123 | ナノ
ヒビモモ

夏の日から、隣が空っぽだった。

ヒヨリが横を歩く。
不思議なことだが、ヒヨリに対して泣き出してしまいそうなほどの感動を感じても、前のような燃えるような恋情は今はすっかり姿を潜めていた。近付けば近付いただけどんどん違うことが分かる覚めは、もやもやと不満の暗雲を心臓から吐き出す。あれほどヒヨリに話しかけられる度に舞い上がってあがって、バレないようにいつもより元気に返答していたのに、それが今じゃすっかり落ち着いた。ヒヨリと名前を呼び合う仲になり、しかも二人で旅行に行ったという事実は瞬く間に狭い田舎では広がり、上級生にまで目をつけられ裏切り者と言われ。
悔しそうに羨ましそうに妬ましそうに誰もが見てくる。夏の前なら僕はあそこにいたはずなのに、今じゃヒヨリと友人付き合い。あわよくば彼氏として華々しく脱却、なんてちょっと前の妄想通りではなかったけれど、僕はアサヒナーを卒業してしまっていた。
「ねえ、聞いてんの?」
べちんと背中を叩かれ、ハッと我に帰る。それだけで周りの殺気が凄味を増したが悲しいことに大分前から慣れていた。さらりとそんな視線を流して隣を歩くヒヨリを見る。不機嫌そうな顔は相変わらずかわいいのに、やっぱりときめかない。
僕の部品は、きっとどこかですげ変わってしまった。
「ごめん、なんか節々が痛くて...」
入道雲がどどんと建ち、真っ青な空を塞ぐ。ちかりとなにかが瞼の上で光った気がしてふと真上を見上げたがなにもなかった。誰かの鏡だったのかもしれない、まだ遠くない校舎の窓だったかもしれない。
白いワイシャツが眩しく光を返す。発光しているような人混みに、僕は徐に目を閉じる。モノクロの大群がわらわらと道々で散っていく。
「ああ、成長痛。ざまぁみなさい」
「なんで?!」
「私が追い越す前に伸びた罰」
ギリギリだったのを大差つけられて悔しい、ということらしい。あーあ、とため息をつくヒヨリの横顔に苦笑して前を向く。
もうすぐ夏休みか、とセミの声に浸った。課題のこと、進路のこと、ざわざわと笑い合っている同級生たち。
「あ、こんな話じゃなくて」
思い出したようにヒヨリが小さく声をあげ、鞄から白い紙を引っ張り出す。ぱしっと目の前に突き出され、危うくそれに顔を突っ込みそうになった。
「これを聞きたかったのよ」
「進路希望調査」
「もう出した?」
首を振る。親は僕の意見も聞かずにさも当然のように近くの県立を受けることにしているし、大体のやつもそうだ。稀に県外に出るやつもいるが、大抵は大学になってからでいいかと皆は諦めている。けれどヒヨリは違うのかもしれないとアサヒナーたちが喚いていたのを何度も聞いたので別段聞かれたことに驚かなかった。
ふうん、と気がないように返事をしたヒヨリが唇を少しつき出す。なにか言いたいときの癖だ。
「ヒヨリはどこに?」
あえて場所を指定せずに聞くと、ヒヨリは進路希望調査を畳んで鞄にしまった。行くわよ、と告げられ、僕は前を行くヒヨリについていく。
田んぼやら畑やら、どこかヒヨリの後ろ姿と似合わないと思った。でこぼこした道はいつか歩いたアスファルトみたいに舗装されていない。二十四時間もやっている店はなく、寂れた古い店がぽつ、ぽつとあるだけ。
別にここが嫌いなわけじゃない。不満らしい不満といえば穏やかすぎることと親が時代錯誤であるくらい。けどいいところだし、近所の人も優しい。特に真新しいこともなく、変わらない友達付き合いは深まっていく。
けれど、僕はここから抜け出したいと思っている。
前の背中が立ち止まったのは夏祭りや年越しだけ賑わう古い神社だった。昔は赤かったんだろう鳥居は、表面がぱりぱりに乾いて剥がれ、木が剥き出しになっていた。
石畳の階段でぐるりとこっちを振り返ったヒヨリは、腰に手を当てて仁王立ちする。
「出るわ」
静かで堂々とした宣言。曲げないと意思をこめた声、すっと細くなった目は深く黒い。
「前から決めていた。高校でここを出て外で暮らそうって。ここで一生当たり障りない代わり映えしない日々を過ごしたくない」
ヒヨリは回りと馴染んでいない。男たちに持て囃され、熱っぽく見詰められ、しかもなんでもそつなくこなす。そんなヒヨリは遠慮や妬みの対象になりやすい。友人として付き合っても、しばらくすると向こうがヒヨリを嫌う。はっきりした態度もこの場合は仇となる。
そうしてヒヨリが出した結論は、周りを見下すことだった。私は違うと尊大な態度でいれば、誰もがヒヨリを特別だと思う。容易に近付かない。
「詰まらないし、いい加減面倒ったらないわ。ここじゃなきゃ変わるだなんて都合よく思わないけど、したいことはここよりできる気がするの」
「うん」
「お父さんたちの理想の娘なんて真っ平よ。習い事の発表の度ここから出れるから続けただけで、ピアノもバレエもしたくない。お姉ちゃんみたいにならないようにされるのはうんざりなの」
もうヒヨリは、周りを見下したくないのだろう。親から重ねられることも、されたくないのだ。
ヒヨリは僕より数段上でふんっと遠くを見渡す。
「あんたはどうするの、ヒビヤ」
見渡していた目がきとりと戻ってくる。
その言葉に、僕はようやく気付いた。ヒヨリは相談したかったんじゃなくて、チャンスをくれようとしているんだと。吐露して僕に聞かせて、僕が本音を話さざるをえない状況を作り出してくれた。
「......正直、僕も出たい」
今まで黙殺されてきた言葉、声が震えると思ったのだけど、以外と声はしっかりしていた。
「けど、僕はなにをしたいのか目的がない。出ても戻ってくる羽目になるかもしれない。......って、いうのは言い訳です」
「でしょうね」
通学鞄を振りかぶろうとしていたヒヨリは僕の言葉に頷く。分かっているならやめてほしい。
暑い日差しが陰っても、湿気で汗がじとりと肌に浮かぶ。袖から延びた腕にはうっすらと汗がまとって、額を拭っても拭った気にならなかった。ずるりと腕が滑る。
「僕は親が好きだよ。時代錯誤で煩くて怖くて、すぐに怒鳴るし勉強しろって何度も言われた。だけど好きだ、そんな親でも。だから金銭でこれ以上負担はかけられない。僕の家は朝比奈じゃない」
「嫌味っぽいわね」
「うん、僻みだよ。どうしようもできない妬みだ。お金があったら、僕も踏み切れたかもって。貧乏っていうほど貧乏じゃないけど、そんな余裕がないのは本当」
ヒヨリはむつりと不機嫌そうに押し黙った。
帰ろうかと僕は階段をゆっくり降り始める。ヒヨリになにか言われるのが怖かった。それを背中を向けて閉じさせようと。
しばらくしてがっつがつんとローファーの底がすり減る乱暴な足音が追い付いてくる。
「じゃあなんで、あんなに勉強してたのよっ」
次いで、衝撃。
背中を思いっきりなにかで殴られ、油断していた僕はあっさりと地面に転がった。口の中にざりっと砂が入り、鉄味と混ざる。肺を叩かれたせいで咳が喉をせり上がった。
「なにすっ」
「僻み結構!私がお金持ちなのは今に始まったことじゃないから慣れたもんだわ!でも、すっごく腹立つのよ!妬まれたからじゃないわ!」
立ち上がって振り返った瞬間、ヒヨリは待ってましたとばかりに口を開いた。怒濤の言葉の群れに目が眩む。
「私より成績いいじゃない!学年一位取ったんだってね?ああすごいわね、おめでとう!模試だって成績よかったって?近くの高校はそんなに頭要らないでしょ?なんで頑張ったのよ!なにに逃げてんのよ!ムカつくわよっ、あんたが頑張ったことに蓋してんの!親になに言われたかしらないけど、したいことはなによっ!なかったらあんなに頑張れないでしょおがぁ......っ!」
げほっとヒヨリは一度咳き込んで息を整えた。一気に怒鳴られ、目の前が白黒になる。鞄から水筒を引っ張り出して男らしく飲み干したヒヨリは、ギッとそんな僕を強く睨んだ。
「親の望む高校に行って、大学もそうして、自分で稼いだお金で出るの?予言してあげる、そうなったらもうどこにも行けないわ。ここで一生過ごして、一生後悔するのよ」
思い描いていた未来を、ヒヨリはぐしゃぐしゃに破き捨てる。
「大人になったら臆病になるの。子供だって大人だって、臆病で、そして大人は疲れてなにもできなくなるのよ。臆病でも自分に可能性があるって信じて疑わないのが子供なの。これもできる、あれもできる、皆そう思っているの」
「ヒヨリも?」
「私にできないことなんかないわ」
不遜な態度で言い放たれた言葉に、確かにと笑う。切れた唇がびりっと痛んだ。
「ヒビヤ、そんな私が協力してあげるって言ってるのよ?」
心強いでしょ、と言外に告げるその表情に、ああそうだと思った。心強い、ヒヨリといると。
口を拭うと血がついた。見覚えのあるその色は、どうにも思い出せない。この前の夕方か、包丁で切った指か。
もっと、もっと前か。
簡単に思い出せなくて、年を越えるにつれて焦る。思い出せないことを思い出せなくならないかと。
「逢いたいんだ」
ヒヨリがやっとかと呆れた顔をして促す。腕を組んで、ほら早くと。
「僕は、逢いたい」
「誰?」
「......分かんない。一人な気もするし、何人もいる気がする」
浮かぶ影を数えることもできなくて、ただ誰かいるそこに僕はいる。小学生の僕は誰かと言い争ったりからかわれたりしていて。特に親しい友人がいない上、話題には取り残され、それはなに、どういう意味と聞く僕はとても煩わしくて。楽しい記憶はと言われたら、数える程度しか出てこない。
ヒヨリは僕の短い話に、ニッと笑う。
「じゃ、まずは学校見学。私の付き添いって言えばいいわ、私の親にはもうそう言ってあるから。そろそろこっちの親から電話かけてるんじゃないかしら?そしたら断れないでしょ」
「......なんか、用意が」
「当たり前でしょ?嫌って言っても無理矢理連れていく気だったんだから。私になにも言わないくせに、夏になるとたまに泣きそうになって」
泣きそうになっているのは知らなかった。むしろ知りたくなかった。朝起きる度ぼろぼろ泣いているのだ、そろそろ渇れてほしい。
「その感覚が分からないでもないから、歯痒いのよ」
ヒヨリが不意に遠くを見た。まるで耐えるような横顔に、すとりと納得が落ちる。分からないでもない、むしろ分かってしまう。いっそ不気味なほど、その感覚だけは強く。
「帰ってきたらあんたは戦争よ、絶縁になってもしがみつきなさい。いざとなったら私が借金させてあげるから」
「ヒヨリ、ありがとう」
「バカじゃないの。今まで私は話してくれるのを待っててあげてたのに、......友達甲斐が、ないんだから」
ハンカチをべちっと顔面に投げつけられた。ぱす、と膝に落ちて、あげると投げやりに言われる。
さっきのような足取りでざくざば歩いていくヒヨリの後ろ姿をぼんやりと見送る。追い付こうかとやっと気が付いたときにはヒヨリは曲がり角に消えていて、僕は完全に取り残されていた。
逢いたいと、誰かに口にしたのははじめてだった。口にしてはじめて僕は逢いたいことに気付いた。
誰もいない隣をふと振り返る。姿も影も、どこにもない。けどその覚えていない体温は、醒めていない。
僕は立ち上がって、ハンカチで口を押さえた。思ったより派手に血が出ていてハンカチは台無しになり、お言葉に甘えて貰ったことにした。

ふざけるなと怒号が飛んでくる。竦み上がるようなそれに負けじと睨んだ。なんだその目はと叱られ、いつの間にか僕の生活態度などに逸れていく。そんな話してない、今は関係ないと言えば煩いと一喝される。父さんは気分を害したと言わんばかりに食卓から抜け、僕を見やしない。
その日はそれだけだった。
次の日、朝からその話題を持ち出した。けれど休日にそんな下らない話題できるかと聞く耳を持たなかった。それでもすがって聞いてほしいと頼めば部屋から追い出される羽目になった。ふらふらとどんどん熱を上げていく道や建物に参りながらどうにか川の近くでだらだらと説得内容をひたすら考えて過ごした。蚊に食われてぼしぼしと掻きながら日が暮れてから帰宅したが、父さんはすでに寝たと母さんから告げられた。
次の次の日は父さんが母さんにぼそぼそとなんでああなったんだと話しているのに突撃し、昨日考えた説得をひたすら並び立てた。しかしそんな反論の余地を与えない僕のペースが不満だったらしく、今度は夜通し家から閉め出された。
次の次の次の日、お金の話から攻めてみた。特待を取れると言われたと語れば、生活費などの話へと移動し、お金ということで母親まで傍観の立場を崩した。飽くまで中立だったが、亭主関白を地でいく父さんの味方につくのは時間の問題だろう。
次の次の次の次の日、父さんは飲み屋でただでさえでかい声を大声にして愚痴ったらしく、近所の人にまで説得された。僕の問題ですときっぱり絶ったけど、これは酷く堪えた。
五日経ったが、非常に分が悪い。
「で、まともな説明は?」
「たぶん一個も頭に入れてもらえてない」
「私の家まで噂が飛んでるんだけど。あんたはすごくバカなのに不相応な高校に憧れで行きたい頭の弱い子って設定になってるわよ」
語彙を増やし対抗しようと図書館に行き、ばったりと課題図書を探していたヒヨリと出会った。今は図書館の食堂で目下近況報告中。テーブルにはコーラとアイスティーが置かれている。
「最終手段は私と駆け落ち風にここを出る、ね」
「そんなことしたら僕はアサヒナーたちからの呪いを一身に受け取ることになる」
「キモッ。てかそこで私の幸せを願えない時点で恋愛対象外もいいとこね」
盗み聞きしていたアサヒナー数人が泣きながら外に飛び出していったけど、なにも見なかったことにしよう。
「心配っていうより、思い通りじゃないのが気に食わないかしら」
「ああもう、どうにかなんないかな」
面倒ね、とヒヨリは苦い顔をする。勉強をしろというにも十分なほどの成績を叩きだし、お金がと金銭問題も特待を取ると言った。課題はと話題に出される前に夏休み開始直後に全部済ませ、生活態度の話も母さんを手伝わないとかごにゃごにゃ言うが、父さんが知らないだけで手伝っているのは母さんが証人だ。それ以外特に思い付かないのか細々とした取るに足らないものを持ち出してはそれらをループする。
なにがいけないのだろうか。そんなに憧れるのは悪いことなのだろうか。
ヒヨリと話し込んでいる内に図書館の閉館を報せる音楽が流れた。送ろうかと言った僕にヒヨリは自転車を指し、鞄の中から催涙スプレーやシャーペンを取り出して見せた。シャーペンをなにに使うかは極力考えずに帰路につく。億劫で息苦しい家の前、玄関がとても冷たく見えた。
「ただいま」
おかえりと答える声は母さんだけだった。行儀だ礼儀だと煩い父さんは答えない。そんな父さんが一番行儀も礼儀も欠いていると思うのは、子供のひねた考えからなのか。
テレビを見て黙っている背中をスルーして部屋に上がった。今話しかけても邪魔だと言われるだけだろうし、今だ子供はテレビを見るなと言っているほどだ。お陰で情報は新聞や本に限られ、今や図書館や本屋の常連。
昔はヒヨリ一色だった部屋が、今は本だらけになっている。そろそろ段ボールに詰めて収納するにもスペースが無くなってきた。両親が本棚なんて気の利いたものを買ってくれるわけもないので床が抜けるまでこのままだ。
「憂鬱だ......」
椅子に座って天井を見上げる。木目の天井に愚痴っても仕方ないとはいえ、それほど参っている。いっそまたインドの研究がどうだとか言ってみようかと思うが、それは気が進まない。
晩御飯の時間が近付くにつれて、重い息が行き場をなくして体内を巡った。窓は夕日を透かし、部屋を赤っぽいオレンジに変え、黄色く染める。徐々に紫が混じっていくのを眺めながら、僕は気晴らしに高校の資料を捲った。
共学のはずだが女子の割合が高いのは、漫画に出てきそうな女学院というものまんまの外観からだろう。ヒヨリはご満悦だったが僕には異質に見えて仕方ない。なんといっても周りのコンクリートジャングルで、そこに突然ポッと女学園もどきが建っている様はどうにも滑稽だ。
候補の一つだったがヒヨリが身内に借りる予定の家から近いのと外観を気に入ったため本命らしい。ヒヨリがいれば心強かろうと僕もそこにしたが、資料の写真を見せたとき父さんに微妙な顔であらぬ誤解をされかけたのは軽いトラウマだった。
「そうか、部屋」
ふと自分の脳内で出てきた単語を拾う。説得に夢中になっていたが、部屋を探さないといけない。まさかヒヨリのところへ厄介になるわけにもいかないし、好きじゃないからといって間違いが起きない保証はない。
問題がひとつ増え、気晴らしは逆に焦りを強調しただけに終わった。

何度となく論じてきたが、そろそろ精神的疲労が僕らを包んでいた。父さんはそれが分かりやすく、少しのことでがなりたて、僕を殴ることもあった。
そんな父さんを止めるのは母さんだった。予想に反して母さんは見ているだけのスタンスを崩さず、飽くまで中立で居続けている。それが更に父さんの機嫌を損ねていたが。
「いい加減にしろっ!馬鹿馬鹿しい!」
閉められた襖が大きな音を立てる。勢いがよすぎて最近襖の閉まりが悪いと母さんはそっと文句を呟いた。
ようやく冷めきった晩御飯を噛む。まるで粘土のようで、ストレスも相俟ってそろそろ吐きそうだった。
「ねえ響也、なんでそんなにそこに行きたいの?」
無言で食べていた僕に母さんが突然尋ねてきた。父さんに幾度と破かれては新しく持ってきた資料は、今日は触られもしなかった。母さんが資料をぱらぱらと読んでいるのは、どこか不思議に感じて変に間が空く。
「ヒヨリが一緒なら心強いかなって、そこ。ごめん、別に行きたい高校ってわけじゃないんだ」
「まあそうでしょうね」
怒るかと思ったが、母さんはことことと静かに笑った。母さんが笑うのを久しぶりに見た気がして、なんだかホッとする。途端に粘土のようだった料理はちゃんと味がついたように思えた。
「その街に行きたいんだ。そりゃ、都会に憧れているとかはあるけど、そうじゃなくて」
「ヒヨリちゃんについていきたいの?」
「......ううん、僕は別にヒヨリのことをそういう意味で好きじゃないから」
母さんの言葉に気恥ずかしくなる。聖職だと言い、母さんの前で隠しもせずストーカーをやっていたのだ。バレていることは分かりきっていたが、言葉にされると羞恥が走る。
「そう。じゃあとりあえず明日はお父さんお休みだから、やるなら朝からやりなさい。晩御飯をこれ以上残されるのは困るわ」
「僕が食べるけど」
「冷めちゃって美味しくないでしょう。最近あんまり食べれてないのに、無理して食べないの」
母さんが資料を僕に返して食卓を片付け始めた。母さんがいつまでも中立にいたのは僕を思ってのことだと気が付いた。
熱いお茶を出され、それを飲む。蒸し暑い夜だったけど、美味しかった。

朝からの猛攻は近所迷惑になっているだろう。それほどまでに父さんは怒鳴り、僕は負けじとそれに被せるように声を上げて話す。近所の人からの視線にも慣れた。アサヒナーたちは僕がヒヨリを好きだから頑張っているんだと思っているらしく、外を歩けば殺気が飛ぶ。
「お前なんかが一人で暮らしていけるわけないだろう!」
「さっきまで高校の話してたのに、なんで急にそっちに逸らすんだよ!」
「親に向かってなんだその口の聞き方は?!」
「だから今そんなの関係ないだろ!!」
不毛。この二文字に尽きた。
癇癪を起こしたようにあっちこっち話を飛ばす父さんに酷く苛立ち、喉が痛くなるほど大声を出す。不意に母さんが横槍を入れてくれてその時ばかりは落ち着くが、どんどんヒートアップしていく話題は父さんのせいでループを繰り返していた。
「あの子についていきたいだけで、そんな金が出てくるか!!」
「ヒヨリは関係ないってずっと言ってる!」
「お前があの子の付き添いで行ってからだろうっ、そんなバカなことを言い出したのは!」
こうして話題はヒヨリにまで飛び火し、僕がそんなんじゃないと言ってまたもとの話題に戻る。そういうことを幾度と繰り返していた。ヒヨリに申し訳ないと思いながら。
けれど父さんは言ってしまった、そんなんじゃないと言っても。
「あの子みたいな周りをバカにするような奴にたぶらかされて、本当にどうしようもない奴だな!」
「......、は」
「恋だなんだとバカらしい!あんな下らない奴と付き合って一生をフイにする気か、このバカ息子!」
僕の口からは乾いた息しかでなかった。
こんなろくでもない大人に、ヒヨリのなにが分かるのだろう。ヒヨリを下らないと見下してバカにしてるのは自分なのに、そんな大人がヒヨリのなにを知っているんだろう。
「ふ、ざけ......っ」
目の前がカッとする。熱が走って痛い。
殴ろうと思った。拳を握って衝動のままに殴ろうと。絞り出した声に父さんが眉を吊り上げる。また、なんだその目は、だ。目が、なんだ。
「落ち着いて」
けれどそうはならなかった。僕の前に誰かが滑り込み、父さんとの間に立つ。綺麗な姿勢で母さんが父さんを見ていた。母さんの肩越しに、突然割り込んできた母さんに父さんがぎょっとしているのが見えた。
「父さんは少し黙っていて」
「なんだ急に、お前は引っ込んでなさい」
「いいえ、言わせてもらいます。あなた、カッとしていただけだとしてもさっきのはダメよ。一時間黙っていて」
突然の母さんからの冷たい言葉に、父さんは押し黙る。今まで秘められていた意外な力関係に、僕はさっきの怒りを反らされたのもあって少しぽかんとした。
黙った父さんに母さんは僕に向き合った。とりあえず座りなさいと母さんが座布団を指差し、用意していたのかすぐにお茶を淹れてくる。
「そうじゃないのは分かっているから、飲んで落ち着きなさい。二人ともよ」
「は、はい......」
気迫に押されて僕と父さんはお茶を飲む。熱い部屋に痛いほどの喉、冷えた麦茶がじわりと染みる。
「情けないわね、子供にお金を心配されて、意見も聞かない」
「特待取るように」
「いいえ、いいわ。響也が生まれてから貯めてたお金がちゃんとあります。あの高校の三年間の学費だと、貴方が大人になってからじゃほとんど渡せないけど、生活に支障はないわ」
そんなものがあったのかと父さんを見ると、落ち着かないのかそわそわしていてこっちを全然見ていなかった。母さんの最初の言葉が大分ダメージになっているらしい。
「けどね響也、なんで行きたいのか、そろそろ話してほしいの」
「それは......」
「お父さんは響也が思い通りにいかなくって叱ってるっていうこともあるけれど、心配もしてるのよ。ええ、子供みたいな癇癪で押し潰していたけどね、意見も聞かず」
そうだそうだと言わんばかりに口を開きかけた父さんを最後しっかり叩き潰す手際につい感心する。母さんは黙ったままの父さんを一瞥し、そして僕を見る。
真っ直ぐの視線に、今度は僕が少し怯んだ。
「......逢いたい人が、いるんだ」
父さんが言っていたことは大間違いもいいところだけど、なにも全部が違った訳じゃない。
恋だなんだと、バカらしく。そう、なら僕はバカだ。
「あっちは待ってないかもしれない、僕みたいに思い出せないで、もしかしたら思い出せないことも思い出せなくなってるかもしれない」
「なんだそれは、ふざけて......」
「お父さん、まだ一時間経ってないけど増やされたいの?」
父さんから見ればバカかもしれない、母さんから見てどう写っているのかは分からない。けど僕にはこれだけできる動機になる。
「でも約束したんだ」
また逢える保証はないし、探しても素通りしてしまいそうなほど思い出せない。けれどまた逢おうと約束したことは、覚えている。
茹だる炎天下、少し涼しくなった夕景、おいでと招いてくれたドア。また逢って、また話して。
「さよなら」と言ったのはいつだったかも思い出せないけれど。
「バカかもしれないけど」
ぼと、と汗じゃない水が滴り落ちる。正座のまま後ろに下がった。母さんを見て、畳に手をつく。
情けないと笑うだろうか。

「お願いです、行かせてください」

頭を下げて、近い緑色にたんたんと広がる濃さ。やっと自分の目から流れ出ていることに気付く。
逢いたい。
僕の手を引っ張った体温に。僕に向けられた笑顔に。僕の言葉に反応した声に。

僕の隣は、今も空っぽだ。

「わかったわ」
母さんがふと軽く息をついた。自分に決定権があると信じて疑っていなかった父さんはぎょっと目を剥いて母さんを見る。
「おまえ!」
「あれだけ怒鳴っていて、まだなにか言いたいのかしら」
父さんが言い淀んでいる間に母さんが頭を上げてと僕の肩を叩いた。母さんの顔が見えにくい。
「大きくなるものね。なにも言わせないからヒヨリちゃんに報告してきなさい」
「ありがとう......」
「バカな子ね、泣かないの」
母さんの言葉に頷いて、立ち上がった。父さんは苦虫を噛み潰したように不満げだ。
玄関から出るとまだ暑かったが、夏休みの終わりを告げるようにセミの鳴き声が少なくなっている。雲ひとつない晴天はダルいほどで、僕の夏休みは足早に過ぎ去っていった。
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