106 | ナノ
遥貴

くたん、とペットボトルが転がって中身を揺らす音。ごおっとクーラーから吐き出される涼風に腕や頭を晒している。目にかけられたタオルは分厚く視界を塞ぎ、微かに揺れるエンジン音を聞く。足はかくりと膝から先は外に放り出され地面に着かない位置でアスファルトの熱を感じる。ミーンミーンと羽音が響き渡り、ざわざわと人の群れを少し遠くに感知した。
タオルを持ち上げて視界を明るくする。ああそうかと納得して車体に凭れてパンフレットをうちわ代わりにする先生を見た。ぼんやりする頭、喉が酷く渇き、やけに体が火照る。情けなさに少し呻いた。
詰まり、熱中症で倒れたのだ。

いつも通り遅刻してきた担任に教室特有の挨拶はない。ただ言葉を交わしてぐたりと暑さに文句を言い連絡事項に入る。その声もぐたりとしていて夏バテでも引こ起こしそうだ。そしてやっとゆっくりした連絡事項が終わるといつも通りに去る先生、なんてことは無かった。

「お前らに良いもんやるよ」

そう言って手渡してきたのは黄色の分厚い紙で作られた長方形のチケット。切り取り線がばしばしっと打たれ、うっかりすると自分で破ってしまいそうになる真っ直ぐな魅力。チケットにしてはずいぶん簡潔で簡単でシンプルなデザイン。真ん中に白で四角がくり貫かれ、大きく展覧会と書かた下に二回り程小さな文字で日時や場所が書いてある。

「なんですか、これ」

隣の席で貴音が黄色いチケットをひらり振って先生に尋ねる。展覧会の他に概要はなく、裏も無地で無愛想なチケット。何だか貴音に似てるなあと少し思って、そっと撫でた。さらっとした手触りの紙特有の凹凸を指で感じ取る。

「教師の間で誰もが都合が着かずにたらい回しになった哀れなチケット」
「なんか変な呪いが凝り固まってそうな言い方止めてくださいよ」

けろっと言ってみせる先生にうえっと顔をしかめてチケットを机に置く貴音。まあまあとにやにやしながら貴音に顔を近付けて、僕をちらりと見た先生とそれに釣られて僕を見た貴音。ぼそぼそと何かを聞こえないように言っていた。仲間はずれかあと足を少しぱたんと揺らす。疎外感に寂しさを感じていれば貴音が大きく声を張り上げた。

「そんなんじゃないです!!」
「照れんなよ、まあ良いチャンスだと思っておごっふ!」

貴音の拳がにやにや笑っていた先生の脇腹に吸い込まれた。少しの手加減も見出だせなかった僕にはその痛みを想像することはできない。フーッと威嚇した猫みたいに顔を真っ赤にして怒る貴音に首を傾げる。理事長って言葉がでなかったなあと漠然と不思議に思った。

「どうかした?貴音」
「な、ななっなんでもない!!」
「うえ?!わ、分かった!」

貴音が僕の方を向いてぶわっと音がしそうな程顔を更に赤くさせた途端ギッと睨んでくる目が鋭さを増して僕にがうっと声を上げた。元気の良すぎる否定に間抜けな返事をしながら、やっぱり疎外感。たまに感じる、先生より僕の方が貴音といっぱい居るのになんて幼稚な嫉妬。自身の子どもっぽさにぽそぽそと頬を掻いてしまう。

「たか、ね......っ、おま、手加減しろよ...っ」
「自業自得です!」

先生が脇腹を押さえて教卓を支えに立っていた。ぶるぶる震えている肩から壮絶な痛みを訴えられる。僕もあんな風に殴られるのかなと思うと少しの嬉しさと大きなゾッとした思いを抱える。気をつけようと思いはするが、僕は貴音の地雷がどこなのか全然理解できていないことを思い出すととても心許ない注意だった。
ふんっと腕を組んでそっぽを向く貴音の結ばれた黒髪が、動きに合わせてふわっと揺れる。まだ若干目元が赤くて、先生と貴音がひそひそと話していた様子を思い出す。何だかデートとか聞こえた気がするんだけどと思い返し、さすがに都合が良いかと気恥ずかしさでその考えを消した。

「優しい優しい担任になんて奴だ......ちくしょう、遥にだけ授けてやる......」
「なに子どもっぽいことしてるんですか、大人げない......」
「ふん、大人はなぁ、大体大人げねぇんだよ!」

貴音の呆れた言葉に先生は胸を反らして得意そうに反論に聞こえない開き直りをして、僕にチケットと同じような色のパンフレットを渡してきた。それを受け取ってぱらりと開いてみる。わっと小さく声が出た。チケットとは違い様々な説明文がふんだんに載せられているそれにわくわくと胸が弾む。美術品の展示らしいとぱらぱら載せられている写真で知れた。貴音が気になるのかちらちらと視線を寄越しては、詰まらなさそうにため息をつく。

「貴音、貴音これ見て」
「え、なに」

ちょいちょいっと貴音の肩を叩いて机に置いたパンフレットを指す。仕方なさそうに椅子を引いて僕の机の横に着いた貴音に会場の写真のようなものを指で示した。わ、と貴音の軽い声が聞こえる。それについ笑ってしまったけど貴音に気づかれることはなかった。先生が羨ましいんだか微笑ましいんだか拗ねてるんだかよく分からない顔をしている。もしかして僕もあんな顔をしていたのかなとふと恥ずかしくなった。

「うわー、なんかごちゃごちゃしてる」
「外みたい。取り合えず色んな作品を取り寄せて展示してるんだって」
「これ彫刻?」
「分からないけど、どこかの会社のエントラスとかに飾ってそうだよね」

確かにと頷きながらも目線はパンフレットに落としたままの貴音。楽しそうと言いそうな口はいつもより端が上がっている。そんな貴音の様子に顔が緩む。僕と一緒の気持ちなんだなーと実感して何だかどこかが痛いような苦しさと大きく広がる暖かさを感じる。
貴音が一個一個の展覧物の写真を指差す。なんだか変な作品だとか、きれいだねとか。そんな話をしていればすぐにパンフレットは読み終わり、最後に会社名や最寄り駅からの地図が載っていた。開催日から最終日が分かりやすく色を変えて書かれている。来週の休みまで。

「この最寄り駅、結構遠い」
「そうなの?」
「駅くらい知っときなよ」
「近いとこなら言えるよー」

貴音の呆れた顔が僕を見る。あんまり電車に乗らないから必然的に駅を知る必要が無いんだけど、と思いながら、貴音が言うなら覚えとこうかなと思った。
貴音がちょっと顔を曇らせてぼそりと呟く。

「電車代がなぁ......」
「ああ、それくらいなら車回してやるよ」
「え?!」

先生の言葉に貴音がぎょっとする。僕も少し驚いて先生を見た。いつも面倒臭がっている先生が自主的に面倒を背負い込むのが意外で、僕と貴音は苦笑する先生から視線を外して顔を見合わせた。

「用事とかかな......」
「でもこんな遠くに用事なんてさあ......」
「おいおいお前ら!俺の善意百パーセントを疑うな!」

ひそひそ声で二人、先生の裏を探っていれば、心外だと言わんばかりの声が教卓を叩いた音と一緒に響いた。そんな言葉に僕は苦笑いしながらチケットをパンフレットに挟み込む。貴音がええっと酷く疑う声を出したけれど、せっかく電車代が浮くのに先生の機嫌を損ねないためか続ける言葉は言わなかった。先生は貴音の声を目敏く気にしていたけれど、それも貴音が言葉を引っ込めたことによって先生の声には繋がらなかったようだ。

「昼飯は自分で出せよ、特に遥」
「先生のケチ」
「ケチじゃない、これは断じてケチの部類じゃない」

先生が僕を名指しする。いっぱい食べることはあるけど、別にセーブできない訳じゃないんだけどな。貴音と先生がケチ、ケチじゃないと言い合っているのを見ながら先生に頷いた。そこでちょうどチャイムがなってホームルームが終わりを告げる。先生が腕時計を見て出席簿を持ち、それをひらっと僕らに振った。ドアを潜るその背中を見送って僕らは授業の準備をする。とは言っても、先生が来て授業を話してくれる訳じゃない。分かりやすい説明と例題を纏めたプリント、練習問題や応用問題が載っている冊子で授業をする。

「今週の休みで良いかな、予定ない?」
「うん、大丈夫」

今は水曜日だからここで予定がなければ入ることもない。定期通院も再来週だし、最近発作もなくて外出を止められることもないだろう。何より先生がついているとなれば両親も安心してくれる。
貴音の言葉に頷けばそっかと貴音も笑って頷いた。いつもみたいな不機嫌そうな顔はない。

「楽しみだね」
「うん」

そっと言ってみると貴音も同意してくれた。楽しみだね、言った言葉に感情が煽られる。へらっと締まりのない顔を思わずしてしまったけど、貴音はそれに目をちょっと細めて一旦顔を背け、僕から見えないように嬉しそうに笑っていた。

そこは最終日が近いにも関わらず人が多かった。
約束した待ち合わせ九時半、母に気を付けてと見送られて十分早く到着した僕の後に貴音が五分後にやってきた。きょろっと僕を探す貴音に軽く手を上げれば直ぐに気付いてくれた。なんだかデートみたいだなあと思っていたら歩いてきた貴音がどうしてか気恥ずかしそうに呻いた。どうしたの、って言っても何でもない!といつもの勢いの良さでかわされてしまったけど。
黒の長いTシャツの裾に黄色と赤の大きな星、白い短パン、フードのついた膝上くらいの半袖の上着。いつものヘッドフォンは首に掛かっている。貴音の私服はいつも制服を見ていたからとても新鮮だった。

「可愛いね」

そう言ったら貴音は急に真っ赤になって握り拳を作った。びくっと身構えてしまったけどそれが貴音から繰り出されることはなくて、しばらくぷるぷる震えた後蚊が鳴くような声であろがとうと言われた。もしかしたら私服で緊張してたのかなと後になって思った。
その後で約束の時間から十分後に先生がやけに爽やかに現れた。軽く謝って車に乗せて流してしまおうと思ってたみたいだけど、到着した先生が口を開く前に貴音の拳が放たれた。遠慮のないスピードで、僕は先生に同情した。しばらく先生は喋れなかった。

移動の十分程度、車内は貴音の罵りで埋まっていた。敬語でしおらしく話して運転する先生はとても可哀想に見えたけど、言い訳がついテレビでやっていた深海探検の番組に夢中になったなんてもので逆に貴音の冷たい怒りを煽っていた。なんだかこの人可哀想だなと思って貴音をたまに宥めたり飲み物を買いたいからと車を停めさせて貴音をコンビニへ連れていったりした。どうにか怒りのボルテージが下がった貴音に先生がそっと機嫌取りのためかお菓子や飲み物代は出してくれた。

「お昼奢ってくれても良いのにね、遥」
「そ、そうだね」
「さすがに無理です、榎本さん......」

完全に下がったわけではないみたいで、度々こんな会話をしながら目的地まで車が走った。ようやく着いたころ、駐車場は満車。タイミング良く目の前でスペースが空いてそこに滑り込んだけど、他の車はうろうろとスペースを探して回っているのが見えた。

「そんな知ってるって人の展覧会じゃないにしては、ずいぶん人多いね」

外に出てクーラーから脱してしまった僕らは会場と矢印が書かれた立て札を見ながら進む。貴音が言ったように有名で知っている昔の人の展覧会じゃないにしては人が多い。

「今人気だったり無名だったり、結構手広いらしいぞ。現代美術家ってやつだな」
「作品も統一感無く何でも入れてるから、そういうのもあるんじゃないかなぁ」

貴音は僕と先生の言葉にふーんと頷いた。少し拗ねたように見えたのは、僕の気のせいかな。
会場は美術館と中庭、出入り口の広場も使っている。人が多くて混雑を避けるためか出入り口の作品は出てきた人たちだけ導かれていた。

「俺はチケット持ってないし、他で時間潰してくっから。終わったら電話しろよ〜」

会場に入る前に先生がそそくさと退散した。まるで邪魔物は消えますよという空気を感じたけど僕も貴音も何も言わない。先生が途中で一服していた時に車内で二人で見付けた博物館のチラシ。深海魚展と見る人を選びそうなグロテスクな深海魚の写真が散りばめられていた。
僕と貴音は顔を見合わせる。貴音の目に呆れとか哀れみが乗っていて、僕も同じような目をしているらしかった。

「行こっか」
「そうだね」

貴音が微妙な沈黙を振り切るように歩き出す。僕もそれに続きながらちらりと後ろを振り返る。先生が怪しい笑顔でポケットからチラシを出しているのを目撃してしまい、振り返ったことに若干の後悔を感じた。

「はー、涼しー......」

美術館に入ると暑さに耐えていた体に涼風が吹き込む。貴音がホッとしたように呟くのを聞きながらチケットを出す。受付のスーツの女の人に渡すと、直ぐに必要な部分を切り取られて返された。これがあるなら今日何度でも入れるらしい。お昼ご飯を食べたいなら外に出て、また戻ってくることも可能ということだ。

「もう十時だもんね、この中だけ見て早めにお昼食べよっか」
「あ、さっき美味しそうなお店がね!」
「どっから見付けてきたのよ......」
「車の中だけど?」

呆れたように見てくる貴音に首を傾げる。何でもないと進んでいく貴音に僕も後を追った。受付の女の人が微笑ましそうにごゆっくりと僕らに声をかける。
入って直ぐに作品があった。長い作品で模型のように細かく複雑な、高さ五センチほどの街が横に長く硝子の中に
広がる。街とは言っても実際にあるような街ではなく、作った人の中にある街らしい。薄い水色の街。何となく僕らが住んでいる街の気配がする。

「うわあ、細かい」
「あ、猫」
「え、うそうそどこ?」

道路を走る猫を指すと貴音はほーっと感心したように息を吐いた。標識や信号の赤がやけに目立つ。表情までは作られていないけど、小さな人が居た。けれど街の大きさに比べてその人たちは少なかった。貴音が一人二人と数えているのを聞くと、全員で十五。一対の白と黒の人、似ている髪の親子、目立つ赤を身に纏う男女、子供が二人で猫を追いかけている。

「変な作品」
「でも僕、これ好きだなぁ」
「......うん、私も。結構好きかも」

小さな声だったけど、嘘偽りない言葉だと感じる。作品から顔を上げると貴音がジッとその街を見下ろしている横顔が見えた。いいなあと思った。
貴音が顔を上げて僕に気づく。かぁっと顔が赤くなってべちっと額を叩かれた。

「見るな!」
「わっ、貴音静かに......っ」

微かなざわめきしか聞こえない館内に貴音の声は大きく響く。何が気に食わなかったのか分からないけどしーっと貴音の口に指を当てる。それにも貴音の顔が赤くなってあぐあぐと何か言いたげな口と目が僕に向かう。入ってきたばかりのお客さんが僕らをちらちらと見ている気配。

「い、行こうか貴音っ」

貴音の手を掴んでそそくさとその作品の前から逃げる。途中我に帰った貴音が何度も僕の名前を呼んだけど、振り返っても何も言われない。けれどいい加減我慢できなかったのか意を決したように僕に口を開いた。

「......手」
「て?」

貴音が真っ赤な顔で物言いたげに掴んだ手を見る。僕も見る。ぶわわっと顔に熱が集まって慌てて貴音から手を離した。ついとは言え手を繋いでいたのだ。

「ご、ごめんっ!嫌だったよね......!」
「え?!嫌じゃなっ......って違う!」
「え?」
「う、うわあああ忘れてええ!!」
「わ、分かったから、貴音落ちつい......っ」

パニックになった貴音を何とか宥める。宥めて落ち着いて騒ぎに騒いでしまった僕らは、はたと現実に帰ってきた。くすくすと小さく笑う声や子供のきゃっきゃっとはしゃぐ声が聞こえ、何だかにっこりした笑顔が向けられている。恥ずかしさで僕は顔を少し伏せて曖昧な笑顔を返す。貴音はまたパニックになるんじゃないかって思うほど目に涙が溜まってた。

「しにたい」
「ダメだよ?!ほら!暫くしたら入り口に居た人も先に行っちゃうよ。そしたら行こう?」
「遥一人で行ってきなよ......」
「ええ......それじゃ詰まんないよ」

どうにか人の居ない逸れた通路で僕と貴音は時間を潰す。さっきの騒ぎのせいで行っても行っても見守られているような落ち着かない視線に晒されるのだ。作品を見るどころじゃ無くなった僕らはそんな人たちが通りすぎるまで待っている。
貴音が踞って顔を伏せて落ち込む。どんよりと暗い雰囲気に僕は困る。貴音が居ないと詰まらない。

「貴音、クレープ好き?」
「......好きだけど、急になに」
「見終わったら食べよう、確かあったはずだから。一緒に食べようよ」

貴音の訝しげ睨む目がちょっとずつ見開かれる。良いよって言って欲しくて、僕も座って目線を貴音と合わせた。これでダメだったら残念だけど、やっぱり一緒に帰ってしまおう。

「ダメ?」
「別に、ダメじゃない......」
「本当?」

むすっとした顔で貴音が頷く。ホッと胸を撫で下ろして僕は立ち上がった。立ち上がろうとする貴音に手を差し出すと、ぎょっとした顔をされたけど、おずおずとゆっくり手を乗せられる。グッと引っ張って貴音を立ち上がらさせた。

「行こっか」
「......クレープ、忘れないでよね」
「うん」

逸れた通路から出るとさっきより人は少なく、見た覚えのある人は一人も居なかった。
壁に一列に並ぶ左側に模様がある仮面やカラフルなアニメ絵、なぜかマネキンに着せられた服と言えるのか分からない服もあった。貴音はさっきのことを忘れたように作品を見ていた。変なのと笑うときもあれば、かっこいいと興奮するときもある。そんな反応を見ながら歩くと楽しくて、いつの間にか館内の作品は見終わってしまっていた。

「やっぱりあの銃の型、かっこよかった〜」

貴音はさっきから見た作品を声で繰り返す。色んな武器で細かく彫られた型のことやぼんやりと描かれているのに何の動物かどんな感情かがはっきり分かる絵のこと。楽しそうに話す貴音にやっぱりあそこで帰らなくて良かったと安堵する。
予定より遅くなったお昼に、見付けたお店へ入った。少し古くて木のドアが開けにくい。ちりんとベルが鳴ってひんやりした涼しさを感じる。カウンターは席が多く、テーブルは少なくバラバラに置かれている。テーブルには全て緑系統のテーブルクロスが掛かっていて、僕らは奥の若葉色の席に着いた。メニューは無く、レジで頼むものらしい。荷物を置いてレジに行けばメニューが多くて驚いた。貴音がさっさと決めているのを見て慌てれば、レジのおばさんが他に客は居ないから焦らなくて良いと言ってくれた。メニューを決めてお金を払う。先にテーブルに戻って貴音を指しておばさんがこっそりデートかと聞いてきた。それに首を振ればダメだねぇとからから豪快に笑い飛ばされた。嫌な感じがしないすっきりした笑い声だった。

「なんか笑われてた?」
「うん、もっとしっかりしろって」
「へー、分かってるじゃん」

貴音がうんうんと頷くのを見てそんなになのかと少し落ち込んだ。
貴音が頼んだのはバケットのサンドイッチとオレンジジュース、僕は貴音と同じサンドイッチ二つとオムライスとスコーンと紅茶。運ばれたそれに貴音はやっぱり多いと顔をしかめたけど、これでも僕にはセーブした方だった。
サンドイッチはバケットが固くてパンくずがよく落ちたけど、ざくざくしたパンと野菜はすごく美味しかった。貴音がもう一個食べたいと唸っているのを見て盗られる前に慌ててもう一個食べてしまったほど。
スコーンは割ると湯気が出るほど熱々で、中にあるケチってない多めのチョコチップが溶けて、一個貰った貴音も絶賛していた。オムライスも卵がふわふわで飽きないようにソースが二種類掛かっていた。中のチキンライスには大雑把な大きさのトマト煮の鶏肉がごろごろ入ってて、これも美味しかった。

「あそこホント美味しかった!また来ようか、遥」
「うん、また来たい」

お店を出て近くの公園のベンチで買ったクレープを食べる。甘いカスタードと生クリーム、苦めのチョコソース。イチゴとキウイがごろっと入っていて上にバニラアイスが乗っている。僕が誘ったからとお金を出したら貴音は何だか複雑そうな顔をしていた。

「館内は見たから、次は中庭と広場だよね」
「あ、パンフレットあるよ」
「ん。どっちも外か〜、暑そう」

パンフレットを開いてうんざりする貴音。中庭の作品も広場の作品も、どちらも館内に入れることが出来なかった作品らしい。それだけ大きな作品だったり、彫刻や銅像があったり。パンフレットで日の光を受けて輝くそれらを思い出す。

「そういえば遥、コンビニで買ったお茶は?」
「えっと、車に」
「置いてきたの?!」

貴音の声にへらっと曖昧に笑えばぐいっと頬を引っ張られた。馬鹿と言われて反論は出来ない。取りに行こうかと思ったけれど車は炎天下の駐車場。飲めるような代物じゃないだろうし、そもそも先生が居ない。呆れたように貴音が僕の頬から手を離す。

「ここら辺コンビニあったっけ」
「大丈夫だよ?」
「大丈夫じゃないってば」

まったくとため息を吐く貴音に申し訳なくなる。確かにくらくらしそうな真夏日、熱中症患者も多いだろう。そう思うと突然少しの喉の渇きを覚えた。

「美術館に自動販売機あったから、そこで買うよ」
「ああ、確かに入り口のところにあったね」

納得したように貴音がクレープを一口。僕もクレープを食べて晴天と言える空を見上げる。青い空が何だかぽっかりと穴を開けているように見えた。

起き上がるとくらっとして目の前が真っ白になる。頭を押さえて座席シートに逆戻りすると先生が僕の方を見た。濡れた重いタオルが前髪をぺたりとさせている。ペットボトルが差し伸ばされて、ゆっくり起き上がってそれを受け取った。体が重くて仕方ない。

「体はどうだ」
「重くて、しんどいです」
「もうちょい寝てろ」
「貴音は?」

居ない彼女を探す。なんで先生が居るのかは何となく分かったけど、貴音が居ないのは何故だろう。先生とりあえず寝ろと肩を押す。それに従ってシートに戻れば、先生は僕をジッと見た。

「覚えてるか?」
「はい」

倒れる直前のことは覚えている。貴音と戻った僕は入り口の自動販売機が大体売り切れで買いそびれたまま中庭や広場まで作品を見続けた。そのせいで具合が悪くなり、一緒に回っていた貴音が気付いてふらふらな僕を日陰に連れていった。そして貴音がどこかへ電話をかけるのを見ながら僕は意識を失った。たぶん電話の相手は先生だったんだろう。

「俺が来たら貴音は真っ青だわお前は意識無いわ」
「すいません......」
「もっと謝ってくれても良いぞ。貴音は置いてきた荷物取ってきてる」

ふざけたように言う先生に少しホッとするが、相変わらずじわじわ蝕む申し訳なさは消えない。
起き上がってペットボトルを開ける、かしっとプラスチックが外れる音。ぐいっと飲んで喉に通る冷たさに力が抜けた。微かに震える手の内側がびりびりする。血管に微弱な電気が通っているみたいだった。

「親御さんには電話してないから安心しろ」
「え」
「ホントは電話すべきなんだろうけど、夏休みも近いのに外に出れないのは嫌だろ」

先生の言葉にぶわっと一気に力が抜けた。考えていないと思っていたけど、考えないようにしていただけでずっと緊張していたのが分かる。先生がタバコに火をつけて僕の方をちらっと見てからから笑った。それほど安堵した力の抜けた顔だったらしい。

「ありがとうございます」
「貴音にも言っとけよ」
「帰ってきたら」

迷惑かけちゃったなあと額を掻く。すごくぎゅうぎゅう狭い居心地、目を閉じても内心のじくじくする痛み。ぐしゃと崩れたタオルを畳み直して額に乗せる。体温を吸って温くなっていたタオルがまたひやりと冷たい温度になった。

「ご迷惑おかけしました」

この短い人生で母にも父にも言わせ、僕自身も言い続けてきた言葉。なんだか情けなくて申し訳なさがぶわりと広がる。
先生がくわんと煙を吐いて苦笑する。

「ちょっと起き上がってみろ」
「あ、わ、分かりまし、うえぐっ」

手招く先生にゆっくり起き上がった。体調は大分マシになっている。だるい程度の体、はたと気付けばいつもよりずっと低いクーラーの温度。
様子でも見るのかなと思って先生を見れば、突然びしっと鼻先が弾かれた。鼻を押さえて先生を見ればデコピンした後の手が僕の前に。きょとんとしていると先生が苦笑のまま僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「お前はちっと遠慮しすぎる気があるんだよなぁ」
「うわっせんせ」
「良いけどな、それも個性で良いけどな?お前の良いとこでもあるけどな」
「せ、せんせぇ、ちょ、ちょっと」

犬を撫でるように髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。あっちこっちに髪が飛び跳ねているんだろう。頭も揺らされてくわくわする。先生からは心にもない謝りが僕に向けられ、今度はぽんぽんと軽く叩かれた。タバコの臭いがする。

「もうちょっと俺らに図太くなれば?」

先生がくっくっと笑いながらタバコを消す。アスファルトに擦り付けられた吸い殻。ぽい捨てと呟けばちょっと焦ったように拾う手。

「手始めにタバコ吸ってみるか?」
「なんの手始めか分からないし、先生がタバコ勧めないでよぉ......」
「多少自信が持てるならタバコでもして大人ぶってみるのも手だって言ってんだよ」

俺は見なかったことにするとタバコを差し出してくる先生に首を振る。この先生は本当に、色んな意味で心臓に悪い。引っ込められたタバコに安堵して、飲み物を飲む。先生が手を伸ばしてくるからキャップもせずに渡す。

「お前の言う迷惑は範囲がでかいんだよなぁ、我が儘も心配もなんでも、迷惑って言葉にするだろ。貴音は迷惑って口では言っても思ってないぞ」
「そんなこと......」

先生の言葉に思わず反論するけど、確かに思うところがある。拗ねたような声もそれが正しいと言っているようで、なんだかすごく居心地が悪い。誤魔化すように髪を直して先生が飲み物を飲んでいる様子をちらちらと盗み見た。

「なんで急に、そんな話......」
「そうだなぁ、強いて言うなら」

先生が足を中に入れろとドアを持つ。それに足を車内に入れるとばたんと大きな音がした。揺れる。くるっと先生が運転席まで回って乗り込んできた。あちーと襟元を引っ張っている。

「貴音が真っ青だったんだよ」

どこかでその答えを期待していたのかもしれないと思った。そう思うほど僕の心は驚かなかったし、揺れなかった。助手席に買い物袋や荷物が置かれている。ゴムのような、独特の匂いが車内に籠った。微かなタバコの臭い。小さな風を吹き出す音がする。

「『先生、どうしよう』」

淡々と声が何かを復唱していると分かった。

「『遥が起きない』」

貴音の泣きそうな顔を想像する。泣かないようにいつも以上に目に力を入れている顔。ああと思う。僕はいつも、彼女に心配させている。迷惑って、思ってない、ただ心配している。そうかとバックミラーに頷くと、先生は僕を振り返ってぱしっと軽く頭を叩いた。そして僕の後ろを見る。

「目ぇ真っ赤だぞ、貴音」
「うっさい......っ!」

僕の横を靴が飛んでいく。貴音が履いていた靴だ。後ろから声が聞こえる。不機嫌そうな貴音の声だ。
飛んでいった靴は先生の顔に見事命中していた。顔を押さえて先生が震える。助手席に僕らの荷物が置いてあった。
後ろを振り返ろうとしたら頭を両側から持たれ、ぐきっと音がするほど力強く前を向かされた。逆の方向に力が加わって、首が酷く痛む。

「だから言ったでしょ、大丈夫じゃないって」
「そうだったね、ごめんね」

まだ僕の頭を掴む手を握る。指先が冷たくて、貴音に似合わないなと思う。肩に体温が乗っかった。緊張したように震える呼吸が聞こえる。

「迷惑でも良いんだから」

貴音の震える声に、そっか、と頷いた。貴音が言うなら、そうなんだろう。貴音が言うから、そうなんだろう。
貴音が踞ったときも、無理矢理手を引いても良かったのかもしれない。先生が遅刻したとき、怒っても良かったのもしれない。でもきっと、これからも出来ないんだろうなぁ。

「貴音、心配かけてごめんね」
「してない」
「ええ、でも先生は」
「してない!」

耳を掴まれて直接声が叩き込まれる。きーんっとした耳を押さえれば、先生がやれやれと言うような顔をしていた。

「まだ時間あるけど、お前らどうする」
「遥のせいで見れてないから見てきます」
「あ、じゃあ僕も」
「ぶっ倒れたばっかで何言ってんの?!遥は留守番!」

貴音が後ろからばしっと僕の頭を叩く。ええっと声を上げたけどこの様子だと許可されそうにない。トランクスペースから貴音が後部座席に降りてくる。女の子だけど良いのかなと思いながら貴音が座れるスペースを開けた。先生から靴を受け取って荷物を持つ貴音を見送るしかない。

「先生」
「おー、どうした」
「勝手に出ていったことにしてくれる?」

先生は貴音が居なくなったことで早々にタバコに火を着ける。タバコを出したときに不気味な深海魚のチラシがポケットからはみ出てたことに気付いていない。

「今度は倒れんなよ」
「気を付ける」

いってらっしゃいと振り向かずに手を振る先生にいってきますと手を振り返してドアを開けた。ペットボトルと荷物を持って車を降りる。見ていたときより傾いている太陽が、まだまだ暑い陽射しを注ぐ。
留守番と言われたけど、そんなことをする気には到底なれない。これは迷惑に入るのかなと思いながら歩き出す。
貴音を追いかける。
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