」
「え、なんで?!」
「このタイミングで思い出しといて、聞くんだ」
本気で聞き返すモモに頭が痛くなる。バカでも限度を覚えてほしい。
ぎゅ、と握っていた手が少し強く握り返された。あはは、と笑いだして顔を片手で覆ったモモは、すうっと深呼吸をする。何度か繰り返し、そして大きくまた吸い込んだ空気を吐き出さずにバッと顔を上げた。
にこっと笑う、顔。にしし、と歯を見せて、口を開く。

「おかえり!」

挨拶に間抜けな顔を晒した気がする。その笑顔に口がにやけるやら、間抜け面に恥ずかしくなるやらで口元を手で押さえる。
ぐっと色々飲み込んで、けれど込み上げる笑いにぶはっと口を緩めた。ああもう、こんなにかっこつけられて、僕はかっこつかない。

「ただいま!」

負けじと声を張ると、モモはくしゃりと笑って僕に抱きついた。二人してからから笑い合う。急に景色が濃く色づいた。青く、白く、肌の色も目の色も、髪の一本だって。
話をしよう、飽きるくらい。手を繋ごう、暑いくらい。

ああ、僕の隣は、こんなに溢れている。
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