103 | ナノ
セトシン

懐かしい記憶を思い起こしながら長方形の紙を折る。かさかさ紙が重なって擦れ合う音が時計の音は混じって、かつんっと使っていたボールペンが床に落ちてころかろと転がる。合っているのか不安になる出来上がったそれは、適当に折っただけあって端がはみ出て下手くそだ。
から、と窓を開けると風がすっと入ってくる。晴天と言うべき眩しさを眺めて目を細めた。届くなんて思っちゃいない。グッと下を持って勢いをつけて前へ離す。清々しい青い空に紙飛行機が飛んで行き、風がぶわりと吹いてごうごう耳に鳴る。白い紙は直ぐ目の前でふらり傾いてアスファルトに落ちた。

「あんま飛ばないっすねー」

急にのしっと肩の重力が倍になったように感じる。太陽の光から逃れるように手を額にくっつけて翳し、遠くを見るセトを睨む。オレの睨みに気付いたのか、セトがにかっと笑いかけてきた。誤魔化すような笑顔じゃないことに力が抜ける。後ろから首に引っ掛かっている腕をぺしりと叩いた。色が焼けているその腕に自分の肌の色がやけに目立つ。

「重い」

腕がするりと離れ、セトの気配もパッと離れる。とんっ、と窓の浅にセトの足が乗っかったのを見てギョッと後ろを振り向いた。オレの視線とセトの体がすれ違うように逆を行く。横切ったデカイ体にうわっと情けなく声を出してしまった。こっちを見た顔がニッと悪戯に笑う。
とたんっと窓から飛び出したセトは無事にざりっと地面を靴で擦った。窓の浅についた土、一気に明るくなった緑のつなぎ。地面に降りた拍子にフードはぱさっと落ちて黒髪が日光に焼ける。つやりと眩しい。

「危ないだろ」

注意すればからっとセトは笑う。大丈夫と言外に言われ、その慣れている様子に呆れて溜め息を溢した。そのまますたすた歩き出していくセトの背中を眺める。少しずつ小さく、白く眩しくなっていく。
セトは地面に手を伸ばして紙飛行機を掴んだ。くるりと振り返ってオレに大きく掲げてくる。まるで遠くの人に手でも振りそうな。手を上げて答えると、ぱあっと嬉しそうに走り寄ってきた。そんなセトが大型犬みたいだなと思って思わずぶはっと噴き出してしまう。手で口を押さえてこれ以上笑わないように耐えていれば、直ぐに戻ってきたセトはそんなオレに首を傾げてきた。

がくんっと倒れかけた体の衝撃にハッと目を覚ます。熱中症一歩手前でぐらぐらしていたオレは木陰で寝てろと仰せつかった。額に乗せていた水タオルは膝辺りに落ちてじっとりと黒のズボンを濡らしている。赤茶のベンチがオレの体温を吸って暑い。横に置かれたペットボトルにはスポーツ飲料水が半分残っている。
はたと顔を上げて上を見上げた。清々しい青い空は変わらずにそこで、オレを空々しく見下ろしている。記憶の夢を見ていたのだと気付いて情けない声でうあーと唸った。
長い煙突が空に伸び、青い中に灰色を添える。今燃えているところなんだろう、もくもくもあもあと灰の煙を吹く煙突。徐々に薄くなっていくその灰色に目を閉じた。

「大人に、ならないんだナァ......」

ぼそりと呟いた言葉は誰に聞かれることも無く掻き消えた。黒いネクタイが苦しくて指を引っ掻けて緩める。小さく少ない黒の群れは暑さでくらりふらり。大人にならなかった煙がついにふつりと途絶え、灰になる。
事故は大きな音だった。乱暴に運転していたせいで接触事故を起こしそうになった車にバイクが転倒してそれが通行人に突っ込んだ。それが体を牽いて、打ち所が悪かったそいつは病院に運ばれて死亡。目の前で巻き起こったはずのそれは、合わせてもたった二時間だった。
街路樹は生い茂ってからりと空は晴れていた。綺麗に舗装された歩道を歩く人と車道を走る車。隣を歩いていた煩わしかった温度は呆気なく冷たくなって、オレを見ていた。笑って。
ペットボトルを掴んで一気に飲み干す。温くなっていた飲料水にうえっと声を溢して立ち上がった。がこんっと鉄網のゴミ箱に入れて中に戻るために歩き出す。相変わらず暑い太陽を手を隠して空を見た。
薄情だろうか。
泣こうとは思わなかった。

セトは紙飛行機を翳してしげしげと眺めている。窓を越えて取りに行った後、キドに昼食に呼ばれてしまいうっかり返してもらうのを忘れていた。捨てるように飛ばしたのにいい加減返せと言うのも何だか変で、結局セトの手元に置いてある。宛名が書いてある羽の裏にはきっともう気付かれているのだろう。気恥ずかしさでセトを見続けられない。

「良いっすね」

さらりと言われた言葉に自分でもあからさまだと分かるほど顔をしかめた。セトは相変わらず白を眺めるだけでこっちの様子なんて気付いていない。それが憎らしいと感じる。
テーブルに置いたペットボトルを手繰り寄せてかしゅっと蓋を開いた。冷気が口から漏れ出る。ちらりと時計を見ればもう昼も過ぎた頃、昼食を取り損ねたなと思いながら新商品の菓子を咀嚼する。昼食ひとつで餓死することはない、豊かな国出身。

「女々しいだろ」

飲み込んでから口を開いた。セトはようやくオレの存在自体に気付いたようにこちらを見る。コンビニの袋に鋭い視線が向けられた気がしたが、気のせいで済ませた。
何となくセトと紙飛行機が似合うなと感じる。子供心を忘れてないって意味で。まあ十八のガキが何言ってんだって話か。けれど昔みたいに金がなくても何時間でも遊べていた頃には戻れない。何して遊んだのか、何を話したのか。

「俺は、欲しいっすけどね」

冗談かと思って顔を上げれば、冗談の顔は待っていなかった。本当に羨ましそうな顔をするセトに急にその場に居づらく感じる。そんなオレの様子に気付いたのか、セトは少し申し訳なさそうな笑顔を見せた後にいつもの笑顔を顔に戻した。

「俺が届けますよ」

紙飛行機を飛ばす真似をするセトの周りに軽い空気が漂う。冗談にして欲しいというメッセージを受け取った。何でもないように口を閉じて、開く。固い笑顔は初めて見た。

「今度のバイトは郵便屋か」

何も触れずに冗談を返せば、セトは一瞬目を見開いて、へらりと笑った。

マリーが隣でせっせと紙にペンを走らせているのを見る。もうこれはマリーの日課として定着していた。かりかりとインクの伸びる音が聞こえる。写真は毎日置かれ、定位置が決まっていた。分厚い本に挟み込まれた押し花。

「なあ」

思わず声をかければマリーはペンを止めて見上げてきた。きょとんとした顔が私のことかと尋ねてくるのをマリーをじっと見て答える。ペンの音が止んでキドが食器を洗う音が際立って大きく聞こえた。

「それ」
「これ?」

オレが指差したものをマリーが持ち上げた。十何枚にも渡るルーズリーフがクリアファイルに収まっている。日記のような物だとマリーは言うが、それが全部セトに宛てられているのを全員が分かっていた。

「もし、届いたら」

きゅっ、と蛇口が閉められる音と突き刺さる視線を感じる。キドだろうなと思いながら、もう引っ込めることの出来ない言葉の答えを待った。過保護だと思う、キドも全員。まるでマリーを子供のように大切にする。その空気が、酷く煩わしい。

「素敵だね」

暫く何も言わず視線をクリアファイルに落としたマリーはにこりと笑って言う。そこに悲しいとかそういった感情は見られない。相変わらずキツい視線は、マリーの笑顔で力をふっと無くした。
マリーは何でもないと言うようにクリアファイルを置いてオレをじっと見上げてくる。その視線から目を反らせずに居ると、マリーは急に眉尻を下げた。

「シンタロー、痩せた......?」

それにどう反応して良いか困って自分の体に視線を落とす。常に体重計に乗る生活をしていないためにさっぱり実感がない。しかしマリーは大丈夫かと視線で聞いてくる。そう言えばモモにも似たようなことを言われた。

花屋の店長がよく花束を持ってきているらしいと聞いた。事故現場にはもさりと花束の山が出来て、下へと追いやられた花から茶色くぱさぱさに枯れていく。その他にも飲み物や菓子やと色んな物が置かれていた。まるで祝いの席のように供え物はその場所を隠す。そんな賑やかな中に茶封筒や白い封筒、逆に目立たなくなっている派手な封筒。
良かったなと声をかける。あの時の言葉のままに、お前も貰えている。羨ましそうに見ていた横顔を思い出して、そして奥歯を噛み締めた。
そういうことじゃないことくらいオレだって気づいた。そういう意味の言葉じゃない。いつも遅れるオレの思考、ゆっくりと追い付いて、オレが見たときには手遅れだ。
隣は居ない、誰も居ない。

よく見れば確かに細くなっている。翳すように腕を上げて手首を掴んだ。真下は路地裏の底の知れない暗さが口を開け、目の前にはネオンの人工太陽が煌めいている。廃ビルのひとつの屋上、鍵は壊されて鉄製の柵は低くてお飾り程度。夜空は星なんて数えるほどしか見えないで月がやけに目立つ。さすがに暑い日が多いとは言えさすがに屋上は涼しい。
思い出すのはセトだった。真っ赤な血溜まりの中で笑う顔と、掴んでいた紙飛行機。血を吸って赤になるその紙飛行機がセトに溶けていくのを見ながら呆然としていた。目の前が現実か夢か、判断が付かなかった。涙は出ず、体も震えなかった。
冷えた空気が柔く吹き、かさかさと音がした。真昼の透けた月はどこにもない、ひやりとした白い光が頭上にある。乾いた空気、草木の届かない高さ、雲は一つもない。

「戻るつもりは」

ここに来る前に問われた言葉を思い出す。何でもないという顔が絶対にこっちを見なかった。目敏い奴だからもしかしたら気付くとは思っていたが、まさか見て見ぬふりをしてくれているとは思わなかった。内心驚きながらオレは107のドアから離れる。狭い路地から出て振り返れば、やっぱりこっちを見ていなかった。

「......無いな」

一瞬だけ赤く光った目の下に、悔しげに唇を噛む口を見た。見たことの無かった表情は目に焼き付ける前にするりと自然に消え、きっともう表に出ない。
ごおっと一際強く風が唸る。耳につけていたイヤホンから流れていた音楽はそのままにしておいた。深夜というような時間でもない、どこかの馬鹿デカイ液晶に妹の姿が写っている。行きに買ってきたペットボトルには黒い炭酸糖液がもうほとんど無くなっていた。どこかの部屋にぱちんと明かりがつくのを眺める。

鉄製の柵から手を離した。

ニュースは流れる。親不孝もの、家族不幸もの、罵られている彼を見る目は多い。また堅苦しい黒い服が群れになる。成人前の人生で、一体何度着なければいけないのか。

「ねえキド」

キドが泣き腫らした目を隠すように控えめにこちらを向いた。目深に被ったフードの下で皆と同じような真っ赤な目がある。そんなキドに、封筒を差し出した。どれもこれも血で汚れて赤黒い。皆が見覚えのあるそれに目を引き寄せられるのを感じて、キサラギちゃんみたいな奪う能力は無いんだけどなあとひっそりと心中でふざけてみた。

「シンタローくんの周りに落ちていたんだって」

ぼろぼろ頬が剥がれてしまうんじゃないかというほど涙の跡がひりひりする。二つの意味で赤い目がそれを隠せることに、今ばかりは感謝した。赤黒い染みが恐ろしいのに、離すことは出来ない。
一通の閉じられている封筒の封を手で破って開いた。全てがっちりと口を閉じられているため、破かないと開かない仕組み。封筒の口をぱくりと膨らませて、逆さに振った。

「無いんだよ、中身が」

ひらりと封筒を落とす。その中から、手紙は出てこない。

「ぜんぶ」

セトに宛てられた手紙は、中身だけが忽然と姿を消していた。例え彼がどれだけ同じものを見付けて来ていたとしてもそんな演出をする理由がない上に封筒に書かれた筆跡まで真似ることは出来ない。
届いたのだろうか。

「笑ってたって」

路地裏の地面で乾いた血溜まりの中、彼は確かに幸せそうに笑っていた。朝焼けの白い眩しさの中、散らばった中身の無い軽い封筒。

地面に散らばった封筒に触る。かさりと風に吹かれて微かに鳴る封筒を見ながら、手に収まった便箋を見た。読む気など無いからひとつの単語でさえ頭に入らない。乾く前に触ってしまったのか、所々の文字が黒く擦れ延びていた。薄い冊子になら軽く出来そうな枚数が手にはある。振り返ってそれを胸にとんっと押し付けた。ぱさっと乾いた軽い音が受け取られる。
手が伸びてきて首に触れてくる。指が自然にオレの頸動脈を押さえてきた。なにかを待つようにしんっと空気が震えない。しかしついには諦めたように手が降りてオレの手を握った。
ゆるりとした笑いがオレを迎える。

「大人に、ならないんすね......」
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