113 | ナノ
シンヒヨ

「ねえシンタローさん、キスしない?」

ガチャンッとカップが落ちて中身の紅茶がガラスのテーブルに広がる。冷めていたから湯気はでていない。口に含んだ紅茶を危うくだぱっと溢しそうになったがどうにか努力して飲み込んだ。ごっくんと飲み込んだ音が大きく響く。
向かいのソファに優雅に腰掛けているヒヨリはにこりとこれまた素晴らしい笑みだ。現役アイドル顔負け、ぶっちゃけアイドルだと言われてもあっさり信じてしまうだろう。けれどその裏には毒々しい色を持っている。
そんなヒヨリから言われた耳を疑う言葉。

「......は?」
「なに間抜けな顔してるの」
「いや、今なんて」

どうか聞き違いでありますようにと願いながら聞き返せば心底呆れた顔でため息を深くつかれた。かわいい顔でそんなことをされるとさすがに傷付く。
ポケットから取り出したピンクのハンカチが目の前に差し出される。それにはたとテーブルの惨状を思い出して有り難く借りた。しかし遅ればせながらまた気付いた、新しいものを買わされるフラグだ。
くっ、と歯を噛んで悔やむ。最近ゲームを買ってしまい金欠だというのに。

「シンタローさんってほんっと、間抜け」
「うるせえ......」

小学生に間抜けと言われる十八歳、字面も絵面も情けないことこの上ない。
奇跡的に無事だった机からも落ちたカップをことんとテーブルに置く。そこまで残っていなかった紅茶はどうにかハンカチ一枚に吸い取られてくれた。ピンクのハンカチは乾いていたときとは大違いに濃く染まり、ぐっしょりと重たい。

「わり、ハンカチ......」
「安物だし、良いわ」
「やっぱ捨てんのな......」
「シンタローさんの唾液が付着したものを私が使うと思う?常に持ち歩いてそれで手を拭くのよ?まるで私が変態じゃない」
「変な言い方すんな!溢した紅茶拭いただけ!」

有り得ないと言わんばかりの顔と語弊のある言い方にぐっさりと何かが刺さる。じゃあ貸すなよと言いたいが善意であったことには変わりない。
ヒヨリはゆーらゆーらと足を交互に揺らしている。

「新しく買って、......返シマス」
「要らない、貧乏な男に無理してプレゼントされても重いだけだから」
「ああそう......」

ヒヨリの毒舌には今も慣れない。ふふ、と慎ましやかに笑う顔は間違いなくかわいいからこそ、更にだろう。
もうなにか言い返す気にもなれずソファに凭れる。絞ればたっぷりと紅茶が出てきそうなハンカチは取り合えず横に置いた。後で洗濯機に入れて一応返そうと思うが、目の前で捨てられるさまが容易に思い描ける。それも笑顔で。

「でも何も要らないとは言ってないからね?」
「なにが欲しいんでしょうか......」

にこっといつも以上にサービス精神旺盛な笑顔がオレの少し安心した心を思いっきり切りつける。安心したところに来る、そういう奴だって知っていたはずだ。
しかしさっきの言葉からなにかを買ってという訳じゃないようで、しかしオレがヒヨリのお気に召すような物を持っているとは思えない。
はてと考えるオレにヒヨリの極寒視線が吹雪く。

「シンタローさんの頭は三歩も歩いてないのに忘れるなんて、鶏より下なんだ。私、シンタローさんを買い被りすぎちゃってたな」
「あ、すいませ......、オレなんか忘れてんの?」

思わず謝りそうになったのを大分手遅れ感が否めないが飲み込んでヒヨリに聞く。しかし哀れと目を細めるヒヨリに指先が冷える。こいつ本当に小学生なのか。
ヒヨリがソファから立ち上がり、ひらりとピンクのワンピースが揺れた。じっとこっちを見てくる黒い目に少しぎくりとする。

「据え膳よ?」
「え、......うん?」
「......シンタローさんの馬鹿、鶏以下、鈍感、愚鈍、愚図、クズ。高校中退親不孝者親の脛かじり、これからどうやって生きていくの?もしかして物乞い?」
「勘弁してくださいっ!」

あまりの言い様に土下座せんばかりに叫ぶと煩そうにヒヨリは顔をしかめる。けどその中にむすっとした不機嫌さも窺えた。それを確信させるようにオレが一番堪える話題を持ち出してきている。
小学生に泣かされているというのも何だが、正直泣きたい。ヒヨリは腕を組んでふんっと馬鹿にしたようにそんなオレをじとりと睨んできた。

「一回私はちゃんと言ったの、何回も言わせないでくれない?」
「はあ......」

それくらい許せよ。とは忘れているのがオレであるため言えない。
トットッと歩いてきてオレの隣に座るヒヨリに気の抜けた返事を返す。また睨まれたが話が進まないと判断したのか特になにも文句は飛んでこなかった。

「キスしましょう」
「どうしてそうなった」

スパッと告げられた言葉にツッコむ。どうしてそうなった。
キスとはつまり恋人同士の行為であり、というかまずオレとヒヨリの年齢を考えるとアウトだ、素晴らしくアウトでしかない。オレは社会的に死ぬ、確実に。

「なにが不満なの」
「なにが不満って、不満の前にお前なに言ってんの?!」
「純然たる欲求だけど」
「オレが死ぬから!」
「私とキスできる感動で?」
「社会的にだ!!」

思わず手が出た。モモと話しているような気分になってしまったのかもしれない、自分自身驚くほど容赦なく降り下ろせたチョップ。ゴッとヒヨリの額から音が出る。

「いたっ!ちょっと、女の子殴らないでよっサイッテー!」
「お前が馬鹿なこと言うからだろ!」
「どこが?!キスくらい昨今の小学生じゃ普通だから!」
「爛れてるっての!昨今とオレの時代を一緒に考えるな、少なくともオレは見たことねえよ!」
「シンタローさんが見たことないだけでしょそれ!時代錯誤人間!」

小学生と本気で口論なんて、頭が痛くなってくる。例えオレが見たことがないだけにしろ見たことがないということは当たり前じゃなかったことだろう。

「てか第一なんでオレとキスなんだよ!」
「決まってるでしょ、好きだからよっ!」

バンッとヒヨリがテーブルを叩く。気迫でびりっと端まで響いて痺れているように見えて言葉を飲み込んだ。オレが黙ったことによってヒヨリも押し黙る。軽く息が上がっているの半ば叫ぶように口論していたからだろう。
忘れ去られたヒヨリの紅茶はすっかり冷めているように見えた。

「......なにがダメなの」

しばらくの沈黙のあと、ヒヨリが喉から絞り出したような声で呟いた。

「なにがダメなの、どうしたらキスしてくれるの。好きじゃダメなの」
「ダメっていうか......」
「っ、ハッキリ言ってよ!私が小学生だから?子供だから?恋愛対象じゃないから?」

全部だ、と、答えればどうなるのだろうか。
口ごもったオレに詰め寄って並び立てるヒヨリはぐっと一回口を閉じた。言い淀む顔。

「わ、私、かわいくない......?」

ヒヨリはよく分かっている子だ。自分がどういう顔でどういう容姿でどういう声でどういう性格か、分かりきっている。そんなヒヨリがそんな言葉を吐き出すことにどれほどの悔しさが入っているのか計れるわけない。

「いっつもやなこと言うし、趣味悪いし、キスしてもらって写真に納めて付き合ってもらおうとか考えてるし」
「お前そんなこと考えてたの......?!」

弱味を握って脅したかったと吐露するヒヨリにぞっとする。ろくな大人にならないと訴えでるオーラを沸々感じた。
いつもの偉そうな態度はどこへやら、俯いて顔をしかめ、むつりと口を結んでいる。小学生の好きは信用できない、というのは、軽いからだ。オレ自身体験がある、誰々が好きだ嫌いだと騒いで笑う。容姿に左右されたり性格に左右されたりランクをつけてしまったり。

「弱味以外、保証がない......。私みたいな趣味が悪い人が現れない保証、キドさんたちがシンタローさんと付き合わない保証」
「おま......いや良いけど。でもお前が散々言う通りじゃねえの......」

自分のマイナスを認めるというのも大変体力が削られる。好きだと宣ったその口でオレを容赦なくこき落としてくるのだから小学生は怖い。

「私が好きになったんだから魅力のひとつやふたつあるのよ!」
「あ、どうも......」

ヒヨリの持論で通されたがあまり嬉しくない。世界がお前に合わせて進むと思っているのか。実際こいつが本気になれば進んでしまいそうだから恐ろしい。
ヒヨリはむすーっとした顔でオレを見上げる。

「キスできないなら付き合って」
「いやいやいや」
「じゃあ結婚して」
「色々ツッコみたいけどハードルが跳ね上がってる!」
「じゃあ好きになって」

あのなと横に向き直ると思ったより真剣な顔でオレを見るヒヨリが居た。膝に置いてる手はスカートを掴んで震え、白くなっている。
コノハが好きなんじゃなかったのか、ヒビヤはどうした。セトの方がイケメンだし、カノの方が一緒に居て楽しいだろ。

「約束できない」

返事をするとグッとヒヨリが泣きそうになった。ふい、と顔を落とされ泣いてるのかは分からない。
好きじゃないからとか、恋愛対象に見れないとか、理由はある。けれど言ってもどうにかなるものじゃないし、ヒヨリ自身分かっていることだろう。

「ただお前は......かわいい、と思う」

後半はぼそぼそと言ってしまいヒヨリが聞き取れたか不安になる。前科があるオレには若干のトラウマだ。最近人と話しているためマシではあるはずだが。
ヒヨリは顔を上げないまま。

「かわいい?」
「あー、そこら辺のやつよりよっぽどな」
「......ふ、知ってるわ」
「......ソウデスカー」

鼻で笑われてムカッとするが抑える。相変わらず自分のことをよく分かってらっしゃるようで。

「シンタローさん」
「なんだ」
「好きって言って、今は嘘で良いから」
「......え、ええ......今はってなに......」

キスよりマシかと考え込みそうになったオレの耳に何やら不穏な言葉が入る。
ヒヨリが立ち上がってパッとスカートと髪を揺らして振り返る。

「当然、次は私を好きになっていてもらうからよ」

自信満々な笑顔でオレに宣言する。宣言というより予言に近い気がして堪らない。口がひくりと引きつった。
ヒヨリがにっこりと笑ってオレの言葉を待っている。
しかしそう軽々しく好きと言えるほどオレの羞恥心というものも小さくない。適当に言ったら絶対ヒヨリが納得するまで続くだろう。演技指導を入れられるのはごめんだ。早く早くとオレの膝に手をついて僅か十五センチ程の近さで催促するヒヨリにやっぱり無理ですとは言い難い。

「えーと......」

ヒヨリの目が異様に輝いていて、こんな引きニートですよと生活実態を赤裸々に見せ付けたくなる。他に多く居るだろう、ヒヨリなら引く手数多だろう、なぜオレなのか。

「余計なこと考えないで口を動かして」
「いや決して余計なことじゃ」
「言い訳は良いから」
「はい......」

ヒヨリにピシャッと額を軽く打たれる。さっきのチョップのお返しだろうか、よく考えるとなんてことしてんだオレ。ヒヨリに暴力なんて、後が怖い。
なにか言おうとしてまた口を閉じて、端から見ると一体オレはどんなもんなのだろうか。絶対ろくな感想は抱かれないだろう。
ずる、とオレの額に打たれたまま残るヒヨリの手が少し落ちる。手が痺れてきたのか。催促のつもりで残しているのだろうか、意地を張って痺れても置いたままのようだ。小さい手を掴んで離すとヒヨリの顔がムッとした。

「ちっさ」
「小学生だから」
「ま、そうだよな」

オレもこんな感じだったのかと思わずまじまじと見てしまう。綺麗に切られた爪に薄く色が乗っている。モモも憧れて母にやってもらっていた。一回一人でやってはみ出てぐちゃぐちゃ、瓶を引っくり返して中身はぶちまけ。今じゃマリーにやったりできるほどマシにはなっていることを思うと、笑えて仕方ない。

「な、なにか可笑しい?」
「いや、思い出し笑い」
「え、キモい」

ずぱっと鋭い言葉に確かにと頷くしかない。こいつ本当にオレのこと好きなんだろうか。

「早く」
「あー......おう」

忘れてくれなかった。少し不機嫌な声で催促されてなんでこうなったのかと暫し思い出を漁ってしまう。
キスしてとか、好きと言えとか。今までハッキリと言ったことが子供時代を抜きにしてはまったく無い。喉が詰まって声がでなくなる。
言えねーと頭を抱え込みそうになったところではたと思い付いた。これなら言わなくても良いんじゃないか、むしろすぐ済む。そっとヒヨリを窺うとどんどん不機嫌になっているのが分かった。これ以上待たせるとなにを言われどれを抉られるか。
ぎゅっと目を力の限り閉じる。

「......え、ちょっと、えっ、ええ?!」

がばっと顔を一気に上げて困惑するヒヨリの声を聞く。今さら遅いが、こっちの方がずっと恥ずかしかった。言わなくて良いといってもこれはない。

「な、なにっ......!」
「いや好きはさすがにオレには無理だったというか家族以外ってちょっとハードル果てしなく高いというかいっそ言わなければ良いんだと......、あの......ヒヨリ、大丈夫か?」
「だい、だ、〜っ!」
「いった!」

グーで腹を殴られた。小学生の力と侮るなかれ、かなり痛い。しかもなんか殴り慣れてる。
顔が真っ赤なヒヨリがはくはくと口を懸命に動かしてオレになにかを言おうと必死になっている。オレもさすがに無かったとは思うが、殴るなよ。

「し、しらな、もう知らないっ!シンタローさんのばーかっ!!」
「痛い痛い痛い!さすがに肋は止めろ!怒るのも分かるけどちょっと待っ......!」
「っ、怒ってないわよ照れてるのよ!この鈍感気障!!」

また殴られる前に掴んだ手がばしっと払われ、バチンッと今度は平手打ちを頬に食らう。そしてオレがその痛みに復活する前にヒヨリはばたばたと慌てた足音を立ててどこかの部屋に入っていった。バタンッとドアの閉まる音が部屋中に響く。

「......照れるならもっと淑やかに照れろ......」

確実に赤くなっているだろう頬を憂い、二つのカップを持つ。台所まで持っていき、シンクに置く。湿布を求めて探し歩き出す。
けれど徐々に力が抜けてずるずると床に座り込んだ。顔を手で覆うと頬がピシッと痛む。

「なにやってんだ......」

気障、確かに行動だけ見るなら気障だろう。やってる本人は置いておくとして。ぐああと何かが喉元まで上がる。手が目の前にあって、好きとは言えなくて。自分の馬鹿さ加減に、いっそ気持ち悪くなってきた。少女漫画読みすぎたかなと家の本棚の見直しを考える。
手にキスって、大分ダメだ。いやでもそれよりダメなことはオレのスキルセットの問題であって、以前お帰り頂いたはずのものがちゃっかり居座っているからで。

「あれ、お兄ちゃんどうしたの」

玄関の空いた音とモモの声に顔を上げると、ぎょっと目を見開かれる。うわ、と失礼にも悲鳴もオマケで。

「顔真っ赤だけど熱中症?」

モモがソファに座ってハンカチを見つける。なにこれという問いには答えない。
がたんっとどこかの部屋で物音がした。
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