124 | ナノ


やっと高校の近くにあるアパートの一室を借りた。
ヒヨリに部屋探しを手伝ってもらったが、交通費がない近場となると探すのが遅かった。
いっそしばらく野宿を覚悟したとき、アパートの一室がちょうど引っ越して部屋が開いた。なんでも痴情の縺れによる近所迷惑と家賃滞納で追い出したらしい。これ幸いとすぐにそこに滑り込んだが、考えなしに入ったにしては考えていた予算に見合うものだった。
こんなに快調な滑り出しでいいのだろうかと真新しい制服を着る。むしろ少し上手くいきすぎて、そろそろ地元のアサヒナーの呪いが降りかかってきそうだと本気で考え出してしまう。
「あれ、ヒヨリ」
「......見計らって出てきてないわよね」
「もしそうするなら五十メートルくらいで外に出てスタンバイしてると思う」
「なにその具体的なの、キモッ!」
ドアを開けるとヒヨリが歩いてきていた。
アサヒナーだったときにやってたんですよ、なんて言えるわけもなく笑って流しておく。訝しげだったがヒヨリはすぐにけろりと道を歩き出す。たまに道行く男がヒヨリをちらちら見ているのがひしひしと分かった。
入学式かと呟くと、どうにも思い出してしまう。特に夏休み大半を潰した父さんとの攻防とか、授業料免除の特待制度を取るために勉強に費やした受験とか。
「やっぱり散ってるわね」
校門までまっすぐ続く道に出て、不意にヒヨリが残念そうに呟いた。ヒヨリの視線の先は散り終わった桜の木で、釣られるように僕も見上げる。
脳が浸るような薄いピンクは全部地に落ち、まばらな緑でどこか弱々しく見えた。
「入学式に桜って、都市伝説じゃないの」
「そうでもないわよ、たぶん」
かこ、とヒヨリが真新しいローファーを鳴らす。大きめに買ったブレザーが重くて、手に少しかかるのが煩わしい。
新しい生徒が古い生徒と入り交じるどこか不思議な光景に、僕もヒヨリの背を追った。
「帰りに大通り寄るから」
「荷物持ちですかね」
「分かってるなら聞かないでよ」
校門に入学式と達筆の文字で書かれた看板が立っている。ケータイを弄ったり、音楽を聴いたり、友人と話したりしながら校門にどんどん吸い込まれて、校舎に収まっていく。
「あー、やばい、緊張してきたかも」
「緊張する必要がどこにあるのよ。話聞いて自己紹介ぐらいでしょ」
「そうだけどさ」
人だかりの中、下駄箱に貼られている紙を見付けて名前を探す。朝比奈と雨宮がフルネームで縦に続けて並んでいた。そのまま下をザッと見るが、もちろん見覚えのある名前なんてどこにもない。
「一緒のクラスだ」
「あらそ、よろしく」
「よろしく。下駄箱あっちだって」
クラス表を見ていた男子や女子がヒヨリを見ているのが分かったが、ヒヨリが無視を決め込んだのでそれに倣った。
持ってきた上履きを履き、クラスに向かう。まだ真新しく感じるのは、数年前に改装したばかりだからだろう。
「ちょっと、ヒビヤ」
「へ?」
「なに寝惚けてるの。そっち、クラスじゃないわよ」
ぼうっとしていたためか、教室に行く道を逸れていた。下駄箱正面の廊下を左に曲がらないといけないのに、僕だけが右折をしている。あはは、と気恥ずかしさに苦笑いで済まし、きろっと睨むヒヨリにすごすごついていく。
右折した先には人はまったくいない、恐らく教科教室があるのだろう。無意識とはいっても人についていかず、なぜ流れに逆らってまで逆を進んだんだか。
「方向音痴?」
「あー、かも」
「迷子になって私に迷惑かけないでよね」
頷いておきながら、階段に上る前に向こうの廊下を見た。やはり誰もいない。けれどどこか気になって、僕はまた今度行ってみるかと決めて階段を上がった。

ヒヨリを送り届け、夕方の道を歩く。茜色の空を眺め、ふと今日を思い返す。
入学式は無事終わり、自己紹介も滞りなく済んだ。自己紹介時、ヒヨリの名前を懸命に覚えていた男子たちはヒヨリと帰る僕を見てショックを受けた顔をしていたのが強烈に残っている。
明日になれば彼氏なのかと質問が殺到しそうだなと覚悟した。買い物も特に重いものもなく、どうやらあれは僕を案内してくれていたらしい。お陰で今日だけで大体の地理が掴めた。
「あ、夕飯買ってないや......」
まだ冷蔵庫が空っぽなことを思い出す。一応一通り母さんから教えてもらったが、材料を買っていない。今日だけは近くのコンビニで済ませてしまおう。味が濃くて変な臭いがするため、あまり好んで食べたくはないが、仕方ない。
コンビニを見付け、自動ドアをくぐる。レジをまっすぐ横切り、弁当を見る。洋食、和食、サラダ、様々な種類に暫く迷う。迷った末、飲み物を買ってしまおうと先に飲み物の方へ足を向けた。
飲み物の冷蔵庫の前、目につく赤いジャージの男がコーラのペットボトルを手に取っていた。
「ねえよ、おしるこコーラなんて。......だからイカスミもねえって!お前その味覚いい加減にしろよ!」
通話中らしい。カゴのなかにはコーラ、あたりめとドライマンゴーが入っていた。成人しているようだし酒盛りでもするのだろう。しかしおしるこコーラだのイカスミだの、なんだか通話相手はすごい趣味だと分かる。
「ったく......。あ、すいません」
「あ、どうも......」
男は電話を切り、ぼけっと突っ立っていた僕に気付いた。そのまま謝って退いてくれた男に、こちらも会釈を返す。そして男が横切る瞬間、なぜか二人で顔を合わせてしまった。しばらくの沈黙の後、二人であははと苦笑いする。シュールな状況だ。
そのままそそくさと去っていこうとした男に、僕も飲み物を見る。
「あ、あの」
「うひゃいっ、......はい!」
驚いたのか奇声を発した男はそれを消すように少し大きく返事をして振り返る。それに申し訳なさを感じながら、僕は棚から一本取り出して差し出した。
「えっと、おしるこコーラってこれじゃ」
「あ」
男が戻ってきて僕の手からおしるこコーラを受け取った。
それにしてもすごい趣味だ。こんなダイエットの敵とも思えるカロリー過多の糖液を好んで摂取するなんて、きっと太った牛みたいな人だろう。見たことない人に失礼かもしれないが。
男はホッと息をついてそれをカゴに入れる。

「あー、すまんヒビヤ」
「別にいいよ」

そして男はじゃあなと言ってレジに向かう。相変わらずだなと思いながら僕は自分の飲み物を手に取った。さっきからコーラを見すぎてコーラを飲みたくなってしまった。一緒に取るには和食じゃ合わない。洋食か、と狭まった範囲に弁当を見に行く。サラダとドリア、そしてスパゲッティを手に持つ。
がーっと自動ドアが開いて男が去っていくのをちょうど見送った。赤いジャージが暗くなってきた道でも目立つ。
「......あれ?」
そして赤が道に消えた途端、僕は男にヒビヤと呼ばれたことと、それに違和感もなく普通に、しかも大分気さくに返事をしたことをやっと思い出した。

不思議な体験の次の日、特に変わったこともなく僕は六時に起き上がる。不思議とはいっても、僕は気にしようとしても気にすることができずにいるのだが。気にしなくていい、日常の一部だったと脳が流そうとするのを僕の意識だけが懸命に引き留めている。それがどうにも滑稽に思えてしまい、ため息をついた。
「変だったはずなんだけどな」
二枚食パンをもそもそとかじり、安い二、三個前の型のテレビをつける。政治や事件のニュースと天気予報が流れていく。こうして自由にテレビを見れるようになったのは嬉しい。けれど今日は昨日のことを思い返すことで頭がいっぱいで、天気予報以外全部耳から耳へと通り抜けていった。
外に出ると今日はヒヨリは通りすぎておらず、一人ですたすたと道を歩く。昨日より早くに校門に続く通りに出たことに首をかしげてみたが、昨日はヒヨリに合わせて歩いていたのだと思い至った。
人が少ないと見回すが、思えば高校は八時半に始まる。ケータイを見るとまだ七時半、一時間も前に登校していた。いつも六時に起こされていたため、起床癖がついている。昨日配られたばかりの教科書で予習でもするかと前向きに歩き、玄関を抜けた。下駄箱に靴を突っ込み、上履きに履き替える。そして左折しようとして、右を見た。昨日迷い込もうとした廊下が延びている。
「時間は十分」
無償に気になるのもある。そのまま普通教室への廊下を逸れて右折した。早いからということもあるだろうけど、いっそう静かに思える。教科教室は特に目立って使う機会が少ない。ドアも床も、普通教室より新しく見えた。
ふと理科準備室の前に立ち止まる。その先が行き止まりなのもそうだが、中から人の気配がするのが気になった。そっとドアを横に滑らせたが、そっとにしてはがらがらっと音が立ってしまった。
「うおっ?!」
中で男がびくんっと肩を震わせた。白衣を着ているため理科教師だろうか。昨日からやけに人を驚かせすぎだ、僕は。
「す、すいません」
「お、おう。あー、新入生か」
振り返った教師はわたわたとなにかを後ろに隠して僕を見る。その不審な動きになにをと一瞬思うが、すぐに充満する臭いに気が付いた。教師も窓を開けていなかったことを思い出したらしく、気まずい雰囲気が流れる。
「......えっと、言いませんから」
「あ、そう?いやー助かるわ!事務のおばちゃん煩くてよー」
気まずい雰囲気はどこに行ったのか。言いませんよと告げた途端、教師はころっと態度を変えて気さくに話しかけてきた。いやー参った参った!と笑いながら窓を開けてまた吸い出す教師に、初対面のはずが自分の視線が冷えを帯びていくのが分かる。
「茶でも飲むか?そこらへん座っとけ。にしてもまだ早いのに真面目なこって」
「どうも。今日は、つい早く起きて」
「こんな忙しいオッサンになると寝れねえときが多いからな、早起きとか懐かしいわ。あ、茶のこと他の奴に言うなよ、高校生はすぐ群がりやがる」
隅に寄せられていた椅子に座り、冷蔵庫からお茶とグラスを取り出す教師の背中を見る。明らかに私物だ。しかもタバコを消さない。こういうのをクズ、いやファンキーっていうのかもなと思いながら、差し出されたお茶を受け取った。
「理科担当の楯山ケンジロウだ。二年の担当だから来年よろしく」
「雨宮ヒビヤです。よろしくお願いします」
タバコを潰して楯山先生もお茶を飲んだ。机に乗せられた書類を見るに、仕事中だったんだろう。
「雨宮は探検か?ここ広くなったからな、下手したら迷うぞ」
「あー、ちょっとここが気になって」
「教科教室が?物好きだなー。ま、ここら辺はあんまり使わねえから見といてもいいかもな」
冷えたお茶を飲むと麦茶だった。楯山先生はそれを一気に飲み干し、吸い殻を灰皿から紙の上に落としてそのまま丸めて捨てた。そして灰皿は棚の二段目の奥に隠し、何事もなかったかのように書類を持つ。一目で慣れていることが分かった。
「ま、茶が飲みたくなったら来い。相談でも乗ってやるし、なんならサボりに使ってもいい」
「いや、特待なんでサボりは」
「へぇ、スポーツか?」
「学力です」
関心関心というように頷く楯山先生だが、さらっと生徒にサボりを勧めたのはどうなのだろうか。いい先生だが、どうにも自由度が高過ぎる。
「勉強はできるに越したことねえぞ、バカはすげーバカだからな。俺が一回持った生徒は酷かった」
「ここって結構偏差値高いんじゃ」
「そうなんだけどな、あれは受かったのが奇跡っつうか。あいつが一年だった頃の時点でもう卒業は俺、諦めてたからな......」
遠い目をして語る楯山先生の後ろに影が射す。苦労がくっきりと見え、その生徒の相当なバカさ加減が当事者でない僕にも伝わった。
「人気アイドルやってたから進路は気にしてなかったけどな。ちょっと一時期休んで人気が落ちたらしいが、知ってるか。如月モモっつうの」
「如月モモ」
「今もかなり人気だとよ。最近忙しくてテレビろくすっぽ観れてねえからわかんねえけど、ポスターとかばんばん貼ってあるし」
そんなに有名なのか、と思いながら麦茶を飲み干す。なんだか無償に喉が渇いて仕方ない。如月モモ、と口中で繰り返した。聞いたことはある、ヒヨリと旅行に行ったのはその如月モモのサインのためだった。
けれど今になって聞くと、なんだか別の意味を持ってその名前が響いた。
「そろそろ人が多くなってきたな。教室行くか?」
「あ、はい。お茶ありがとうございました」
「口止めと俺が暇だったからな。こっちこそありがとよ、雨宮」
会釈して鞄を持ち、ドアを閉めた。廊下に戻って制服を嗅ぐが、タバコの臭いは特についていないことに安堵した。
まばらな人影に紛れ込み、階段を上る。一人の女の子が手に雑誌を持っていた。
「如月モモ......」
表紙に名前と写真が載っている。オレンジの衣装を着て、にっこりと笑っているその写真。そして周りに握手会だのサイン会だの、そんな字が踊っている。とても小さな感情だが、なんとなく、そのポップな文字に腹が立った。
気に入らないと、僕は雑誌から目を逸らす。
「あ」
「おはよう。なにその変顔、私を笑わせるならもっと高度にしなさいよ」
「おはよう。そんなつもりはないから」
教室に入るとヒヨリが席についていた。まだ八時だが、どうやら雑誌を読みたかったらしい。さっき階段で見かけた雑誌を捲っていた。
「その雑誌」
「モモちゃんの特集組んでるから読んでるの。今日発売で、これコンビニで最後の一冊だったんだから!」
「相変わらず好きだね」
「まあね!やっぱりかわいいしさ〜。モモちゃんが出てるドラマ、結構視聴率いいのよ」
つらつらと今まで如月モモが出たドラマを順に上げていかれるが、生憎評判だけで観たことはない。空ですべてを言い連ねたヒヨリは満足げにまあ観てみなさいと宣伝するが、その機会が果たして巡ってくるだろうか。まず一週間に一度、決まった時間に観るということができる気がしない。それを一ヶ月に四回、終わるまで繰り返す。想像しただけで少し参る。
「あー、どんなドラマなの」
「恋愛もの」
すっぱり告げられた系統にヒヨリに言われたしちょっと頑張ろうかなんていう気が一切合切消え失せた。恋愛もの、そういうからには如月モモとやらにも相手役がいるのだろう。そりゃいなければドラマにならない。
ヒヨリが僕の顔を見てぎょっと目を向いた。
「変顔に拍車がかかってるわよ、今ならちょっと面白いかも」
「そういうつもりはないって」
如月モモとやらがもやもやと胸にいろんな感情を起こす。ホントなんだか、気に食わない。
ヒヨリに訝しげに見られながら教科書をべらべら捲る。無理矢理没頭し始めた僕に、ヒヨリはなにもなかったように雑誌をまた読み始めた。視界の端にちらちらと見える如月モモに、心中で悪態をつく。
しばらくして先生が入ってきた。ホームルームが始まり、席替えをするとくじを回される。
「ヒビヤ、雑誌貸すわよ」
「え、な、なんで」
「気になってるみたいだから」
くじを開いて窓際の一番後ろに移動すると、ヒヨリが雑誌を置いてきた。私は読んだ、とさっさと置いてヒヨリは
僕の前に座る。またこの席順か、と思いながら置かれた雑誌を見下ろす。突っ返すわけにもいかず、ヒヨリが物を貸すということも珍しく、結局僕は大人しく雑誌を鞄に仕舞った。

ここ何日か、休み時間毎に男子が来ては朝比奈と付き合っているのかと聞かれるのにそろそろ慣れてきた。果敢にもヒヨリに直接突進している奴はいいが、僕に聞いてくる奴はことごとくヒヨリの恋愛対象外に入っているらしい。付き合ってないと告げて顔を輝かせる男子には、悪いが合掌させてもらう。
「もういい加減ウザいったらないわ。いっそ付き合ってるって叫んだらすっきりしそうね」
「その気もないくせに、よく言うよ」
「ま、昔私を好きだったくせに生意気」
「小学生のときだろ......」
昼休み、僕の机を引っ付けて昼食をとる。やっと噂が浸透したのか、最近は尋ねる男子も少なくなっていた。僕は昨日のコンビニで買ってきたパンを食べ、ヒヨリは少ないお弁当をつつく。
「小学生といえば、ヒビヤは恐れ多くも告白してきたわよね」
「途中で遮られて最低って罵られたけどね」
「そりゃあ友達と思っていたんだもの、裏切られた気分だったの」
「あれで友達?!下僕の間違いだろっ」
「しつれーねぇ」
ヒヨリがムッとしながら卵焼きを口に入れた。
しかしにわかには信じがたい。あれだけ顎でいいように使われていただけに。
「仕方ないでしょ、男子の友達いなかったし。それに結構憧れてたのよ、友達と旅行とかお泊まりとか」
ふて腐れたようにヒヨリは告げた。あれだけ尽くして恋愛対象どころか友人だったんだなと思うと切なくならないでもないが、けれど純粋に嬉しいと感じる。まるで苦虫を潰したような顔をされなければ、もっと。
「あの時のお陰で私は公園が苦手になったくらいよ」
「それのせいじゃないと思うけど」
「でも二人して苦手になるなんて、それぐらいしかきっかけがないじゃない」
確かにそうなのだが、しかし腑に落ちない。二人が同じ時期に公園や信号が苦手になるなど、原因がそれぐらいしか思い至らない。けれど、それだけにも思えない。
焼きそばパンを食べ終わり、カツサンドの封を切る。飲み物を買い忘れて、喉がぱさぱさに渇いていく。
「それだけじゃないって、たぶんね」
「へー、心当たりでもあるのかしら?」
「ないから、今日辺り思い出しに行ってみるよ」
捜している記憶を手繰り寄せるために。言外に伝わったのか、ヒヨリはあらそっと食べ終わった弁当を片付けた。少ない量だからさっさと食べ終わったらしいが、なぜ女子は下校まであの量で耐えられるのか疑問が浮かんだ。
僕もカツサンドを食べ終わり、メロンパンにかじりつく。いい加減喉の渇きに耐えられなくなってきた。半分千切ってヒヨリに渡してみる。しばし黒目がジッとメロンパンを見詰めたが、ちゃんと受け取った。おやつ程度になればいい。
財布を持ってメロンパンを喉の奥に押し込んだ。飲み込んで立ち上がる。早食いはいけないと教えられていたが、そろそろ羨ましげな視線にも肩が凝ってきたところだった。
「飲み物買ってくる」
「ミルクティー」
「はいはい」
いってらっしゃいの代わりに注文が飛ぶ。パシりは慣れているため受け取って自販機に歩き出した。ヒヨリは気まぐれに払ってくれたりくれなかったりするが、後ろでヒヨリに群がり始めた男子を思うと今日は払われないだろう。
ドアをくぐった辺りで「ウザい」というヒヨリの毒舌がばっさりと男子を斬り倒したのを聞き、どうにも今日は全体的に機嫌が悪いらしいと分かった。
「自販機、っと」
校内に何個か設置されている自販機を探す。入学式から何日か経ったが、まだどこにあるのか把握できていない。一番近い自販機は一年女子の喋り場となっていて、男子は易々と買いに行けない。
一階の自販機に行こうかと階段を降りる。ぱたぱらと上履きが早いリズムで叩かれた。誰もいないのをいいことに、残り三段をとぱんと飛び降りる。飛び降りた瞬間、視界の端に自販機の形が過った。防火扉のついた壁の向こうに赤いフォルムが見える。
ぱっとん、と床を蹴り、小脇に挟んでいた財布から五百円を取り出して自販機に投入した。ボタンが一斉に光り出す。ミルクティーを押し、がちゃこちゃと落ちてきた小銭と一緒にペットボトルを取った。小銭を入れ、また光るボタンを見る。
なにを飲もうかと悩んだはずなのに、ちょうど目の止まった飲み物のボタンを僕はピッと押していた。がこんっと落ちてきたペットボトルに、ハッと押したボタンを見る。普通の飲料の中を異質に立っている。なぜこんなものが。
買ってしまったものは仕方ないと取り出し、それを持って階段を上る。蓋を開けると炭酸の空気がぷしゅっと勢いよく隙間から漏れ出した。ひんやりと手の中に収まるペットボトルの飲み口に口をつける。こく、と喉を痛いほど炭酸と甘ったるい液が滑った。
「......あっま!」
喉を潤す役目を与えたはずなのに、逆にダメージが増える。のっとりと喉に絡み付くような後味、そのくせ痛いほどの辛くも感じる炭酸で爽快さを演出しようとしている。不味いとは言わない、しかし飲む人を選ぶ。
その商品の名は、おしるこコーラ。
「雨宮、それ買うなんて勇気あんな」
通りすがりのクラスメイトがぎょっと目を剥き、僕の手にあるペットボトルを見た。飲んでみるかと軽く振ったが、苦笑いで逃げられてしまう。好き好んで買った訳じゃないぞと訴えたかった。
教室に帰ると、ヒヨリは女子と話していた。今までの経験上少し身構えるが、どうやら楽しげに談笑しているらしい。ミルクティーをどうしようかと見るが、邪魔するのもなんだと思って席につき鞄に突っ込んだ。
のっとりの後味がまだ残っている中、もう一口飲む。なんだか懐かしいような、呆れるような。ふと、貸してもらっていた雑誌の如月モモのインタビューにおしるこコーラが書いてあったなと思った。

学校が終わり、僕はミルクティーを持て余しながらデパートへ歩いていた。おしるこコーラは後味に慣れ、甘さを我慢すれば飲めないことはなかった。けれどミルクティーは別だ。既製品のミルクティーの味があまり好きではなく、飲むこともできない。
結局、捨てるのは勿体無いため、冷蔵庫に保管して明日ヒヨリに渡すことにした。また鞄に突っ込み、信号を見た。ちかちかと青い歩行の人形が点滅しているが、渡らない。そして赤になり、車が目の前を横切る。
褒められたことがある。慌てず渡らない、注意深い、分かっていると。しかし本当は、何一つとして分かってはいないのだ。
青の信号に変わり、僕は渡る。履き慣れていないローファーに小指がじんじんと痛んだ。
一本道を抜け、パノラマの街が音と共に広がる。そして不意にコンクリートの壁や店のウインドウにぺたぺた貼られているポスターを見つけた。
「うわ、如月モモだ」
思わず声に出す。まさかここでまで見ると思わなかった。
未だ動いた姿を観たことはないが、写真から溌剌とした性格が溢れている。きっとこの人は単純で、お節介焼きだ、なんて決め付けた。
ポスターは近々行われるコンサートの宣伝らしい。ウインクしている目の横に、星が飛んでいる。ウインドウに貼られたポスターの横には、レコードショップなのか如月モモのCDがずらりと扇に並べられていた。つい近寄って見そうになったのを堪え、歩き出す。しばらく歩くとポスターは途切れ、視界が寂しく簡素になったように見えた。
街路樹に沿って歩く。汚れた葉が排気ガスで息詰まっているのが分かった。五時だというのに相変わらず人通りが多く、流されるように歩けば巨大な交差点に行き着いた。
そしてその先に、公園があった。思わず足がぴたりと一瞬止まる。公園の前の横断歩道に、大型トラックが走り去った。ごろごろと重そうなゴツいタイヤを高速で転がしている。
「......?ここじゃなかったっけ」
記憶の中とぴったり合致する公園、けれど想像していた恐怖は特になかった。ここに苦手意識の元があると思ったのだが、なにも思い出せない。
信号を渡って公園の中に入った。遊具と緑が溢れ、子供たちが駆け回っている。時計が五時ちょっと前を指す。
まだ遊ぶと駄々を捏ねる黒猫の人形を持った女の子。
ブランコに乗る男女の子供は楽しげだ。
木の棒を振り回す男の子。
バリアだなんだと喧嘩している二人組。
母親に必死に架空動物を語る女の子。
いつの間にか勇者の剣は握れなくなっていた。バリアもビームも出せなくなり、自分だけの動物たちは逃げていった。人形と話せることもなくなり、ブランコの高くなる目線にもう期待できない。
思い出すと、なぜあんなことが楽しかったのか、なぜ恥ずかしくなかったのか。そんなことを思う。

「秘密基地とか、あったなぁ......」

一体いつ、僕は秘密基地の入り口を見失ったのか。理解できない喪失感に苛まれ、奥歯を噛む。
パンザマストが流れ出す。夕方の色が公園を支配していた。沈む太陽を見て、白い薄い月を見上げる。ちょうど満月が空にくるりと乗っかり、僕を見下ろす。わけもなく僕は顔を覆った。
隣の空っぽが、なぜか際立った。

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