122 | ナノ
ケンジロウ

さあて、とにこにこした笑顔に俺は軽い死を覚悟した。記憶の中の貴音は、こんなにキラキラと爽やかに可愛らしく笑ったことが、ましてや俺に向けたことがあっただろうか。いやない。冷や汗が背中にぶわっと伝う。忍び寄る死の気配は依然濃いまま、俺をじんわりと取り囲んだ。後ろに遥がいることも一因だろう。前門の虎、後門の龍。ならば横に行けばよいかといえば、そんなことはまったくないのだ。ああアヤノ、キド、セト、カノ、そして俺の女神といって差し支えないアヤカ。さようなら、いい人生だった。
覚悟を決めた俺はふっと不敵に笑い、貴音を見る。そして俺の表情で心情を察してくれたらしく、貴音はそうかそうかと満足そうな笑顔で近付いてきた。笑顔で教師に歩んでくる生徒、まあ字面だけはなんて素晴らしく微笑ましい場面なことか。しかし実際は貴音の一歩一歩が地面にヒビを入れ、俺の危機感と緊張感を高めるジョーズの音楽が流れているような状況だ。
そして貴音が俺の目の前で足を止めた。ぴたりと止まり、静寂が広がる。まるで一瞬のようで、そしてそれは何時間にも感じられた。
徐に片足を少し後ろに下げた貴音にもしやなにもしないのでは、俺は助かったのかと激しい感動を覚えた。覚えてしまった。バカだなあ。

「ふざけんなくそ教師!!」
「ごふっっ......!」

そんな訳なかった。全力を乗せられた拳は俺の鳩尾を抉り、体を吹っ飛ばす。よく気を飛ばさなかったと褒めてくれ。
しかし、床に倒れ伏そうとした俺を後ろから誰かが支えた。がしりと俺の腕を取り、そのまま立たせる。後ろを恐る恐る振り返れば、病弱設定どこやったな健康的な遥が申し訳なさそうに笑っていた。

「ごめんね先生」
「え」

ぽんっと肩に置かれた手。そしてぎゅっと握られた拳。今度こそ本当の死を覚悟する。
ぐっと後ろに引かれた拳。その先真っ直ぐに、俺の腹。

「僕も怒ってるから」

無表情になった遥を最後に俺はぶつりと意識の電源を切った。

見覚えのない白い天井に一瞬で俺はもしや腹に穴が開いてしまいそのせいで何日も意識不明だったのではと想像してしまったが、どうやらそんなことは一個もなかったらしい。点滴も機械もなければナースもいない。別にナースに特に興奮するわけではないがアヤカが着たら俺は死ねると思う。

「うわ、なに笑ってるんですか。気持ちわるい」
「妄想ぐらい、させろよ......」
「え、もっと気持ちわるいです。ごしゅじ、じゃなかった、シンタローと良い勝負ですよ」

妄想は貴音の声によって遮られた。呆れた顔で俺を見てくる。どうやら様子を見ていてくれていたらしい。遥もベッドに突っ伏して寝ているが、貴音と同じだろう。涎垂らして寝ているが。寝ているが。
起き上がると腹がズキィッと痛んだ。痛みに吐きそうになって思わず口を押さえる。げっと叫んだ貴音は洗面器を投げてきた。がこんと頭に当たり、ベッドにぼすんと落ちる。コントロールが上手いのがまた腹が立った。

「う、ぇ」
「吐くならさっさと吐いてください、それか飲み込め」
「無茶、言うな......ああくそ......」

どうにか耐えきった俺はシャツを捲る。予想以上のアザが腹を不気味に彩っていた。アザってこんな色になるんだ、と涙が溢れそうになる。

「まあ自業自得です。あと二十分は耐えてもらうはずだったんですが、それで終わったことに感謝してください」
「ぼ、撲殺回避......」
「私は再開してもいいんですから黙っててください」

ふんっと吐き捨てた貴音の望み通り、俺は黙る。本当に撲殺されてしまうかもしれないし、貴音の望みならということもある。
我に帰ると酷いものだ。たぶらかされて操られて、俺は一体何をした。アヤカを望んで望んで望んで、残ったものを全部取り零して。止めるのは今だと何度自分に言って、何度自分が拒否したか。

「怒ってますよ、私も遥も」
「当然だな」
「私たちを呼んだのは、殴らせるためですか」

貴音はじっとこっちを見る。目付きが悪いのは相変わらずだった。
俺を忘れて歩むつもりだったのか、二人は俺に会いに来ようとはしなかった。それを無理に呼びつけたのは俺だ。死を覚悟して逃げたかったが。

「殺してくれるかもな、とは思ったぜ」
「それはあんたが吹っ切れるだけです」
「そう、そのために呼んだ」
「......私は、あんたと回りくどく話したい訳じゃない」

貴音の言葉に、賢くなったなとふざけて笑っておいた。あとはずっと、なにも言わなかった。聞いても答えられる気がしなかった。俺自身何のためによんだのか分かっていない。それに俺は、まだ全部を思い出した訳じゃなかった。
そうじゃなきゃ会えないんじゃないかと思った。すべてを思い出したら、俺は開き直るんじゃないか。アヤカのためだ、と宣うんじゃないか。

「あーもう、だまんまりとか子供か!」
「子供できたら写真送ってくれ」
「誰が送るか!もう、遥ったら!帰るよ!」
「ふあっ、な、なに、なんで貴音怒ってるの......?」
「なんでもない!」

肩を怒らせる貴音に遥は寝ぼけ眼でふらふらと危なっかしく続いた。ドアを壊さんばかりに開く貴音に、遥はぴゃっと驚いていた。
その前に殺してほしかったのかもな、と遥を連れて帰る貴音に聞こえないように呟いた。

廊下は貴音のスリッパがばったんぱたと響く。その後ろをちょっと急いで歩く。歩幅のお陰ですぐに追い付いた。

「良いの、貴音」
「良いの!!」
「そっか」

むっすーっと頬を膨らます貴音は、自分に苛ついているようだ。先生に苛ついているわけじゃないらしい。中々どうして、素直になれないのは前と変わらない。

「先生、気付くといいね」
「知らない!」

顔を逸らされる。仕方ないな、と思いながら保健室を振り返った。
先生、僕はもう怒ってないよ。
先生、貴音は優しいよ。
先生、僕らは本当は、呼び出されなくても来る予定だったんだよ。
先生、。

僕らは、貴方を殺せないよ。

「だって、大好きだもの」

ぼそりと呟いた言葉が届けばいいのに。
置いてきたスケッチブックを見てくれるだろうか。書いた言葉を確認してくれるだろうか。幸せに、幸福に。
僕らは感謝している。

遥が忘れて帰ったスケッチブックを職員室で開く。ようやく回復して帰る支度をしていた頃、保健室の先生が忘れ物だと持ってきた。
中はぱらぱらと落書きがあるだけで、大きく使われているページはない。珍しいなと思いながら捲り、最後のページまで開く。

「な、ん......」

思わずバシンッと思いっきりスケッチブックを閉じてしまった。残っていた先生たちがこちらを見てくるが、なにも言えなかった。
時間を見て、ガタンッと椅子が転けそうなほどの勢いで立ち上がる。じわーっと腹が痛んだが気にせず理科準備室の鍵を壁から取った。さすがに年と体調で走ることはできないが、急ぎ足で向かう。
怒ってたんじゃなかったのか。
許さないんじゃなかったのか。
俺はお前らになにをした。
俺はお前らを、殺したのに。

「は、っ、ああ......」

ああ。
開いたドアの先で光る液晶。懐かしいそれは、文化祭のときに使ったパソコンだ。紫の町並みはそのまま、けれどぬいぐるみはいない。
如月、生意気で湿っぽい顔が似ている。アヤノ、はしゃいでる雰囲気はそのままだ。貴音、やっぱり目付きは悪いな。遥、自分の顔くらい客観的に描けろよ。

「俺はもっと、男前だよなぁ」

暗闇で光る液晶に目が痛い。近付くと小さな文字も目に入った。見覚えのある文字。

『誕生日おめでとう』

俺はどうやら、バカな生徒を持つ運命らしい。
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