95 | ナノ
遥貴

享年十九歳、夏の頃だった。
九ノ瀬 遥は炎天下の暑いアスファルトの上でも木々の影の中でも、教室の変わらぬ席の上でも大きな家の部屋でも無く、病室の白いベッドの上で息を引き取った。アスファルトの熱気の中暑さを耐えて重い荷物に顔をしかめて、お見舞い用として買ってきたケーキの保冷剤を気にしながら坂を上った。上りきって見上げた先の遥の病室は窓が開いていた。白いカーテンが風を受けてぶわりと広がる様子が見えた。もはやその病室は遥の特等席となっており、壁にはいっぱいの絵がところ狭しと貼られて無機質で固い壁は色鮮やかに彩られていた。描き散らした後がリノリウムの床や鉄製のベッドの柵にこびりついた絵の具として残っている。紙という紙はすべて壁に縫い付けるようにしっかり留められている中で高校の卒業証書だけは黒い筒に入れられたままサイドテーブルの上に絵の具や鉛筆や色鉛筆などの画材と一緒に置かれていた。白いカーテンがはためく度に紙は鳴り、それに遥が元気だねと溢していたのを覚えている。遥は笑顔のままだった。ぴーっと甲高く無情な一点調子の音楽は鮮やかな部屋に大きく響き、しかしその中で眠っている遥は笑顔だったのだ。そのギャップにこれは耳鳴りではと勘違いしそうになり、私は暑さで不平を漏らし続けていた口をはたと閉じた。しかし近付けば近付くだけそれは違って、遥の額には汗が滲み、微かにいつもより眉も寄っていた。胸をくしゃんと押さえる手はそのまま。一目で苦しんでいたと見て取れるのに遠目には幸せそうに見えるように遥は笑っていた。
許されないかもしれないが、その時私は泣くことも怒ることも出来なかった。何度も想像しては泣きかけていたその瞬間だったのに、人間ってものは衝動に弱い。首にかけていた一眼レフを構え、ようやく脳にびりびり届いた事実に体内に毒のように溜まっていた暑い息を吐き出した。

私はただその事実に一回シャッターを切る。

カメラを始めたのはやはり遥の影響だった。
あの遥が倒れた日の夕方に私は学校の廊下で気絶していたのを見付けられ、そしてそのまま病院へと担ぎ込まれた。異常は全く無かったが祖母が過剰に心配をして私は入院を強いられてしまったのは今思い出しても恥ずかしい。しかし心配してくれているのだと思うとどうにも大丈夫だからとは言えず、結局私は折角の夏休みだと言うのに病院で日々を過ごした。
遥の強い要望で私はそのとき遥と同室になった。一人じゃ寂しいからと、本来なら個室でも許される遥の病室にわざわざベッドが運び込まれ、私は自覚した想いと罪悪感を片手に遥の隣で悶々と過ごす日々。あの時なんて無かったように遥は屈託無く私に話し掛け、そして絵を描いては見せてきた。専ら話題はゲームや大会に参加出来なかった残念、夏期講習を受けれなかったことへの申し訳無さだとか。
私だけが息苦しい空間、それに酸素を送り続ける遥。満足に息をしようと思うのなら方法は自分から水面に出れば良いのに、私はまたまた挫けてしまった。いざとなると言葉が出ない、来る日も来る日も遥が発作の時の話題を出さないことに安心し、自分の狡さに心底嫌気が注す。それを忘れたかったのか、何なのか。
そんな中で遥は絵を描き続けていた。毎日毎日飽きもせず紙に向かいさしゃさしゃと鉛筆を動かす手。静かで淡々と、そこだけ特別な空間みたいに。私は頭が良くない、それに絵も描けないし小説だって無理だ。それでも遥が一人っきりのような特別な空間が羨ましくて妬ましくて仕方無い。私もそこに入れれば、遥に話せるんじゃないか、話し掛けてても許されるんじゃないか。そんな甘い考えがあった気もする。お遊び程度にケータイのカメラを散歩中の外で使ったのが始まりだった。
ボタン一つで私は鮮やかさを切り取れ、時を止めた。ちまちまと思い付く時に撮っていた私はその事に気付いてからはどんどん写真にのめり込んでいった。思い付く限りの時間をどんどん撮って、思い付く限りの場所をばしばし持ち運んで、思い付く限りの人物をぱしゃぱしゃ連れて歩いた。ファイリングした冊子は片手を越え、そしていつの間にか退院が近付いていた私は写真にどっぷりだった。

「多い」

入院生活中、冊子をばらばら捲って呟いた言葉だ。遥がわざわざ絵を描いていた手を止めて苦笑いをしていた。点滴は取れ、遥も退院して良いと言われていた時期だった。熱中症を心配されて外に出ない上にベッドの上ばかりだった遥はいよいよ色白で済まないほど真っ白で、写真を撮りに出掛けていた私は微かに焼けて遥と並ぶと劇的だった。羨ましさと複雑さを持ちながら遥の腕を真顔で見詰め続けたことがある。その時の遥はひくりと怯えていて私は思わずムッとしていたな。

「そうだよ」

遥にそう言わしめすほど写真を撮っていたと気付き、はたと頬が熱くなった。もう私は夢中だったのだ。途中からはケータイでは無く祖母にねだり口説き落とし頼みに頼んで買って貰った小さくそこまで高くないデジカメが相棒になり、様になる写真を撮っては遥に見て見てと報告していた。
結局入院生活中、遥に謝れず告白も出来ず、私はカメラに虜になっただけだった。二人とも退院して日常に戻れば、少ないお小遣いを駆使して写真集を買い、残りを貯めては一眼レフの目標物を画面越しに眺めた。ゲームも勿論やり、鈍りに鈍った腕を磨いては写真集を見てカメラであっちこっちを見る日々。そうしてずるずると引き摺りながらはたと前を見れば、いつの間にか約束していた学園祭はもう目前だった。

先生が黒いスーツを着て煙草の煙を燻らせていた。昔に聞いたが、夏の葬式が一番嫌いだと先生は溢していたのを思い出す。
白と黒のストライプの幕、参列者は大体黒くて暗い。そして棺で白い花に埋もれる遥はずっとずっと白い。遥の遺影には私の写真が使われた。享年十九歳、若いのに、病気だとか、そんな声がひそひそと響いて遥のお母さんの背中を容赦無く刺すのを見ている。見ているしか、できない。

「現実味がないだろ」

突然私の横に立っていた先生が口を開いた。眼鏡の下に濃い隈がくっきりと残り、しかし何とか身だしなみを整えてきたというような急な小綺麗さが一年前の教室とは違っていた。煙草を咎めるような視線に何度か会いながらも先生は火を消さない。

「夏は色が濃いだろ。空だとか花だとか地面だとか人だとか」

煙がもわりと昇っていく。常ならば私も注意したかもしれないが、どうにもそんな気にならなかった。先生がぼんやりと空中の煙を見詰め、眼鏡の奥でふっと目を細める。

「白と黒で統一された空間は、色が無い」

持ってきていたらしい携帯灰皿に煙草を押し付け、今度は煙草を取り出さなかった。ぐしゃりと箱を潰した先生に空なのだと知る。私たち二人を煙草臭さが染めて囲んでいた。参列者の女性がぱたぱたと暑さにハンカチで扇ぐ、ヤニ切れで苛々して舌打ちする男性、よく分かっていないはしゃぐ子供、悲しそうな顔をしながら遥の名前すら思い出せていない元同級生。ご冥福をお祈り...それが間違いであるらしいと知っている人は居るのかどうか。
現実味がない、よく分かる。空が青々としている、花が鮮やかに、人は健康的な小麦色。アスファルトに引かれた白線だって黒ずんでずっと現実的だ。

「先生、私は」

そっと口を開く。私の声はみっともなく震えて、それが自分の声だと分かるのに数秒要した。遥のお母さんは私より震えている。遥のお父さんはそんな妻の隣で疲労の顔と悲しさを入り交じらせている。なのになんてみっともない。先生は黙って頷きもせず聞いてくれる。

「遥に、言えなかったんです」

先生はその言葉に私の方を見た。その気配を感じながら私はひたりと前を見詰め続ける。
結局私は言えなかった、何度も何度も声に出そうとしてその度に怖じ気づいた。狡い私は未来を知っていた。遥は絶対に、長くはない。狡い私は言ってしまって玉砕して、それで昇華をさせることを避けた。
ただ、一度だけキスをしたことがある。
それはもう幼い物で、だけど幸せだった。もう二度と、それは行動として甦らない。鮮やかに記憶されている、私の脳内フォルダ。

空気が凍っていたように思えた。秋なのに私は汗をかいて、そしてその汗が凍って私を覆う。真冬に放り込まれた気分で私はリノリウムの床に視線を固定させた。ごとんごとんと嫌に脈打つ心臓と気持ち悪さにぐらぐらする。

「ごめん」
「ど、どうしたの貴音、何がごめんなの?」

急な私の謝罪に遥は驚いていた。それはそうだろう、さっきまで学園祭は何をしようか、去年はMVPだったんだから今年はもっと頑張ろうか、なんて学生らしい生活一ページ。それは私が急に立ち止まって急に黙り、急に謝り、そのせいでびりびり破かれる。推敲のし直しを担当者は考えるだろう。

「きゅう、急じゃなくて、ずっと、言おうと」

私が謝罪の場をそこに選んだのは、さっきアヤノと通りすがったからだった。私と遥を見て少し眩しそうに羨ましそうに目を細めた彼女に、私は今までのツケを見た。アヤノとシンタロー、並ぶ姿。写真に撮りたいなどと馬鹿な考えはその時焼失し、灰となって私に降り積もる。忘れていた訳じゃなかったのに、忘れていた気になっていたのだ。なんて、狡い。
遥はわたわたと焦り、情けなく顔を悲しそうにして私を見ていた。どうしよう、そんな声が聞こえてきて途端に情けなくなって泣きそうで、私はぎゅうっと目に力を入れる。

「あの日、私が無視して、遥が」
「貴音......?」
「遥が、しに......、私が変な意地で」

鈍感の遥だってここまで来れば何も言わなくなった。何度も何度も私の名前を困ったように呼んでいた遥はしゅんっと静かになって私の前に立っていてくれる。私は誤魔化されなかったことに少し苦しくなって、けど言葉を止める気にはなれない。目に力を入れても涙は溢れて重力を受けて床にぱらばたと落ちた。落ち葉をくっ付けた枯れ枝が窓をこんこんと叩き、遠くで聞こえるバカ笑い。きゅうっと喉が閉まって声が出にくくなる。どんどん顔も何もかも熱くなっていくのが悔しい。

「貴音、こっち行こう」

気を使ったのか遥が私の手を握って理科準備室の教室に入った。それだけで胸が痛くなって、私は握り返せずに腕を引かれた。二つの机が仲良く並んでいて、遥は私の席の椅子を引いて私を座らせた。
カーディガンの袖を引っ張って目に押し当てる。ひっくひっくと嗚咽が喉を打って、もう満足に喋れなかった。遥はそんな私を見てマイペースにタオルってあったっけと自分の鞄を引っくり返した。しばらくごさがさ漁っていた遥があったあったと持って来たのは絵の具だらけの汚ならしいタオルで。

「ひっ、う......拭けるわけ、無いでしょ......」
「あれ、ダメ?」

ダメもダメだ、ダメダメだ。遥の馬鹿。
遥がダメかあと言うのを見て私は微かに笑う。遥は私にタオルを使わせることを諦めたようで、タオルを鞄に仕舞って私の目の前に椅子を引いてきた。そして向き合う形で座る。誤魔化している訳じゃない遥に、さっきと違いホッとした。感情に任せて泣いたお陰でちょっと冷静になれた。

「夏期講習で、はるか」
「ああ......。ずっと気にしてたの?」

こくりと私は頷いた。後悔していた、自責の念は消えなかった、ずるずる今まで引き摺ってしまった。遥の静かな落ち着いた声は、その引っ掻き傷に染みる。嗅ぎ慣れた薬品の臭い、二人じゃ静かでちょっと響く声。私たちの教室。

「そっかあ、ごめんね」

一瞬遥が何を言っているのか分からなかった。
私はその言葉にがんっとショックを受ける。思わず泣き顔で遥を凝視した。この男は何を言っているんだと自分に聞く。そんな私の様子に遥は少しぱちぱちと目を瞬かせ、きょとんとする。きょとん、じゃない。

「は、はるかがあやまっちゃ、ダメじゃん!」
「え?」
「ダメなの!」

ダメだ。ダメなのだ。
何度もダメだダメだと繰り返す私にいよいよ遥は困っていた。けどダメなものはダメだった。写真を撮っているときは大丈夫だと思うのに全然ダメな写真が出来上がっている。ゲームをしてそこそこだろうと思えばそうでもない成績だったとき。良い気分が台無しにされる瞬間に似ている。似ているだけで一緒じゃない。

「遥が怒んないとダメじゃんかぁ!なのになんで謝るの!」
「た、貴音泣かないで......」
「泣いてないよ!馬鹿!遥の馬鹿!」

子供っぽい。思い通りにならなかったから癇癪を起こしている子供。だけどその癇癪が全て間違っている訳じゃない。ぼろぼろとさっき以上に泣きながら私は遥に馬鹿と繰り返す。もしこの教室の前を誰かが通ったら本当に高校生か疑うかもしれない。駄々を捏ねる子供。

「ダメじゃん......っ」
「うん、ごめんね貴音」
「だから、ダメって......なんで謝るのよお......」
「あ、ごめん、ってあああ!違うよ、その......!」

端から見たら滑稽だろう。泣いて怒って謝ることを止めさせる女子高生、困惑して謝ってそれを責められる男子高校生。なんて、可笑しい。
ごしごしとカーディガンで涙を拭けば赤くなると慌てて止められる。それでも頬を伝う涙はくすぐったくて痒い。

「ごめんね遥......」
「泣かないで、大丈夫だから」
「違う、気付かなくて、ごめん」

もう二人で立ち上がってしまっていた。いつ椅子から立ってこんなに近い距離で話していたか忘れて、私はやっと謝った。謝り続ける女はウザいだろうか、それでも謝らざるを得ない。反省していると言いたい訳じゃない、すっきりは確かにしたい、可哀想がって欲しい訳じゃない。関係性を戻す言葉はごめんと好きだ。好きだから戻りたい、好きだから一緒に居たい。私は遥と一緒に居たかった。

「平気だよ、もう大丈夫だよ」
「うぅ、ひっく」
「ねえ、貴音」

遥が優しく呼んで、ぎゅうっと手を握る。この手が冷たくなったことを思い出すとゾッとした。夏なのにひんやりとした体温は確かにあったのだ。遥はそっと顔を覗き込んでくる。酷い顔だって自覚がある。見られたくなくて顔を反らして片手で隠す。

「じゃあ今度は、気付いて欲しいなぁ......」

遥はどんな顔をしているのだと気になって、意地が先を行って手を退かすことが出来なかった。もしかして泣きそうだったのか、もしかして寂しそうだったのか。気になって、だけど私は悲しかった。遥はまた発作になることを知っている。
私は何度も何度も頷いた。遥は優しくて怖い。

「ありがとう」

なんで遥がお礼を言うんだろう。また言いそうになったけど、あとちょっとで止めた。繰り返してもこいつが堪えないのは分かっている。はーっと息を大きく吐き出して暫くの躊躇いからごしごしと顔を拭いてバッと顔をあげた。遥は私の急な行動に少し驚いたように目を見開いていたけど、すぐにへなっと力無い笑顔に変わる。

「遥、私は」

貴方が。
勢いのまま口を開く。言ってしまおうと思っていた言葉、言わないとと思っていた言葉。喉に引っ掛かってしまいそう。ドクッ、ドクッと鼓動が鼓膜を打つ。遥の顔を見たまま視線を合わせて、私は。

「遥が」

遥が。遥が、近い。
それはちょっとズレていた。目の前がちかちかして、蛍光灯が明るい。ふっと遥が薄く息を吐いた。勢いのまま全部を言い掛けていた声は出ない。

「......今度の学園祭、何しよっか」

遥は不自然に話題を変えた。

悲痛な声に名前を呼ばれる。その聞き覚えのある声に振り返るとそのまま思いっきり抱き付かれた。先生が後ろで支えようと構えていたようで私とその子は地面に倒れることはなかった。しかしけほっと軽い先生の咳が聞こえる。

「アヤノ、ちゃん」
「貴音さ、......っ」

アヤノの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。髪もぼさぼさで息がぜえぜえと荒くて、一目で走ってきたのだと分かった。後ろからやっと追い付いてきたのかゆっくりと歩いてきたシンタローは私とアヤノを見て顔を軽くしかめる。近付いてきてアヤノの肩を叩くシンタローをぼうっと見た。いつもならもう喧嘩だろう、生意気な顔で私を見て何見てるのとか言ってくるんだろう。けれどシンタローは何も言わずにアヤノを私から離して挨拶してくると離れていった。
アヤノはいつも通り真っ赤なマフラーをしている。真夏日で熱そうなそれは眩しいほど。真っ赤な。それはいつだったかアヤノに夏でもと聞けば下の子たちがと照れたように告げられた。その時の顔はシンタローの時とは違っていた。

「アヤノちゃ、」

白黒の中で原色は見当たらない。アヤノの赤以外。どうしてか頭がぐらぐらし出し、目の奥がじわっと溶ける。鼻の奥がきゅーっと痛くなってきた。

「遥、遥がね」

目に赤が染みたのかもしれない。ぼわぼわと歪んだ視界に、私の中に言葉にしなければという義務感が突然現れる。アヤノが私の言葉をくしゃりと顔を歪めながらも聞いてくれる。今度は優しく抱き付いてきた熱い体温。

「あいつ、死んで」

現実味が急に私の舌を襲う。あの病室から私は固まってしまっていた私はそれを味わう。苦くてぴりぴりしていて辛くて。アヤノの背に手を回して、がたがたと震える身体を抑えようとする。
遥、遥。
心の中で何度も呼ぶ。

「遥......っ」

声が死ぬ。先生が私の頭を撫でた。アヤノがぎゅうっと一層強く抱き締める。帰ってきたシンタローが痛そうにしている。周りが急に色付いた。写真を撮れたらと思わず願う。もしかしたらまた私を止められるかもしれない。

私ずっと、遥に言いたいことがあったんだ。
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